槇村
 

††††††††

 撩がアパートに帰れば、冴子が待っていた。
 待っていたと言っても無論部屋の中で待っていたわけではない。
 冴羽アパートからすれば隣家にあたるビルで探偵事務所を構える妹の部屋。そこで冴子は撩の帰りを待っていたらしい。帰ってくる時に上から麗香の視線を感じた。さしずめ自分は優雅に紅茶でも飲みながら、妹に見張らせていたのだろう。
 いずれにしても、もう日付も変わった時刻だというのに、冴子は撩がアパートについた直後に絶妙のタイミングで押し掛けてきた。
 

「話を聞かせてもらうわよ」
 当然、といった顔で女は語った。
「こんな時間に訪ねてくるから、てっきり貸しを返しにきたんだと思ったぜ」
 軽口を叩きながら、撩は顔には出さず思案する。
 さて、どうしたものか──。
 今回の件の全容が、撩にとってはほぼ明らかになった。
 完全なる私怨の問題だ。そこには複雑な要素もいくつか絡んではいるが、根幹にあるのはシティーハンターに対する私怨に尽きる。それはすなわち、自分の──自分たちだけの問題といえた。余程のことがない限り、こうした問題に当事者以外の人間を巻き込むことは撩の趣味ではない。
 冴子とて、本来は無関係な問題に首を突っ込んでくるような女ではないだろう。
 だが、今回の件でははからずしも、彼女は部外者でなくなってしまった。蚊帳の外に置かれることを良しとする気性の女でもない。
 それに……。
 撩は思う。
 冴子の顔を見て、男にはひとつ彼女に聞きたいことが出来ていた。
「──まあいいだろ。なんか飲むか?」
 客人のためにクーラーの設定温度をいつもより若干低くして(普段が高すぎるので)、撩は聞く。
「けっこう、と言いたいところだけど、あなたがコーヒーでも淹れてくれるの?」
「豆から挽くような真似はしねーけどな」
「せっかくだからもらおうかしら」
「んじゃ、ちょっと待ってな」
「変な薬でも入れたら承知しないわよ」
 男の背中へと冴子が釘をさす。
 言われて、しまったその手があったか、と撩は思った。

 湯から湧かすため、コーヒーはいっそすべてコーヒーメーカーに任せて撩はリビングに戻った。
 冴子はソファの上で少し身を固くしている様子だった。
 それはたぶん、これからの話の内容に対してより、単にこの場所に馴れていないからだろう。
 冴子がこうしてこの家を訪ねてくることはそう多くない。依頼を押しつけに来るわけでないとなればなおさらだ。
 お互いの立場からいって二人が表立って親しいつき合いをすることはないし、できない。情報交換はおおむね外で行い、互いの家を訪れることは可能な限り少なくしている。つい昨日のアクシデントを除けば、最後に彼女がここを訪れたのは……そう、あの唯香の騒ぎの時だったろう。
「珍しいよな」
 冴子の向かいに座って、それだけ言えば彼女はすぐに諒解したようだった。
「あなたとここで二人きりってのは、なおさら珍しいわね」
 つややかな髪を払いながら冴子が独り言のように呟いた。
 槇村が生きていた頃、二人だけで顔を付き合わせることはまずなかった。槇村が死んだあとは、互いに用事がない限りある意味なおさら会わなかった。
 冴子が視線を横に逸らす。
「それより香さんよ。本題に入って」
「へいへい」
 撩が気のない返事を返せば、冴子に横目で睨まれてしまった。
 コーヒーが出来るのを待ちながら、撩はことのあらましをかいつまんで話した。海原やユニオンの話は除いた必要最小限の要約に留めた。なにぶん冴子はユニオン・テオーぺの長老と冴羽撩との間に存在した繋がりを知らないので……。
「じゃあ、今度の件は素人の女性が集まってやってるってこと?」
 今は淹れたてのコーヒーを手に取りながら、冴子が問う。
「そ。お陰でこっちの情報網が役に立たんあたり、何が幸いするかわからんもんだ」
「わたしの方でも免許証の偽造元は当たっているけれど時間はもう少し掛かりそうだし……どうする気?」
「ま、向こうの出方次第だろ」
「撩……」
 冴子は口をつけかけたカップをソーサーに戻し、顎を引いて睨みつけてきた。何か不満があるらしい。
 撩は軽く肩をすくめた。
 "何か"ではない。香を人質に取られている状況で策を練ろうとしない男に冴子が腹を立てているのは明白で、当然だった。
「冴子、お前ならどうする?」
「どうするって、思いつかないから聞いてるんでしょう?」
「そっちじゃなくて」
 撩は口の片端を持ち上げた。
「お前が、その女たちと同じ立場だったらどうするって聞いてんの。槇村が俺に殺されてたら、んで、その俺に相棒がいたらお前はどうした?」
 冴子が切れ長の双眸を大きく瞠った。
「馬鹿言わないで。そんなこと仮定にもならないわ」
 女はまなじりをつり上げて膝上に置いていたコーヒーカップをテーブルに戻した。
 撩はもう一度肩をすくめた。
「それじゃあ俺の考えになるが、相手の女たちの目的は俺に殺された人間のための復讐だ。香を殺すことそのものじゃあない。被害者ってやつの恨みを買っているのは、あくまで俺のはずだ」
「香さんはただの人質であって、彼女に危害が及ぶ心配はないってこと?」
「そこがわからん」
「なんですって?」
「少なくとも今まで俺が相手にしてきたようなプロは香を目的にしなかった。……当たり前だな。だが、単に俺への憂さを晴らしたいなら正直、何をするかわからん。俺を殺すことにこだわらなけりゃ、逆に香にこそ危害を加えるかもしれん」
 女たちの目的は、シティーハンターへの復讐だ。名誉欲のやたら強いの一部のプロのように、冴羽撩の命を取ったと名乗りを上げたいわけではない。あの女たちはいざとなればどんな卑怯な手口でも使うことを厭うまい。そもそも体面になんてこだわる必要はないのだ。それにあの女たちは──少なくとも桐生美和と名乗ったあの女を見る限り──本当は自分の命すら惜しんでいないだろう、という気がした。つまり冴羽撩に対する楯としての香すら本当は必要としていないのだ。
「ちょっと、それってまずいじゃないの!」
 やっぱりまずいのか、と撩は苦笑した。
「その辺りの女の心理ってやつをお前に聞きたかったんだがな」
 女の顔色が再び変わるのを見て、撩は慌てて両手を顔の前に立てた。
「怒るなって」
「怒るわよ!」
「──まあ、だが、どっちにしても次の動きがあるまでとりあえず香は大丈夫だ」
「その確信はどこから来るの?」
「一種の勘だな。あの女は、ここはまだ中間地点ってな雰囲気だった。フィナーレはまだ先だと思ってる。香は連中にとっては切り札だ。ゲームの山場以外で切られるおそれはないさ」
 そうでなけりゃとうに殺されてる、とは口にせずに思った。
 納得しつつも腑に落ちないという複雑さを表情に現して、冴子は美しい形の唇を引き結んだ。
「それよりなあ、冴子」
「……なに?」
 とげとげしい声が帰ってくる。
「お前、もしさあ。もし槇村が死ぬ前に俺とあってなかったら、どうしてた?」
 まだ唇を尖らせて、冴子は不機嫌さを隠そうともしない。
「言ってる意味がわからないわ」
「お前が俺っていう人間を知らないままで槇村がああいう死に方をしてたら、あいつをこういう世界に巻き込んだ俺を憎んだか?」
 撩の言わんとしていることを理解したのか、女は息を詰めた。まじまじと男の顔を見つめてくる。
 沈黙の天使が室内でステップを踏んでいった。
「……何が聞きたいのかと思ったら、そんなこと……」
 やがて、彼女は呆れたように息をついた。
「もしあなたを憎んでるとすれば、あなたを知ってるも知らないも関係なく憎んでいるわよ」
「そういうもんか?」
 冴子は少し口元をゆるめた。わざとらしく目尻だけをつり上げる。
「あのねぇ、撩。あなた槇村と親友だったんでしょう? そのくせ彼のこと、実は良く分かってないんじゃないの?」
「手厳しいな」
「槇村は、他人に巻き込まれるような男じゃないわ。優しいけれど、言っておくけど今のあなたよりずっと強かったわよ。その槇村があなたに巻き込まれたりするもんですか」
 冴子は誇らしげに語った。そのことに撩は一抹の切なさを覚えずにはいられない。
 槇村秀幸という男を良く知る幾人かだけは、おそらくその切なさの理由を理解できるはずだった。それは、例えば彼のことを今なお本当の意味では過去形で語れない者が何人か残っていることと同じように。
「……ま、確かにあいつはああ見えて頑固モンだったからな」
 くすりと冴子が笑う。
「そうよ。槇村は、自分で選んであなたと生きることに決めたのよ」
 初めて、冴子の視線が伏せられた。
「その結果が……ああいうものだったとしても、少なくともそれはあなたのせいじゃないわ」
 是とも否とも答えがたく、撩はテーブルの上から煙草を取り上げた。
「吸っていいか?」
「一本だけならね」
 どーも、と言って撩は箱の底を軽く叩く。
「止めようとは思わなかったのか? 俺の相棒になるなんざ、ろくなことにならないのはわかってたろう」
「頑固者って言ったのは、あなたでしょう? わたしが止めたって聞かなかったわよ。それに、あなただって一度くらいは止めたはずよ」
 煙草に火をつける。赤い炎がしっかり葉に染みとおるのを待って撩は口を開いた。
「いんや?? 俺は好きなようにしろとしか言わなかったぜ」
「それが本当なら、止めても無駄だと知っていたからでしょうね」
「さあてね」
 撩は煙を吐き出し、うそぶいた。
 さすがに冴子は鋭い。仮に、あのころ自分がいやな素振りを見せても槇村は押し掛け女房よろしく結局パートナーの座に納まったろう。
 槇村を本当に止められたとすれば、それはきっとただ一人だった。
 冴子が髪を払った。
「香さんもそうね」
 脳裏に思い描いていた人物の名に、撩は胸の底で狼狽した。
「香?」
「ええ、そう」
 冴子は目を上げ、撩を真っ直ぐ見つめていた。
「香さんも槇村と同じなんだわ。あの槇村の妹が他人の人生に巻き込まれたりするもんですか。彼女は自分で選んでこの世界に飛び込んで、今もあなたの傍にいるのよね。そうでしょう?」
「……さあな」
 撩は少しうつむいて笑った。
 冴子が目を細めて微笑むのが目の端に見えた。
「……そろそろ帰るわ。話は聞いたし、明日も朝から仕事だし」
「今は盆じゃねえの?」
「色々あるのよ」
「公務員も大変だな」
「わたしは結局こういう生き方が好きなのよ」
 冴子は少し自嘲したようだった。撩はそれに気づかない振りをする。
「お前ももういい歳なんだから、肌荒れには気をつけろよ」
「失礼ね」
 冴子が笑って立ち上がる。
 撩は吸いかけの煙草をもみ消す。立ち上がって、女を玄関口まで送った。
「香さんのこと、しっかり頼むわよ」
「ああ」
 じゃ、と言ってドアを開けた冴子は、なにか思いだしたように振り返った。
「せっかく淹れてもらったのにコーヒー飲まなかったわね。でも、ごちそうさま」
「いんや、どういたしまして」
 短い別れの挨拶を交わして、冴子は部屋をあとにした。
 

 リビングに戻れば、確かにテーブルには冷めたコーヒーが口を付けられないまま残っていた。
 コーヒーは、そのままにしておくとカップにシミとなって残るため、撩は早々にそれを片すことにする。
 こういうことには槇村がひどくうるさかった。
 そうして撩は、何年経っても槇村の存在が小さくならないと思い知る。今でも座右の銘のように思い出される槇村のお小言の多さに、撩は苦笑せずにはいられない。
 死してなお、槇村という男は依存される男だった。
 そして、槇村に依存する人々は彼が死者となってなお彼に頼らなければならないことをわかっている。その度に彼がどれほど大きな存在だったかを思い知り、彼の存在が心の中で薄らぐことはありえない。
 何より彼のことを本当に過去の人物として語れる日が来ることを、生者は望んでいないだろう。きっと、槇村を失った人々の中で、彼の安らかな眠りを心から祈っているものなど誰もいないに違いない。
 誰もが、見ていてくれと思っている。
 自分たちを、どうか見守っていて欲しいと。
 苦笑しているのは、むしろ槇村の方かもしれないと撩は思う。
 お前ら、いったいいつまで俺に頼ってくるつもりだ。いい加減ラクさせてくれよ。
 あの少しくたびれた笑いを浮べて、そんなことを思っているかもしれないと。
(わかっているさ)
 撩は胸の内に住む親友にそう語りかけた。
 けれど、頼らずにはいられないのだ。
 彼がいなくなった場所にぽっかりと空いた穴は、誰にも埋められない。
 槇村秀幸は、幾人かにとって今でも確かに心の支えだった。
 けれど、槇村がいれば、今の生活はない。
 あの日、まだシュガーボーイだった香と撩が出逢わず、香が槇村を止めていたならと仮定してみる。
 槇村秀幸は死ななかったろう。そして、香はいま冴羽撩のそばにはいないだろう。
 海原が足を失ったからこそ今の冴羽撩の命があるように、槇村が命を失ったからこそ今の冴羽撩の生活がある。
「誰かの犠牲の上に成り立つ幸せってのは、ちょっと陳腐すぎるかねぇ」
 撩はシンクに向かって呟いてみた。
 香が磨き上げたシンクは、まだきれいに光っていた。
 


 
 

next up date ?

closed