Holy Family Complex
初出:Oct.03.
 

 秋も深まると、朝晩は冷え込む。
 夜明けの青に吸い込まれそうになる──、そう思いながらミックは冴えた空気を逆に吸い込んだ。トーキョー・シンジュクにあっても朝の空気は多少マシだ。
 冷え込むと言ってもNYを拠点にしていたミックにとっては、それほどの寒さではないし、むしろ、このくらいの温度は爽快なくらいだった。人が多すぎるこの街でも、始発前のこの時間帯なら街行く人影はさほどでないのも良い。
 横を歩いていたミックの十年来の友人が、軽く手を挙げた。
「んじゃ、また誘ってくれよ」
 リョウはこれから抜き足差し足で自宅へ戻るのだろう。この時間まで飲んでいたのだから、彼のパートナーがお冠であることは言うまでもない。
 思ったよりも遅くまで(早くまでと言うのが正しかろうが)飲むことになったミックの友人はおっかなびっくりという様子で自分のアパートの様子を伺っている。
 その姿を見てやはり悪いことをしたか、とミックは思った。
 

 ここしばらくというもの、カズエの研究が大詰めに入っていた。彼女に言わせれば修羅場なのだという。免疫学会に投稿するという論文の締め切りが近いとかで、つまりここしばらくミックは放っておかれているのだった。
 まだ、ようやく打ち解けあって恋人同士になってから間もない蜜月期間だというのに、ようやく一緒に住み始めたところだというのに、ミックは正直、面白くない。
 本来、あの教授が面倒を見る気になるほど優秀なカズエが家にも帰れず研究室に缶詰にならなければいけなかったのは、今に先立ち自分が心配を掛けたせいなのは推測が付く。
 だが、そうとわかっていても面白くないという自らに正直なのが、ミック・エンジェルという男だった。
 そこで、リョウをつれて散財に出かけたのだ。
 飲みに行こうと声を掛ければリョウがついてくることはわかっていた。カオリには悪いかな、と思わないではなかったし、その後の展開を考えるとリョウにも悪いかな、とも思ったのだが憂さ晴らしに行こうというのに一人で飲むのもつまらない。近くに気心の知れた、誘えばついてくる友人がいるのに誘わない手もないだろう。
 結局は、誘われたからと言ってついてくるリョウが悪いのだと自分を納得させていた。
 ──とはいえ、やはり気の毒なことをしたという思いもないではない。
「コソコソしててもどうせ見つかるぜ?」
 だから、ミックは一応の忠告をした。
 リョウは殊更に気張った顔をしてアパートを睨み上げる。
「いんや。あいつが寝てればいつ帰ったかわからないだろ? そこそこの時間に帰ったことにしてだなあ……」
 なんて弱い防御策だろうかと、ミックは少々あきれた。
 カオリが起きていたら話にならない。いくらなんでもこの時間まで起きて待ってはいないかも知れないが、彼女のことだ。何らかのトラップもどきを仕掛けてリョウが帰ってきたらすぐわかるようにしておくくらいの用意は調えているのではなかろうか。
 そんなことも考えつかないコレと、ナンバーワンと称されるスイーパーが同一人物だというのは、世界の七不思議の一つだと思った。
 それでなければ打撃を受けることをわかっていながら敢えてよけないマゾか……。
「カオリは優しいから話せばわかってくれるさ」
「バカ言え。あいつのどこが優しーんだ!」
 リョウは握り拳で否定する。
 ミックは両手を肩の高さまで上げて首を振る、『お話にならない』のポーズを取った。
「カオリが優しく見えないようじゃあ、お前の目はとっくにだめになってるぞ」
「お前の目こそだめになってんだよ」
 リョウは真剣に苦虫を噛みつぶしたような顔で言う。本気でそう考えているのかと思ってしまうその表情は、もし本気でないならなるほど、世界一のスイーパーのポーカーフェイスかも知れない。
 ミックはもう一度苦笑して、手を振った。
「まあ、骨くらいは拾ってやるよ。せいぜい頑張りな」
「どうせなら香が寝てるように祈っててくれ」
 そう言ったリョウとミックは別れた。
 

 彼女たちの仲は、進展していないらしい。
 もし二人の間に何かあればミックにはわかる自信があったし、そもそも、いくらあの男でも、簡単に夜の誘いには乗らなくなる気がした。まあ、冴羽リョウという男はひどく複雑であるからわかると断言は出来ないがカオリを見ていればわかるだろう、たぶん。
 とりあえず今は進展していないという仮定に基づくとして、だ。
 精神的にはどこまでも近づいているくせに、どうしてそこで停滞してしまうのか、停滞出来るのか、そこが不思議で仕方ない。
 ミックは地響きを感じながらしみじみとそう思った。
 案の定、リョウの帰宅は彼女に見つかったらしい。

 本当は少しだけ、彼が彼女に手を出さない理由を自分はわかっているとミックは思う。
 リョウにとって彼女が特別だから。それは正しい。
 彼女が大切だから、大事にしたいから。
 それも正しい。けれどカオリはガラス細工ではないのだ。
 触れないことが大切にすることだと思うほど、リョウとてお子さまでもあるまい。
 あの男は一応なりとも彼女を手放さない決心を付けたはずだった。そのことを思えば、いつか離れる時のことを考えてつまみ食いは出来ない、という可能性も否定される。
 では、彼女を汚したくないからだろうか?
 これは「彼女を大事にしたい」と似ているようだが、少し違う。こちらの可能性はあると思った。
 彼女を大事にしたいと思うのが、建前だけでも彼女のためだとするなら、彼女を汚したくないというのは、きっと男のエゴだ。ドリームだ。そのあたりが違う。故に、少し正しい感じになる。
 ──バカな男だ。
 

 部屋に戻ってベランダに立ち、ミックは向かいのアパートの様子を伺った。幸いにして簀巻きにされた男が窓から放り出されているような様子はない。そこまでは彼女の怒りを買わなかったようで、これにはミックもほっとした。
 余りにも彼女の怒りが強ければ、自分まで巻き沿いを食らいかねない──いや、今朝の朝帰りに関しては他でもないミック自身が元凶なのだが。
 とにもかくにも簀巻きで逆さ吊りが意外にしんどいことを身をもって知っているミックは友人のために安堵した。

 思えばミックがカオリに簀巻きにされたのは彼女に夜這いを仕掛けた時だった。そう遠い昔のことではない。実を言えばカオリに掛けた各種の夜這いは必ずしも本気ではなかった。そのことを差し引けば一晩簀巻きで逆さ吊りにされるのはなかなか手痛い代償ではあったかもしれない。
 仮に女性の意志を無視して本当にことに及んでしまったなら簀巻きは軽すぎる罰則だが、無理を強いるような真似はミックの主義に反するところだ。そんなことをする最低ヤローになる気はさらさらなかった。
 もっとも、過去に一度だけ。
 あの廃ビルでカオリを組み敷いた時だけは、正直本気で無理にも──という気分になったことを鑑みれば、決して偉そうなことは言えない自覚がミックにはある。ついでに言うと、偉そうなこと以前に、自分が一瞬でもそういう気分になったという話はリョウの前では絶対に口に出来ないことだ(そん時は本気で殺される)。
 だが、今のミックは過去の自分を振り返りたいわけではなく。
 カオリに出逢ってごくわずかだった自分が主義を覆してそういう気になったくらいカオリは魅力的な女性なのだ、ということを確認した。化粧っけはないがその必要もないくらいキュートだし、スタイルも抜群。あの戦闘ルックなんて不謹慎ながら悩殺ものだと思う。
 にも関わらずどうしてリョウの目にはそう映らないのか、そこがミックにとっては絶対の疑問なわけで。
 つまりカオリは、リョウにとって神聖な存在なのだろう。
 ミックはそういう結論に達しざるをえない。
 天使か、女神か、何かわからないが情欲の対象にすることがためらわれる相手なのだ。あるいは、「家族」か──。
 心からの安らぎをリョウに与えてくれる存在だから。
 それでは、あの男はカオリに手を出せないだろう。無意識にカオリの容姿を意識から除外してしまうくらいに、手を出せない。リョウが照ればかりのためでなく、掛け値なしの本気で「カオリは美人じゃない」と未だに信じているらしい理由もそれなら頷ける。
 家族を知らないリョウが本当は求め続けてきただろう存在を体現している相手だったら、家族の象徴だったら。愛情の対象にはなっても、欲情の対象にならないのは至極当然のこと──。
 あいつ、カオリにもっこりしたら本気で罪悪感に苛まれるんじゃないか……?
「まったく、とことん厄介なやつだ」
 ミックはベランダに頬杖をついて嘆息した。
 これではまだまだ、あの二人が一線を越えるのは先になるか。
 ──だが、それも二人の在り方なのかも知れない。
 そう思い直した。
 周囲はまだしばらくヤキモキさせられることになるが、カオリに惚れていた頃ならともかくこっちの都合であれこれ言うものでもないだろう。
 どうせ彼らは離れられないのだし、何も急かすことはない。
 ミックはふと、ニヤリと笑みを浮かべた。
「どうも、自分が幸せだと人にまで構いたくなって行けないな」
 最後はのろけた独り言で締める。

 今から一眠りして、彼は昼過ぎに掛かってくる恋人からの電話を待つのである。
 

<FIN>