蒼 の 揺 ら ぎ
初出:Nov.99.

 月の輝く夜だった。
 波打ちぎわを香がゆっくり歩いている。
 時折しゃがんでは、波と戯れていた。
 その足元に冷たい波が寄せては引いていた。
 香の足を濡らすことなく、波は引いていった。

「ねえ、ここから海って、近いよね?」
 急に香がそんなことを言い出したのは依頼が片付いた帰り道、車の中でのことだった。すでに春がやってきている時期のはずなのに、少し寒かった。ミニの車内はヒーターで暖められた空気が籠もっている。
「せっかくだからよって行かない?」
 俺は顔をしかめたと思う。
「お前、そんなこと言ったって、腕は大丈夫なのかよ」
「だーいじょうぶよー。ちょっとぶつけただけのもの」
 香は笑って怪我した方の腕を振ってみせた。長袖のシャツに隠れて見えないが、白い腕には青紫の内出血が広くアザになっているはずだ。そもそもぶつけたなどという自動詞は正しくない。殴られたというべきだった。
 依頼人をかばって出来た傷だった。まあそれでも切り傷ではないから縫う必要があるわけでなし、痕に残ることもないだろう。
 それはわかっている。
 それはわかっているが、そんなことは俺の慰めにはならなかった。
 俺は心のうちで溜息をついた。
 せめて、多少のわがままは聞いてやるかという気になった。
 俺の心の負担をわかった上でのわがままかもしれなかった。
 ちょっとした無理を言うのは俺に何かを与えさせるふりだ。そうやって本当は俺を救っている。俺は、そうして救われている。

 丸く小さな月は天頂近くで海面を青く照らしていた。
 夜空は藍を重ねた色だった。月が明るすぎて星は見えない。
 海水浴のシーズンにはまだ遠い。もう夜──というより夜中であるからサーファーの姿すらない。人気のない海はやけに寒々しく思えた。
 いや、寒々しいというより実際吹き付ける潮風はかなり寒いのであるが。
 散々はしゃいだ後、今の香は波打ち際にしゃがみこんでいた。俺はその傍に立って声をかける。
「お前、あんまりはしゃぐなよ。腕は大丈夫でも、風邪ひいたら間抜けだぞ」
 満月の夜、人の心は不安定になる、なんて話もあるが……。
「……平気」
 一拍の間をおいて返ってきた声には、覇気がやや欠けていた。
 遊びすぎでお疲れか、などと思わず逃げを考える。
 けれど失敗した。自分を騙しきることはできそうになかった。
 腕が痛むのかもしれなかった……それとも痛むのは胸だろうか。
 かける言葉もなく、俺は月を見上げた。
 いつよりも安定した輝きを放つ月が、人を不安定にさせるのか?
 そんな馬鹿げたことを頭の隅で思う。香を不安定にさせているのは、きっと月ではないだろう。
 黙って香の様子をうかがうが、月明かりの陰になってその表情は見えない。
 ただ、香は無言でその手を波に差し伸べていた。
 波はその指先に惹かれるように寄ってきては、濡らすのを躊躇うように香には触れることなく引いていく。
 ただその繰り返しだ。香を濡らすことはない。けれど、必ずその指先へと返ってくる。
 ……どこかの誰かを思わせるな。

「波って、撩みたいね」
 人の心を覗いたように香はポツリと洩らした。
 俺は思わず聞き取れなかったふりをした。
「あん?」
「なんでもない」
 そしてまた、香も引いてゆく波に踏み込もうとはしない。
 波打ちぎわに座っているだけで、波の方から触れてくるのを待っているように見えた。
 香は、なにかを振り切るようにスックと立ち上がった。
「帰るのか?」
「もう少しいたい。ダメ?」
 小首を傾げてのおねだりに、俺は呆れて見せた。
 香の明るい表情が二人をいつものペースに戻そうと無言で告げてきていた。
 やはり俺は助けられている、と思う。
「……ったく、しょーがねーなあ。もう少しだけだぞ」
「うん、わかってる」
 香はそう言うと、また波打ち際を歩き始めた。

 俺はその背中から目を逸らすと、海へと視線を移して煙草に火を点けた。
 凪いだ海、水面は静かに月明かりを反射している。
 銀色に輝いて見えても、その下は深い闇ってか。
 一見静かに見えても、海は満ち引きを繰り返す。水面の揺らぎがやむことはない。
 近寄っては離れていく。そしてまた近寄る。
 ただ、月の満ち欠けに合わせて繰り返し、繰り返す。
 ……もし。
 もし波打ち際ではなく、彼女がもっと深くに踏み込んできたら、波は、香をさらってしまうのだろうか。
 波は、さらうことが出来るのだろうか。

 ……そろそろか。

 俺は短くなった煙草を携帯用の灰皿でもみ消すと香の姿を探した。
 いつの間にか、その気配はずいぶん遠くにまで行ってしまって……。
 そこで俺の思考はとぎれた。
「──────」
 自分の手から灰皿が滑り落ちるのを、まるで人事のように感じていた。ひゅっと、喉元に息が詰まる音がした。
 ざぶざぶ音を立てて、香は海の中に入っていって、いた。
「……、香!!」
 自分の声に弾かれるように、俺は慌てて香の後を追った。スカートから伸びるむき出しのひざまで水に浸かって、それでもまだ前に進むのをやめる様子がない。追いついて、その肩をつかんで引き寄せた。
「香!」
「…………、え?」
 まるで我に返ったように、香は俺を見上げた。いったい何事?と、その顔には書いてある。
 ぷちっと、こめかみの辺りで何かが切れる音を俺は聞いた。確かに聞いた。
「〜〜〜〜っ、何やってんだお前は!」
「え? 何って……、あれっ?」
 今の自分の状況を見て、むしろ香自身の方が驚いたらしい。
 思わず頭を抱えたくなった。いつからコイツは夢遊病になったのか。
「お前なぁ」
 俺はあきれ果てて、思わず苦い声を出した。
「ご、ごめん……」
 いたたまれないように香は首をすくめる。
 ごめんで済めば警察はいりません、などというどうでもいい言葉が脳裏をよぎった。俺の頭も少なからずおかしくなっているらしい。
「ごめんじゃないだろう。お前、いつから自殺志願者なんかになったんだ?」
「そういうわけじゃないってば」
「お前な。そんなカッコでこんな時期に海にずかずか突き進んで行くなんざ、それ以外の何者でもないだろ」
「ホントに違うったら」
「じゃあなんだってんだよ、いったいよぉ」
「うーんと、だから、ただ……」
 そこで、香は言葉を切った。
 ──『波にさらわれてみたくなった』──
 続く言葉は、なぜかそんな言葉のような気がした。
 一瞬、香と自分との間に、口にしなくても言葉が伝わるホットラインが繋がったと思った。心のピントが合った。香の思いが確かにダイレクトに伝わると感じた。
 『さらわれてみたくなった』?
 波に? ……それとも?
「たぶん、月のせい、かな……?」
 香が小さく言った。
 その言葉に俺は、勝手に思いついた言葉について真剣に頭をめぐらせた愚に気づく。
 けれど、同時になお、未練がましく思うこと。
 月のせいで、一体何を思ったのかと……。
 聞く勇気はなかった。
「とにかく、とっとと上がるぞ。まったく、俺まで風邪ひいたらどーすんだよ」
 強い潮の匂いをはらんだ風に吹かれて寒い。俺は香の肩をきつくつかんで、陸に向かう足を速めた。
 やむことのない低い波音に、気を抜けば後ろの暗い海にそのまま香を奪われそうな、そんな恐怖を覚えたような気がする。
 この細い肩の持ち主が、自分の生命線なのだと今さらながら痛感する瞬間が確かにあるのだ。

 帰る車の中、途中で眠ってしまった香に、そっと触れる。
 始めは手に、それから海水に浸かっていたひざにも。
 腕の怪我は、確かにたいしたことはなさそうだ。
 車に乗った当初は冷たかったに違いないひざも、今ではぬくもりを取り戻していた。
 それだけを確かめて、安堵して、手を離す。
 それ以上触れることはない。
 今は、それで十分だった。そう、今は……。
 けれど、こいつは俺にさらわれたいのか?

 ──海の波と同じように、月の光に照らされて、この心の波も静まることはなさそうだった。
 

<FIN>