聖 母 礼 讃
初出:Sep.2003.
 

 黄金色の泡が次々と弾けては消えていく。
 極上のシャンパンよりやさしく、蜂蜜より軽やかで、光より甘い。
 これはなんの夢だろうかと撩は思う。これは、なんのイメージだろうかと。
 けれど思考は泡とともに弾けては消えた。考えることが無意味に思えるほどの多幸感が身体のすみずみまで行き渡り、包まれる。
 えも言われぬ幸福。

 ──これは、至福だ。

 そう思って、目が覚めた。
 
 
 

 目覚めは昨今記憶にないほど清々しかった。
 ブラインドを通して室内に入ってくる陽射しの角度は床と平行に近い。つまり、日が昇ったばかりの時間なのだ。もうすぐ冬で日の出の時間は確実に遅くなっているとはいえ、こんな時間に目覚めることもまた、昨今の冴羽撩にはまずあり得ないことだった。
 頭の中はまだ、夢に見た金色の余韻に占められ、撩は寝転がったままひとつまばたきした。降りるまぶたの力に引っ張られたのか、額の上に乗った何かが動く。
 右手でその何かを持ち上げる。感触から察しはついていたが目に入ったのは湿り気を含んだハンドタオルだった。
 そういえば野上家の三女をテログループから助けた後に熱でぶっ倒れたのだと思い出す。
 もっとも、それを忘れてしまうほどに今朝の体調はすこぶる良かった。
 未だ生気が行き渡っていないような軽い脱力感こそあったものの(その証拠に朝もっこはなかった)、それ以外はほとんど問題もなさそうだ。
 体を起こしてみないことには何とも言えないが、昨日のように目がかすむような目にはあわないだろう。昨晩までの体調を思うに、なかなかどうして奇跡的な回復といえる。
 我ながら頑丈な体をしていると撩はしみじみ思う。
 それにしても、と、撩は手にしたままの濡れタオルに目をやった。少し暖まっているものの、まだかなりしめっている。
「……」
 撩は少し体を起こしてベッドの脇を見た。そこでは昨日の朝とほぼ同じ体勢で香が眠っていた。
 香の左手は撩の左手のすぐ傍にあった。
 一晩中、香は自分の手を握っていたのだろうかと撩は考える。死んでも自分の心配なんてするものかという啖呵を切った彼女がそんな真似をしてくれるだろうか、という疑問は感じなくもないが、訳もなく、おそらく間違いないだろうと思った。
 朝日に照らされて香の白い手は光っているように見える。
 そうか、あの夢は……。
 その手を見て撩は気づく。
 今し方まで見ていた夢。
 あの夢に一貫して流れていたイメージは、「母」だ。
 もちろん実の母親ではない。冴羽撩にとって実の母親は脳みそを逆さまにして振ったところで思い出すことはできない存在だ。だからそうではなく、たぶん冴羽撩という男の中にある普遍的な母親というものに対するイメージだった。
 あるいは、憧憬。
 そう、憧れだった。果てしなく深く、遙かに遠いような。
 その憧憬の一番美しいところを手当たり次第に集めて凝縮すればきっとあんな夢になるだろう。
 細く軽い手とそのぬくもりや、やわらかくなめらかな女の体の稜線。囁かれる声はきっと少し低く、甘いだろう。羊水越しに自分もかつてはそんな声を聞いたのだろうかと撩は思う。答えは知りようもないが……。
 風邪が吹き飛んだのはあの夢のせいかもしれなかった。それほど、至福の夢だった。
「……やれやれ」
 ひとつ、撩は大きく息を吐き出した。
 手にした濡れタオルを水の入った床の洗面器に戻し、ベッドから降りる。足がふらつくようなことはない。
 撩は香の横にかがみ込んだ。
 彼女の、床の上に座り込んでベッドの上に置いた腕に頭だけ預けた姿勢が楽なものとは到底思えない。二晩、ほぼ徹夜したと言っていい顔にはさすがに疲労の陰が浮かんでいた。それでなくとも昨日の香はテロリストに半日見張られて過ごしたのだ。緊張も疲労もあったろう。珍しく目の下に薄く浮かんだ隈が痛ましい。
「二日連続でよくやるよな、お前も」
 小さく呟いたくらいでは、香が起きる気配はない。唇から洩れる呼吸音の間隔は長く、音はわずかで気配からしても眠りの深さは間違いない。
 撩は香の首と膝の後ろに腕を回した。
「よっ」
 これまた小さく声を出して、慎重に香を抱え上げる。香は身じろぎひとつしない。撩は安堵の息を吐き出した。この体勢で目を覚まされるのはばつが悪い、出来れば勘弁して欲しいものだ。
 だが、幸いなことに香は目を覚ましそうになかった。
 撩はそのまま香をベッドに横たえた。
 ベッドの上で目を覚ませばさすがに気づかれるものがあるかもしれないが、その時はいつぞやのように寝惚けた香に叩き出されたことにすればいいだろう。
 眠る香の体に撩は毛布を掛けた。ブランケットからは手の先だけがはみ出している。その指先を、撩はそっとなぞった。

 自分の中には女性一般に対する信仰に近い何かがあることを、冴羽撩は知っている。
 例えば突然腹に宿った神の子を受け入れて愛してしまえる聖母性を誰もが持っているのではないかと思うような。熱を出した子どもよりも自分の方が辛くて、一晩中惜しげもなく看病してしまうような。あの至福の夢に繋がっていく輝きのような何か。
 それは失われたものを取り返そうとする哀しい本能にすぎないかもしれないけれど、言葉を選ばなければ神聖なものですらあった。
 だからこそ……。
 撩は思わず微笑んでしまった。
 自分が香に惹かれたのは、たぶん、無理のないことだった。
 

 撩はシャワーを浴びて汗を流し、髪を乾かしてリビングで一服する。よい体調とさわやかな目覚めのお陰か、今日は煙草もすこぶる美味い。
 リビングへも陽はさんさんと降り注ぐ。ビルの谷間に見える細長い空は、初冬の抜けるような青空だった。
 冬のナンパは成功率が低いものだが、今日はうまく行くかもしれない。
 不埒なことを考えていると、不意に家の気配が波立った。
 気配の主は起きあがり、きょろきょろと周囲を見回した後、次にうろうろと歩き出したようだ。そのうち一直線にリビングへの向かってくるのがわかった。
「ちょっと撩! なに勝手に起き出してんのよ、あんたはまたっ」
 視線を窓から移すと、目くじらを立てた香がリビングの入り口で仁王立ちになっていた。
「ちゃんと寝てなきゃダメじゃない!」
 香の様子は、熱を出してハイになっている子どもを叱りつける母親そのものといった風情で、撩は笑いを抑えきれない。
「なに笑ってんのよ。もう。さっさとベッドに戻りなさいよね」
「んなこと言ってもな、治っちまったよ」
 撩は笑いながら、答える。
「はあ?」
 香は一度目を丸くして、すぐにまた三白眼になった。
「もうその手は食わないわよ」
 腰に手を当てて撩を睨みつけてくる。
 撩は短くなった煙草を灰皿に押しつけると、空いた手を差し出した。
「ほんとだって、触ってみな」
 む、と香は口をへの字にする。慎重に、香の手は握手する形で撩の手に触れた。
 香の手は、やわらかく温かい。
「……何かで手を冷やしたとかじゃないでしょうね」
 訝りながらも香の手は撩の手から離れた。その名残を惜しみながら、撩は自分の額を指さした。
「んじゃ、おでこも試してみる?」
「自分から言い出す辺りがなおさら怪しいんだけど」
 そう言いながらも、香は手を男の額へと伸ばした。撩はその手を捕まえる。
「ちょっと?」
 香が眉根を寄せる。あんたが自分から言い出したんじゃないと、その顔には書いてあった。撩は空いている方の手で再び自分の額を指さした。
「熱はおでことおでこで計る。基本だろ?」
「……なっ」
 一瞬で香はゆでダコと化した。今日日、この程度のことでは小学生でもこんな反応はしないだろうというくらい劇的だ。
 こらえきれず撩は吹き出した。
「あんたっ、からかったわね!」
 顔を赤くしたまま香が怒鳴る。
 その手にどこからともなくハンマーが現れた。
「うわっ、ちょっと待……っ」
 言うが遅く、撩の脳天をハンマーが直撃した。
「ぐはっ」
 呻くも情け容赦なく、ふんっと香が身を翻すのをハンマーの下で感じる。
 それでも、毎度の事ながら辛うじて致命的なダメージだけは受け流した撩はよっこらせとハンマーを押しのけた。
「お、お前なあ、仮にも病み上がりの人間にこれはないだろ」
「あんたは十分頑丈よ。ハンマーの一撃くらい一コマで治るんだからなんてことないでしょっ」
 母性とはうってかわった子どものような怒り方に撩は苦笑せずにはいられない。
「香ぃ、せめて朝飯作ってれよぉ。腹減って死にそうなんだって」
「知らないわよ。それだけ元気なんだから外にでも食べに行ったら!?」
「香サマ〜、そんなこと言わずに頼みますって」
 香は腰に両手をあてたまま、立ち止まった。
 しばらくして、溜息をつく音が撩の耳には届いた。
「……ったく、しょうがないわね」
 へへ〜と、撩はその背中に拝んでみせる。
 振り返った香は顎を上げ唇を尖らせた。
「言っとくけどあんたのためじゃないからね? 唯香ちゃんが午前中に、改めて御礼に来るって言ってたからよ」
 撩は合わせた手から顔を上げた。
「おいおい、あの親父付きじゃないだろうな」
「それはさすがにないでしょ」
 香がようやく笑った。
 

 香が朝食を作るのを待ちながら、撩はもう一服する。
 夢の至福のイメージは覚醒の後、時間の経過とともに確実に薄らいでゆこうとしていた。
 記憶に留めようと思えば留める術はある。だが、去りゆくその光景を無理に刻もうとは思わなかった。
 惜しいと思わないでもないが、きっと必要ないだろう。
 夢は、この世にすでに実現している。
 そうして、この世は案外悪くないと思っている自分に撩は気づいた。
 生きていることは決して悪くない。
 最低最悪の、地獄よりひどいのではないかという光景に出遭うことはある。
 けれど時には最上級の夢が現実に存在したりするのだ。
 やがて自らの卑怯さに手を打って、彼女を表の世界に帰す日は来るかもしれない。彼女と過ごせる日々がいつまで続くかわからないが、それでも彼女との日々は心に残る。
 自分は幸福だと、撩は思った。
 

<FIN>