都会の人魚姫(後編)
初出:Dec.03.
 

 言わずと知れたことだが『人魚姫』は悲恋の物語だ。
 人魚姫に限らず、そして洋の東西を問わず、お伽噺の世界で異種族婚が成り立たないのは世の常。違う世界に属する恋人たちは"末永く幸せに暮らしました、めでたしめでたし"とはならない。自分と違う世界の相手に恋をするなということを、童話は教えたいのだろうか?
 撩は冬空の下、公園のベンチに座って油を売っていた。秋の名残を残す空は夕暮れを間近に控え、高い。香の怒りが解けるまで、まだ当分は掛かるだろうこの状況で、その空を見上げながら撩は暇つぶしの思考を続ける。
 『人魚姫』が悲恋でなくてはならない話だったとして、それにしてもあの王子さまはバカすぎる。「なんで別の女と間違うんだよ!?」というのは、誰しも一度は思うことではないだろうか。プリンス・チャーミングくらい甲斐性のある男が相手であれば、彼女もああまで不幸にならずにすんだろうに。
(ああ、それとも……)
 撩はふと思いついた。あの王子が、人魚姫の正体に気づいていたならどうだろう?
 思春期の小娘がするような空想だとは思ったが、撩はその発想が少し気に入った。気だても器量も良いカワイコちゃんがどうしようもない男に惚れたと思うよりは腹が立たない。
 撩はベンチに大きく背を預けた姿勢のまま少し身をよじってジャケットのポケットをさぐった。幸い入れっぱなしになっていた煙草とライターが指に触れる。勢いでアパートを出てきたためにコートすら着ていないので寒さが身に凍みた。煙草で暖を取れるわけではないが、無いよりはマシだった。
 左手でライターを風からかばいながら煙草に火を灯す。地面に積もった落ち葉がカサカサと音を立てて転がっていった。木立の影は斜陽に長く伸びている。もうしばらくすれば馴染みの夜の店が開くだろう。それまでの辛抱だ。

 王子は、人魚姫が自分と同じ世界の者ではないと知っていた。人魚姫は人間の世界で声を失い、一歩足を踏み出すごとに激痛に苛まれながら生きている。そんな娘を王子は見ていられなかった。
 王子は人魚姫を愛していたからこそ、他の姫を選んだように見せかけて、人魚姫を海に帰そうとしたのだ。
 王子に選ばれなければ人魚姫が泡になってしまうことまでは、知らなかったのだろう。いや、案外、王子を殺せば彼女が人魚に戻れると、そこまで知っていたのでも悪くない。
 もしそこまで知っていたとすれば、教えたのは人魚姫の姉だろう。妹を選んで地上で一生愛してゆくか、王子自身の命と引き替えに人魚姫を海に帰すか、どちらにするかと姉は迫り、王子は後者を選び取った。
 王子さまがいなくても、人魚姫は身寄りのない娘ではない。姉がいて、本来生きるべき世界もある。それならば何も自分のそばで苦しい想いをさせておくことはないのだ。
 フィルターの噛み癖のせいでぴょこぴょこと上下していた煙草の先が、ぴたりと動きを止めた。
「……なーんか、俺、自分で自分の首絞めてねえ?」
 男は眉間に皺を寄せて呟いた。
 一拍の静止。それから突然、辛気くさいこと考えんのやめやめっ、とひとりわめいて片手で自分の頭の上を振り払う。
 しかしまだ、空は茜色に染まり始めたばかりだ。今日の東京の日の入りは16時34分。どう考えても馴染みの店はまだ開いていない。仮に今この公園を離れたところで宛てどなく街を徘徊するだけになる。
 撩は憮然としたまま、座っていた姿勢をわずかに変化させるに留めた。膝の上に肘を置いて頬杖をついた姿勢はちょっとだらしない考える人と言ったところだ。
 そのポーズで撩は当初の心づもりよりもはるかに真剣に考える。
 そもそも気に入らないのは、ごく身近に存在する問題と共通項があるからではない。
 聞く者が聞けば「詭弁ね」とか「語るに落ちたな」とか言いつつ嘲弄しそうな断りを自分に入れた上で撩は改めて考えた。
 気に入らないのは、女の方の気持ちを一切考えない王子のやり方だ、と。
 王子が人魚姫を選んでさえいれば、彼女が泡と消えるか王子を殺すかの二択に迫られることはなかった。人魚姫にとって地上に生きることが辛いと言うなら、その辛さを少しでも軽減してやるようにすれば良かったのだ。
 声が出なくても文字を教えれば意志疎通が出来る。足が痛むというなら抱え上げてやればいい。違う世界の住人と共に暮らしていこうというなら、どちらか片方だけが重荷を背負って上手くいくはずがないのだ。愛しているというなら、互いに出来ることをして、痛みを分かち合えばいい。惚れた女に自分を殺させることのどこが愛情だろう。
 自分だったらあんな結果は招かないという結論に達して、撩はひとり満足した。
 惚れた女に自分を殺させるような真似はしない。泡にもさせない。傍に置いて生きてゆく。
「…………あ、れ?」
 撩は目をしばたいた。またしても話が妙な方向に行っている上に、今度は結論まで出てしまった。長く伸びた煙草の灰が風に吹かれてボロボロと飛ばされていく。
 人魚姫の姉を自認する才女の思惑にこれ以上ないほどハマった男は、「別に表の世界に帰したからって香は泡になるわけじゃないし」という逃げ道をようよう発見するまで、実に五本の煙草を消費する羽目になった。
 

 夜半過ぎになって、撩はやっと自宅に戻ってきた。リビングの明かりは消えている。香はもう休んだらしいとほっとしかけて、撩はすぐ間違いに気づいた。リビングからベランダへと続くガラス戸の脇に人の気配がある。
「香?」
 リビングを覗き込んで呼びかける。外光だけが頼りの室内はひっそりと闇に包まれて静かで、撩の声は自然、控え目になった。その声にカーテンに隠れるように立っていた人影がわずかに動く。
「おかえり」
 街灯に照らされた香の横顔はわずかな微笑をたたえていた。部屋着にも着替えていない彼女は昼と同じミニスカートのままで、形のいい足が覗いている。外からの光に照らされて闇に白く浮かぶ足が人魚のしっぽのようだ。
「遅かったのね。ただいまくらい言ったら?」
 香が言った。女性としては低い声。よく通るその声は海鳴りのようで、
「おう」
 とだけ、撩は答えた。
「ご飯は?」
「食ってきた」
「そう」
 いつもなら文句の一つも出るところだろうが、香は小さく呟いただけだ。
 馴染みの店で時間をつぶして何とか予定外の物思いから解放されたばかりだった撩がたぶんに調子を崩されたとしても無理はない。
「おまえ……」
 だから撩は、らしくもなく声を喉に引っかけた。
「おまえ、何でこんな真っ暗なとこにいるわけ?」
 香は窓辺で小さく微笑む。外光を受けるだけの彼女の横顔は、ちょうど海辺で月光を浴びているようだった。

(──人魚姫って、柄じゃない?)

 何を今更、としか言い様のない自問を撩が思い浮かべる前で、香は右手を胸の高さまで掲げた。
「暗くしてるのはね……」
 囁くように言った彼女の手は何かを軽く掴んだ形。何かを持っているのは間違いないが、その何かは手の中にすっぽり収まるサイズらしく撩の目でも判別できない。頭にハテナマークを浮かべながら撩が目をすがめると、香はにっこり笑った。
「それは、あんたにトラップがわからないようにするためよっ!!」
 叫びと同時に、香が右手の親指を押し込む。
 カチリという小さな音がはっきりと撩の耳に届いた。
「ぎ……っ」
 撩は目を剥く。周囲には記憶に鮮明な数々の凶悪な気配が立ちこめていた。
 その日。
 サエバアパートの周囲、半径およそ300mほどに住まう住人たちは、ぎぃええええともぎゃああああとも形容しがたい、言うなれば怪獣が更に大きな何かに踏みつぶされるような断末魔を聞いたという。

 ハンマー類4個とコンペイトウ1号、3号、5号のコンボに撞木、壁に叩きつけたあとの反射まで利用した計12HITをすべて惜しみなく浴びた撩は、山となった武器の下でつぶれながら、呟いた。
「さゆりさん……ナイフなんか渡さなくても、その前に俺、死ぬわ……」
 がっくりと頭を後ろに仰け反らせて、冴羽撩は絶息──ではなく気絶、した。
 

<FIN>