優しき賢者
初出:Mar.2004.
 

 まるで少女のようだ。
 沢渡(さわたり)沙希(さき)は目の前の女性にそんな感想を抱いた。
 昼下がりの喫茶店だった。白いテーブルを挟んで向かいに座るその女の名は、槇村香という。
 沙希が得た情報によれば、目の前の女の歳は沙希より三つか四つ上のはずだ。つまり、この女は二十五はとうに過ぎ三十に手の掛かる距離にいるはずで、「少女」などという形容は似つかわしくない。
 そもそも沙希も、直にこうして目にするまで、そんな印象は持っていなかった。
 写真は何枚も目にしてきたが、その段階では「もともとのつくりは悪くないけど、飾り気のない女」程度のことしか感じなかった。今の槇村香も極めたような薄化粧だし、化粧気のなさが逆に目の前の女を若く見せているということは考えられたが、それなら写真と実物でここまで違う印象を覚えるはずもない。薄手のセーターとジーパンといういでたちも写真で見てきた姿と大差ないから服装のせいでもない。
 カレンダの日付だけを見るなら冬の終わりだが、気候は春を飛び越えて初夏すら思わせた。大きく窓の取られた喫茶店の窓際のボックス席には西陽がさんさんと差し込み、暖かいを通り越して少し暑いほどだ。沙希と槇村香も含めて、客のほとんどがコールドドリンクを選んでいるが、氷の溶けも早い。
 改めて沙希がそんな明るい陽射しの中で良く見つめれば、目の前の実物は、決して自分より若い気はしなかった。
 にもかかわらず「少女」を思わせるのは、なぜだろう。
 それはおそらく、雰囲気だ。
 こういう女が「彼」の好みなのかしら。
 そう思うと、沙希は急に不安になった。自分の長く伸ばした髪や、赤く塗った唇は「彼」の好みではないのだろうか。
「お話って?」
 不躾なほど視線を注ぐ沙希に、槇村香が呼びかけた。
 その問い掛けに沙希は一度唇を引き結び、覚悟を決める。
 意識的に唇の両端を持ち上げた。微笑を形づくる。
 沙希は用意していたセリフを口にした。
「ねえ、あなた。シティーハンターのパートナーを辞めてちょうだい」
 槇村香は、軽く目を瞠った。返事はすぐに返ってこなかった。
 沙希にとっては充分に予測できた反応だった。むしろ、この反応を期待していた、と言っていい。
「あなたは、彼にふさわしくないわ」
 沙希はさらに言い添えた。言いたいことを言った快感が胸の中を涼しく駆け抜ける。
 

 沙希の言うところの「彼」は、名を、冴羽撩といった。
 コードネームはシティーハンター。この世界でその名を知らない者はない、伝説のスイーパーだ。
 そう、まさに、伝説。
 年の頃は三十台半ばほどと言われているが、冴羽撩の履歴をひもとけば彼はもう15年以上前からその存在が囁かれつつあった。アメリカでミック・エンジェルと組んでシティーハンターを名乗りはじめ、アメリカでナンバーワンの名をほしいままにしたのは十年以上前。その後、来日──あるいは帰国。平和の国ニッポンに拠点を定めたあとの活動は比較的おとなしやかであるものの、幾人かの悪徳政治屋を破滅させ、いくつかの巨大シンジケートを壊滅し、いくつかの国の軍事クーデターを失敗に追い込んだ。それもほとんどただ一人で。こんな男を伝説と呼ばずしてなんと言おうか。
 冴羽撩は、沙樹にとって神話のヒーローにも等しい存在だ。
 なんの因果か裏世界に足を踏み入れることになってしまった沙希にとって、若い頃に聞いたシティーハンターは夢のような存在だった。憧れなどという言葉でははるかに弱い。彼の圧倒的な能力もさることながら、その生き様と戦う姿勢に沙希は何より惹かれた。人殺しまで含めて、争いと血なまぐささに満ちた裏世界にもこんなふうに誇りを保っている人間がいるのかと、どんなに救われたかわからない。それ以来ずっと、沙希は冴羽撩の存在を心の支えにしてきたのだ。
 だから。
 だからこそ、こんな女が彼のそばにいることは許せない、と思う。
 沙希は槇村香を睨みつけた。
 

 沙希の前で、槇村香は一度目をしばたいた。反応はそれだけだった。まだ、返事は返ってこない。
 その反応の鈍さに沙希は苛立つ。ずぶの素人同然という噂は耳にしていたが、頭の回転が平均よりまだ遅いとまでは聞いていない。だが、これでは彼の足を引っ張ってきたというのも道理だと思った。
 沙希がそう判断を下したところで、ようやく、槇村香が唇を動かした。
「あたしが撩のパートナーを辞めたとして、その後はあなたが撩のパートナーになる気?」
「そうよ」
 沙希は即答する。
 目の前の女が彼のことをなれなれしく「撩」と呼ぶのが気に入らないと思う。彼を冒涜されているような気分になる。
 沙希のそうした怒りの眼差しには気づかない様子で、槇村香はわずかに首を傾げた。
「じゃあ、あなたもプロなのね?」
 沙希は頷く。
「彼や、それにファルコンのような超一流とは言わないわ。それでもあなたよりはずいぶんマシなはずよ」
 槇村香は痛いことを言われたらしく少しだけ顔をしかめた。その表情を見て、沙希は追い打ちを掛けることにする。
「あなた、自分が彼にふさわしくないって自覚はあるようね」
「自覚?」
「そうよ。今、そういう顔をしたわ」
 槇村香はまた少し首を傾げた。その口元がほんのわずかに緩む。
「それは違うと思うけど」
「じゃあ、あなた、自分が彼にふさわしいと思ってるの?」
 沙希は声をとがらせた。
「彼の足を引っ張ってばかりなんでしょう?」
 槇村香は、また眉をひそめる。
「……そうね。あたしが撩の足手まといなのは、認める」
「わかってるんじゃない」
「でもね、」
 沙希の弾劾をさえぎると、落ち着いた声で槇村香は言葉を続けた。
「あたしが撩にふさわしいかそうでないかは、あたしや、あなたに決められることじゃないわよ」
「なんですって?」
 思わず沙希の声は高くなった。
 槇村香はテーブルの上で両手を軽く組み、ゆっくりと沙希に言い聞かせるように語った。
「撩のパートナーに誰がふさわしいか、どんな人ならふさわしいか、それを本当に決められるのはあいつだけよ。それに、あなたが撩のパートナーになりたいのはわかったけど、撩のパートナーを決められるのも、やっぱりあいつだけなのよ。それは、あたしでも、あなたでもない」
 だからね、と槇村香は言う。
「あなたが撩のパートナーになりたいなら、あたしのところに来ても仕方ないわ。撩のところに行かなきゃ」
 沙希は無言で目を瞠った。二の句が繋げない。
 槇村香は苦笑した。
「ええと、沙希さん、だったわね? あなたが単に撩のそばにあたしみたいのがいることが気に入らなくて、それであたしにあいつのパートナーを辞めろって言いに来たなら、それは正しいわよ。あいつのパートナーを続けるか辞めるか、それはあたしにも決められることだし」
「辞めるつもりがあるの?」
 我に返って沙希は尋ねた。
 槇村香は一度、口を閉ざす。その沈黙を沙希は、反応の遅れだとは思わなかった。
「いいえ」
 やがて槇村香は答えた。
「あたしは、撩のそばにいたいと思ってる」
「あなたがそばにいることで彼の身に危険が迫るのよ? 彼は余計な負担を背負ってる」
「そうね……」
 槇村香は一度視線を落とした。
 沙希は黙って香を見つめた。テーブルには手をつけられていない二人分のアイスティーが陽射しを透かしてきれいな琥珀色の影を作っている。そして、ふと気づいた。いつの間にか、目の前の女から感じていた「少女のような」という印象が消えている。
 なんだろう、と沙希は感じた。
 この女、なんなんだろう──。
 そう思ったタイミングで、槇村香が再び目線を沙希に戻した。槇村香の視線を真正面に受け止めて沙希はワケもなくギクリとする。
「な、なに? 辞める気になったの?」
 極めてらしくもなく声を上擦らせて、沙希は尋ねた。
 槇村香はいいえ、と答える。
「あたしに、撩のパートナーを辞めるつもりはないわ」
「あなたねえ……!」
 沙希は声を荒げた。自分の反応に、自分で驚く。明らかに、沙希は自分のペースを乱していた。
 相手のペースに巻き込まれている?
 そうじゃない。
 一方的に、こちらが乱れている。
「沙希さん、だから、あなたはまず撩を訪ねるべきなのよ」
「なんですって?」
 沙希はきつく眉を寄せた。
 槇村香はどう説明したらいいものか言葉を探しあぐねたらしく、両目を中央に寄せて天井を睨んだ。
「撩のパートナーを決めるのは、撩なのよ。たとえばよ? あたしがあいつのパートナーを辞めたって、あなたがあいつのパートナーになれるかどうかわからないわ」
「わたしに不足があるって言うの?」
「単純に不足って言うならあたしの方が多いでしょ」
 槇村香は憮然と呟いた。本気で、苦々しく思っている口調だった。
「だからそこは、あなたの言うとおりよ。あたしは撩の足手まといで、あなたの方がずっと能力も技術もあるんだと思う。でもね、あなたがそれを、どれだけあたし相手に言っても仕方ないのよ」
 かなりとつとつとした説明ではあったが、沙希にも、少しずつ槇村香の言わんとしていることが、わかってきた。考え事をするときのクセで、沙希は指を眉間に当てる。
「自分の能力をプレゼンするなら、彼にしなくては意味がないというの?」
「そうよ」
 槇村香はきちんと話が通じて、ほっとしたようだった。表情までわずかに明るくなる。
 なんなの、この女……。
 沙希は同じ述懐を胸の中で繰り返した。
 彼のそばにいたいからパートナーを辞める気はないと言いながら、一方でこんな説得を沙希にする。
 まったく理解できない。
 それとも、この女はひどく自惚れているのだろうか。
「あなた、彼がわたしを選ぶことはないって思ってる?」
 沙希は聞いた。
「え?」
「だから、そんなことを言うんでしょう。彼に逢いに行けばいいって。自分は捨てられないって、自信があるんだわ」
 「捨てられる」なんていやな表現だと沙希は思ったが、腹が立っていた。
「違うわよ」
 槇村香は顔をしかめた。飲みかけのアイスティーをテーブルに戻す。
「正直言って、撩とは会って欲しくないわよ。あなた、すっごい美人だし、しかも見るからにあいつの好みのタイプだし」
 彼の口真似なのか『おまぁ、クビっ』と言って、槇村香は両手の人差し指を首の前でピッと横に走らせた。
「あなたがパートナーにしてくれって言いに来たら、あたしは絶対一度はこう言われるわね」
 言いながら、女は自分で落ち込んだようだ。溜息をつき、またグラスに手を伸ばす。
 沙希は自分が彼の好みだと聞いて安堵と喜びを覚えたが、しかし、ますますもって目の前の相手がわからなくなる。
「……あなたっていうパートナーがもういるから、他の女を選んだりしないってことはないの?」
「それはないわ」
 鋭いほどすぐに、女は返事を返してきた。厳しく真剣な表情と声。
「あたしよりあなたの方が自分にとっていいパートナーだとあいつが思えば、あいつはあなたをパートナーにするわ。あいつ、たしかに変に義理堅いっていうか、優しいところもあるから悩むとは思うけど、自分にとってあなたの方が良いって本気で思ったら、撩は、あなたを選ぶわ」
「あなた、言ってることがむちゃくちゃよ」
 たまらず沙希は言った。
「彼のそばにいたいからパートナーは辞めないって言ったくせに、どうしてそんなことを言うの? 彼があなたを捨てるつもりはないと自惚れてるのかと思ったら、それも違うって言う。あなたいったいなんなの?」
「なんなのって言われても困るけど……」
 槇村香は困ったように笑った。わずかに首を傾げて目を細めた表情に、もはや少女めいた気配は欠片もなく、眼差しは怖いくらい優しかった。
「少なくとも今、あたしは撩のパートナーなのよ」
 槇村香は言った。
「だからあたしは、あいつがより良い選択肢を選ぶ機会を邪魔することはできない。あなたはあたしよりずっといい、もしかしたら撩にとって最高のパートナーになれる人かもしれないじゃない? そういうふうに撩が少しでもいい道を選べる可能性があるなら、あたしは、それを潰すわけには行かないわ」
「…………」
「それにね、あなたとあたしは、今も同じリングに立っていようなものなんだと思う。たしかにあたしは今はあいつのパートナーだけど、撩があなたを選んだらそれまでだもの。あなたはあなたで、撩に色々アピールする。あたしはあたしで、せいぜいあいつに愛想を尽かされないようにベストを尽くすしかない。あなたに撩を訪ねて欲しくないっていうのも、だから本心よ」
 春より初夏を思わせる陽射しの中、沙希は、槇村香を見つめた。
 槇村香は、明るく澄んだ瞳で、深く、すべてをわかった眼差しをしていた。
 ようやく沙希は理解した。
 これが、彼の選んだパートナーなのだ。
 

「彼のところには、行かないわ」
 沙希は言った。
 槇村香は目を丸くする。
「どうして?」
 本当に不思議そうだった。
「彼は、わたしを選ばない。それがわかったからよ」
「会ってみなきゃわからないでしょ、そんなの」
 逢ってみたからこそわかるのよ、と沙希は胸の中で呟いた。槇村香とこうしてあって、話をした。それで充分だ。これで気づかないような愚か者にも身の程知らずにもなりたくない。
「もう充分よ」
 沙希は言って、伝票を手に立ち上がった。
「ちょ、ちょっと……」
 槇村香も慌てたように立ち上がった。もしかすると、沙希を留めるつもりなのかもしれない。けれど、沙希は、実を言えば早く一人になりたかった。かなり特異な形だとは思うが、沙希にとってすれば、これは失恋と言えなくもない。
 沙希の中で冴羽撩が特別な存在であり続けることは変わらない。これからも彼を支えにしていくことも変わらない。ただ、もう二度と彼に近づこうとは思わないだろう。
 だから、自分は恋に破れたのだ。
 そこまで考えて沙希はふと思い直した。
 これまでずっと彼を思い続けて、これからも思い続けていく女がいるのに、そのことさえ彼に知られないままで終わってしまうのは、自分の気持ちがいくらなんでもあんまりかわいそうだ。
「ねえ、香さん、」
 沙希は初めて、槇村香の名前を呼んだ。
「ひとつ、聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「さっき、わたしみたいなタイプは彼の好みだって言ったわね?」
 槇村香は頷いた。
「そのわたしが一度は彼のパートナーに立候補しようとして、でもあきらめたって言ったら、彼、なんて言うとあなた、思う?」
「なんつぅもったいないことを」
 彼の口真似なのか、槇村香は少し低い声でそう即答した。
「なんで連れてこなかったんだって、どやされるわね」
 槇村香は肩をすくめる。
 沙希は破顔した。
 槇村香が言うなら、間違いない。彼はきっとそのセリフを口にするのだろう。
 たとえそれが口先だけの言葉でも、全くの冗談でも軽口にすぎなくても、彼にもったいないと言ってもらえるなら嬉しいと沙希は思った。
「良ければ、彼に伝えて。銀狼って呼ばれるスイーパーは、あなたのパートナーになりたかったけど、でも、あきらめたって」
 槇村香はしばらく黙ったあと、頷いた。
「必ず伝えるわ」
「ありがとう」
 沢渡沙樹は槇村香に背を向けた。
 レジで精算をすませ、カレンダでは初春の、気温はすでに初夏の街へ出る。
 胸には大きな哀しみと、長らく感じたことのないすがすがしさがあった。
 その感触を確かめながら、沙希は少女のように軽やかに歩き出した。
 

<FIN>