辺りは一面の白。
荒涼とした白い平野に、降り積もる白。
そして、遠くの景色は灰色にかすんでいる。
無彩色の世界に、唯一鮮烈過ぎる色彩で咲く朱の花があった。
花など咲くはずもない白を苗床に、咲く花があった。
花ではない。それは血だ。
白は、苗床ではない。
苗床は、血の花を咲かせているのは、他ならぬ自分。
そんな夢を見たことがあった。
それはあくまで、夢の話に過ぎない。足元に気をつけながら、香はすでに30分ほどもこのなれない雪道を歩いていた。
夢の中の話ではない。
いま降っているのは、まぎれもない本物の雪だ。
東京でこんなに降るのは珍しいことだった。まして、この時季に。毎年東京に寒波が訪れる時期より2週間は早い。
疲れたなと、香は思った。
滑らないように気をつけながら歩いているせいか足に疲労がたまっていた。履いているのはローヒールのパンプスだから、ハイヒールに比べればずいぶんましなはずだが、それでも疲れた。
四苦八苦しながら歩いているせいで、寒さをそんなに感じないのだけは救いだ。
香は足をいったん止めて空を見上げた。
街灯に照らされて白い雪は羽のように降りてくる。
確かに珍しい光景だった。雪は、東京で生まれ育った香にとって見る機会の多いものではない。
暖かい部屋の中から見ていれば、さぞかし嬉しい風景だろうに……。
香はやや重い溜息をついた。再びその雪の中を歩き出す。
「神をも恐れぬ所業、よね」
口の中で小さくそう呟いた。
クリスマスイブに殺しを依頼してくるような男に対しては、妥当な評価だろう。
──こんなことならやっぱり行かなければ良かった。
香は一人後悔する。
イヴの夜くらい、撩と二人でゆっくり過ごしたい。それは当然の人情だと思う。
まして、掲示板の字は男性のものだった。撩が頷く可能性は低い。
本当は無視してしまおうかとも、少しは思ったのだ。
だがしかし、冴羽商事の経済状態はまさに「このままでは年を越せない」域に達しており……これ以上は言わずともわかるだろう。
「でも、さすがに、今日の依頼は無理だわ」
思い出して香はひどく苦い気分になった。
商売における競争相手を殺して欲しい。その代わり、金はいくらでも払う──。
そんな依頼、香としてはとてもじゃないが受ける気にはなれなかった。
何より撩が絶対に頷かない。
香は収入を諦めて早々に商談を切り上げた。だが悪いことというのは続くもので帰りに乗った0急線は早々に運休を決めてしまい、結局、彼女は新宿まであと2駅、というところで降ろされた。
あと2駅という微妙な距離のせいか、それとも依頼のせいか、なんにしても香は撩を呼び出す気にもなれなかった。結果として、彼女は雪道を散歩する現在にいたっていた。手にぶら下げた袋がひどく重く感じられた。
袋はきれいな包装で、中身は極上の赤ワインだ。
今日の依頼主が「お近づきのしるしに」と、香にくれたものだった。
もったいないが、これも手をつける気になれない一品だった。
できるならその場でつき返してきたい代物だった。
実際、渡された時に「けっこうです」という一言は香の喉元までこみ上げていた。
だが、香にはそれができない事情があった。
「……」
香の口元から白い吐息が立ちのぼる。
今度の彼女の溜息は、先ほどのそれより単調さに欠いていた。殺しの依頼を香がその場で断ることはない。
殺しを依頼するということは依頼者にとっても大きなリスクを伴うことだ。
それを無下に断れば、どんな報復が待っているか分からない。
そう言って撩は、香にそれを堅く禁じていた。
香の兄の死の記憶が男の中で根深く残っているせいもあるだろう。
香の兄は、依頼を断った帰りに殺された。
いや、それは依頼といえない依頼だったのかもしれない。始めから、香の兄は殺されるために呼び出されたようなものだったのかもしれない。
けれど、依頼を断ることが危険を伴うのは確かだろう。そのくらいは香にもわかる。
いいかげん撩が男の依頼を嫌がる本当のわけが、香にはわかるような気がしていた。
いや。
もちろんあの人類史上稀に見るもっこり男のことだから女性の依頼のほうがいいというのも間違いなく本心に違いないだろう。
けれど、男の依頼を受けない理由は、おそらくもう一つ存在する。
『殺しの依頼を持ってくるのは、明らかに男が多い』
たぶん、そういうことなのだろうと香は思う。
ただ、それは撩自身が殺しの依頼を引き受けたくないからなのか、それとも香に殺しの交渉をさせたくないからなのか、その両方なのか、そこまでは香にもわからなかったが。ぶらぶらとワイン入りの袋を前後に振る。
「どうしよう、これ……」
きれいにラッピングされた袋を見ながら香は途方にくれた。
叶うことなら路上に叩き付けたいくらいの気分だった。
このワインを見ていると、殺しを依頼されるような仕事を生業にしている自分たちこそが神をも恐れぬ真似をしているのだと思い知らされるようで、嫌だった。
こんなものはなかったことにして、今日の依頼ごと記憶から消してしまえれば万々歳なのにと、ひどく後ろ向きな思考に走りたくなる。
ただ、この降りしきる雪の中で飛び散る赤ワインを想像するのは、あまり気持ちのいいものではなかった。
あの夢を、思い出す。いつ頃見たかも覚えていない夢だが、確かに香はあの夢を思い出した。
白地に飛び散る赤い液体という眺めは、あまりみたいものではないと思う。
結局どこかでもったいないという思いも働くのか、さすがにワインを放り出すような真似はできなかった。
街灯に照らされて白い雪が迫ってくる。
潔癖なまでの雪の白さが香の目には痛かった。
いくら人を殺したことはないといっても、この雪ほどにきれいな存在でないと、香は自身を振り返る。自分がきれいだなどと、香はかけらほども思っていない。
案外あの男だけはそういう幻想を抱いているのかもしれないが、それは香にはどうしようもないことだった。
再び溜息をつこうとした香は、すぐ近くに小さな教会があることに気がついた。
門が開きっぱなしになっているところを見ると、今夜は解放されているらしい。
香はその教会の前で思わず立ち止まってしまった。
息が白く立ち上った。どういう動機があったのか、それは香にもわからない。
クリスマスらしさを感じたかったのか、懺悔でもしたかったのか、
それとも単に雪道を歩くことに疲れたのか。
いずれにしても、香はその教会の戸を押した。その教会の中に人の気配はなかった。
もうイヴのミサは終わったのだろう。
東京で降るやや重い雪は、先程まで香の傘の上でサラサラという音を立てていたが、教会の中はしんと静かだった。
ワインの包みを横に長く並んだ机の上に置けば、ごとりと重い音を立てる。異質な物音に思えた。
また静けさが戻る。ただ静かで、けれど空虚ではない。
おごそか、という言葉が自然と香の脳裏をよぎった。
こういう雰囲気の中にいると、不思議と『神様』というものが本当にいる気がしてくる。
──いまなら何か願い事の一つも、祈れば叶えてもらえそう。
「──あたしの願いは──」
なにげなく呟いたはずのその一言は、それでもこの静けさの中で大きく響いた。
自分の声の大きさに臆して、香は思わず口を閉ざす。
──あたしの願いはなんだろう。
香はそう自問した。
──『ずっと、撩と一緒にいられますように』?
やはり、というかなんというか、まず浮かぶのはそれだった。
香は一人苦笑する。
けれど、香にとっては卑しいとさえ思える問いを、もうひとりの彼女が投げかけた。
──じゃあ、ずっと今のままでいいの?
香は笑みを消した。
「……浅ましい」
敢えて口に出して、その問いかけに答える。
この場で願うには、ひどく不謹慎な願いに思えた。
──それとも。
香は軽く首を傾げた。
決して信心深いとはいえない自分がいきなりこんなときだけお祈りしようというのが、そもそも間違っているのだろうか?
香は自嘲を浮かべて髪をかき上げた。
「ちょっと、調子が良すぎるかな?」
「何の調子がいいって?」
「え?」
独り言に対する、あるはずのない返事に香は驚いて後ろを振り返った。いるはずのない男が立っていた。
「お前、こんなとこで何してんの?」
「撩こそ」
香は目を丸くした。
いるはずのない場所に突然現れた男に対して呆然と尋ねる。
撩はちょっとな、と言葉をにごした。
それで香にはひらめくものがあった。
──ああ、そうね。こんな偶然あるはずがない。
口には出さずに香は一人納得した。
たぶん、撩は帰りの遅い相棒を探して発信機の信号をたどってきたのだろう。
おそらく殺しの依頼をしようとしている人物がいるという話を、どこからか手に入れてきたのだ、彼は。
香が感づいたことに撩も気づいたようだった。
一瞬、二人の間に気まずい沈黙が淀む。
男はわずかに息を吐き出した。
話を延ばしても仕方ないと判断したのは、撩のほうだったらしい。
「依頼人にあってきたのか?」
「うん、まあね」
「で、どういう依頼だった?」
香は肩をすくめた。
「殺し」
「神をも恐れぬ所業だな」
間髪いれず返ってきた男の言葉に、そんな場合でないと知りつつも、香は小さく吹き出した。
「おいおい、笑い事かよ」
「違うの。あたしも同じこと思ってたから……」
香はひらひらと手を振って否定した。
「でも、おかげで本当に年が越せないかもしれないわよ」
暗に殺しの中でも引き受けがたいものだったと言う。
ようやく笑いを抑えて、香はわざと難しい顔をしてみせた。
少し場が和んだ気がした。
「やれやれだな」
今度は男が肩をすくめる。
「いっそ依頼がきますように、なんて祈ってみたらどうだ?」
撩はそう言って、顎をしゃくると祭壇の十字架を示した。
香も思わず十字架に目を向ける。
十字架にはりつけにされた人の姿が、なぜかひどくはっきり見えた。
──神様の前で人殺しの話なんて、神をも恐れないのはどっち?
香の中のもう一人香が自分をわずかにあざ笑った。
「……夢がないわねー。せっかくのクリスマスなのに」
香は唇をとがらせて言った。声は揺れていなかったろうかと、わずかに不安になって彼女は慌てて付け加えた。
「それに、この場所にはなんだか不似合いじゃない? 依頼のお願いなんて」
「じゃ、どんな願い事ならいいわけ?」
「それは……」
先ほどの自問が繰り返されて、香は自己嫌悪に近いものを感じた。
ぱっと香は顔を上げて、男を見つめた。
「ねえ、撩は? 撩だったら何をお願いする?」
「あぁ? 女子供じゃあるめーし、んなもんするかよ」
なにそれ、ひどーい。
そう言いかけた香は、撩がほとんど独り言のように続けた言葉に思わず口を閉ざした。
「第一、俺の場合、神罰が下るのがオチだろ」
どこか自虐的な匂いを放つその一言は、香の心の上を冷たく滑り降りた。正直に言ってしまえば、香にとって撩の『殺し屋』としての側面は印象が薄いのだ。
それでもこの男の、この世界での「名声」と呼ぶべきものは、多くの人をその手にかけてきたからなのだろうということも、わかっていないわけではなかった。
実際に目の前で撩が人を殺す姿だって見てきた。
印象が薄いだけだ。決してわかっていないわけではない。
──だけど、それが事実でも……。
香は思う。
撩はすでに十分その報いを受けているのではないかと。
冴羽撩がこれまでの人生でどれほどのことを体験してきたか、香には計り知れない。
ただ、きっと多くのものをなくしてきたのだろうと香は想う。
自分の手で、大切な人たちを殺さざるをえない、そんなことがあったことも香は知っている。
何より、『殺し屋』をやるには、このひとは優しすぎる──そう感じずにはいられなかった。
その優しささえも神様から与えられたものだとするなら、あるいはそれ以上の神罰はないのではないか。
「どした?」
呼びかけられて香は我に返った。顔を上げて、努めて明るく言う。
「だったら、バチなんて下りませんようにってお願いしたら?」
撩は鼻に皺を寄せた。
「なんか情けねーな、それ」
「そう?」
少しだけ、男が笑う。
「情けないだろ。……でも、まあ、そうだな。せめて下るなら、俺自身に下ってくれってとこかな」
男の言葉を香が理解するまで、一拍の間が必要だった。
香は撩の横顔を思わず眺める。
いつもの飄々とした笑みに少しの憂いを含んだその顔を見つめていると、わずかながらその意味が伝わってくるような気がした。
──ああ、そうね。
以前見た、夢の光景が前より鮮明に思い出された。
あの夢の中で、血を流してすでに事切れている自分のそばで、ただ立ち尽くしている男の姿が見えた。
──撩以外の身に下される撩にとっての罰って、あたしが死ぬこと、だ。
それは自惚れとは違う。違うと香は知っていた。
ただ、撩のことが良くわかっている、それだけで、香はそういう結論に達せざるを得ない。男の自分に対する感情がどうこう言うより先に、『槇村の妹』というそのただ一点だけで、『槇村香』に何かあったとき、彼が負い目を背負うには十分すぎる。
香はそれを知っているだけだ。
──もしあたしが死んだら、撩は傷つくんでしょうね。
けれど、香には絶対に死なないといえるほどの強さなど持ち合わせているはずもかった。
ただ、香は願う。
撩をこれ以上哀しませたくなかった。
夢の中のあんな撩の姿を現実のものにしたくはなかった。
だから死にたくなかった。
香は、そう思う。
それでも、死は避けられないものかも知れない。
自分はいつか死ぬかもしれない。それは撩の死より先かもしれない。
──そのときはどうすればいいの?
香は自問する。
──そのときは。
「……そーね。じゃあ、あたしもやっぱり、何かお祈りしていこっかな」
香はそう言うと、軽い口調とは裏腹のひどく真摯な瞳で十字架を見つめた。
────あたしの、願いは────
「これ、ここに置いてっちゃおうか」
香はそう言って、卓の上からワインの袋を少しだけ持ち上げて見せた。
「なんだそれ?」
「何とかっていう高いワイン。今日の依頼人がくれたやつ。『お近づきのしるし』だそうよ」
「あー、なるほどね」
しみじみと撩が息をつく。
「あんまりまともな物じゃないけど、ここに置いといたらきれいなるかも知れないじゃない?」
「そうだな。お前、ずいぶん熱心に祈ってたみたいだしお供え物の一つもおいてかないとバチがあたるかもしれんしな」
「どうかな? でも、ご利益はあるかも。やっぱり置いてく」
香はそう言って、祭壇に袋ごとワインを置いた。
「んじゃ帰るか。ったく、妙なことで時間くったなあ」
そんなぼやきを洩らして撩はもう出口へ向かっている。その背中を香は追った。
ミニクーパーの中も冷え込んでいて、確かに思ったより時間が経っていたことを香は知った。
「お前、何駅分歩くつもりだったんだ?」
「2駅。でもやっぱり、こういう道は慣れてないからダメねー。思ったより、ずっと時間がかかっちゃって」
男がなにかぼそっと呟いたようだった。
俺を呼び出しゃいいものを。香の耳にはそんな風に聞こえて、彼女は少し嬉しくなった。
ただ、はっきりと表に出された撩の言葉はひどくぶっきらぼうだった。
「風邪なんざひくんじゃねーぞ」
「あたしが風邪ひいたら心配してくれる?」
「ばっ……バーカ! うつされるのが嫌なだけだっ」
香の目にもわかるほどあからさまに照れている撩が、そう毒づいてくる。
香は笑った。自分でも機嫌がいいのがわかった。
「あっ、そ。──ねえ。じゃあ、もしあたしが死んだら、哀しんでくれる?」
さりげなく、あくまでも笑って尋ねたその問いかけに、それでも撩の気配がこわばるのを、感じた。
運転している最中だというのに、男はやや鋭い視線を助手席に向けてくる。
「お前な」
香は声に出して笑った。
「ちょっと、ちゃんと前見て運転してよ。危ないわねぇ。冗談に決まってるじゃない」
「あんまりうまい冗談じゃねえぞ」
視線こそ前に戻したが、撩の口調はまだ厳しかった。
それを受けて香は答える。深い理由はなく、ただ視線は伏せた。
「大丈夫よ。ちゃんとお祈りしてきたし、ワインまで供えてきたんだから」
「お前、何を祈ったんだよ」
「内緒」
まだ微妙な気配をまとわりつかせている撩をよそに、香は何事もなかったように、話題を変えることにした。
「うちに何かお酒、残ってるよね? せっかくだから、帰ったら二人で飲もうか」
「おい、勝手に話を変えるなよ」
機嫌の悪い男の返事を香は無視する。
「たまにはいいじゃない?」
「だから勝手に話を進めんなって」
「せっかくのクリスマスじゃない」
「もっこりちゃんとならともかく、どうしてお前と……」
「じゃあ、雪見酒」
「勝手にしろ」
男が折れた。
「よーし! じゃあ、撩が隠してる分も全部飲んじゃお」
「おいっ、ちょっと待てっ!」
いやよ、決めたわ。んなこと言って、お前、隠し場所なんて知ってんのかよ。やだ、知らないと思ってたの? あのうちのことならあんたよりあたしのほうが詳しい自信あるわよ。んなわけあるか。
そんなやり取りをしている間に二人は、この二人なりの日常へ帰り着いてゆく。
朝。
目覚めてリビングに行くと、昨日つぶれたままの姿で撩がソファに寝転がっていた。
少しの苦笑を洩らしつつ、その脇を起こさないように気をつけながら香は窓へと向かう。
外を覗けば昨夜の天気が嘘のように、今日の東京の空はきれいに晴れ渡っていた。空気は冷たいだろうが、一日ぶりで洗濯できそうだ。
香は視線を路上に向けた。
日差しの中、雪はぬくもりに敏感すぎて、もうほとんど残ってはいない。
昼を過ぎる頃にはきっと道もかわき、雪が降ったなんてそんな名残が残ることもないのだろう。
香は思った。
──それでいい。「あたしの、願いは──」
昨夜の祈りを香は胸のうちで小さく復唱した。
──もしあたしが逝く夜が来たら、
次の朝にはすべてを忘れて欲しい。
あたしと過ごしたすべての記憶。
出逢ったことさえも忘れて欲しい。
日に溶ける、淡雪のように。
穏やかなぬくもりの記憶さえ
優しすぎるあなたを傷つけるなら ──
<FIN>