≪ The Last King-Crow ≫
 

 鴉は最弱である。
 大陸テリウスを創りたもうた女神。女神を慰めるために生まれたという神の似姿≪マンナズ≫。マンナズがやがて姿を変えたベオクとラグズ。
 そのベオクとラグズの中にあって、鴉は最弱である。
「やれやれ。この軍の連中はどいつもこいつも化け物かよ」
 キルヴァス王ネサラは呆れて溜息をついた。正の女神(アスタルテ)のおわす塔に入ってからというもの、ネサラの黒い翼は大した役には立っていない。
 元よりラグズの王たちの強さは知っているつもりだった。黒竜王は問題外としても、ネサラは獅子王や鷹王とも正面きってやり合う気にはなれない。だが、この戦で知ったベオクの強さは予想をいささか上回る。いかに正と負、それぞれの女神の加護があるとは言え、強力な道具と魔法を使いこなせばベオクもまた鴉より強い。鴉の王たる彼がうかつに飛び込む気になれないのだから絶対だ。特に負の女神(ユンヌ)の一団を率いる将の強さたるや、混じりっけなしのニンゲンとは到底思えぬほどである。
 おかげでネサラの今の役所はと言えば──宿敵とも言うべきガドゥス公ルカンを討ち取ったことを除いて──白鷺姫と皇帝の護衛がせいぜいだった。
「手を抜いているのか! 鴉王!」
 若獅子にそう怒鳴られたりもするが、ネサラは肩をすくめるばかりだ。
「ここで死ぬわけにはいかないんでな、勘弁してくれ」
「後に退けぬのは皆同じだ!」
「それは少し違う」
 ネサラは前に出すぎた鷺姫の襟首をくわえて槍の一撃を無造作にかわした。爪で首を断つ程度の余力はあるが、白鷺を返り血からかばうのは少しばかり難しい。早々に退散を決め込んで、せめてもの置きみやげに若獅子の背後に回ろうとする正の使徒に風の刃を見舞ってみる。しかし、これは果たしてかすり傷のひとつも負わせられたかどうか。
 ネサラはキルヴァスの王だ。それはすなわち、彼が最強の鴉であることを意味する。王が血脈で決まるベオクとは違い、また、戦う力を持たぬ鷺の民とも違う。戦うラグズの王はただ最強、その一点でのみ選ばれる。事実、ネサラは鴉としては無双の存在だった。しかし、その彼でさえ今の集まりの中では決して最強と呼べる部類にはない。
 これが鴉の限界か──と、キルヴァス王は滑空する鷹王を横目に見ながら、自らの種を冷静に位置づけた。
 力で獣に劣り、知恵でベオクに劣り、空にあっては鷹に劣る。無論、竜の足下にもおよばず、そして鷺のように不可侵の存在になれるはずもない。
 すなわち、最弱。
 肉体の力を絶対とする血気盛んな若獅子辺りに言わせれば別の意見もあるだろうが、ネサラはこの事実を認めないわけにはいかなかった。鴉にあるのは逃げることを恥と思わぬ精神と、他人のものをかすめ取るあざとさと、人を騙す小賢しさ、そんなものばかりだ。
「ネサラ、ここ、おろして」
「おっと、そうだな」
 リアーネに言われて、ネサラは白い躰を放した。息を切らしたベオクとラグズが、それでも鷺の姫を守るため、すぐさま走り寄って四方に壁を造る。一呼吸置いて、その輪の中心から聖なる歌声が響いた。乱れていた呼吸が落ち着き、躰の隅々まで潤いにも似た力が満ちる。戦う力を一切持たぬ鷺の一族を不可侵たらしめる、この神秘。
 今度はネサラも前に出る。くちばしで敵の喉笛を切り裂き、羽ばたきをもって骨を砕く。鉤爪に四、五人程度は引っかけたろうか。あとは黒い風となって身をひるがえし、再びリアーネを背後にかばった。
 鷺の一族に返り血を浴びさせるのは論外だが、常ならば、戦ってすぐに鷺の間近に寄ることも絶対にしないだろう。だが、若獅子の言うとおり、今は後に退けないこともたしかだった。
 しかし、それはやはり、死ねないこととは違う。
 

「また裏切る気ではなかろうな」
 一戦終わったところで若獅子にそう声をかけられた。ネサラが何か言うより前に、すぐ脇で翼を休めていた白い体が跳ねるように起き上がった。
「ネサラ、うらぎる、ない!」
「おい、こら。リアーネ、待て」
 ネサラの静止を振り切って立ち上がった鷺の姫は、真白い両腕をネサラの前に広げた。華奢な白鷺の乙女が、優に自分の倍はあろうかという若獅子の前に立ちはだかる。
「また邪魔をする気か、鷺の姫!」
「する!」
 即答された挙げ句、鷺の娘に睨みあげられて、巨漢の若獅子は可哀想にも微妙な表情で固まってしまった。
 優美さと儚いまでの繊細さは鷺の一族の代名詞だ。そんな鷺の鷺たる王族の姫が獅子を前にひるみもしないほど気が強いなど、年若い獅子は夢にも思わなかったに違いない。
 白い翼にかばわれて、鴉王は思わず苦笑した。
「さすがにこいつがすぐそばにいるのに、裏切りの計画を立てるのは難しいな」
 鷺の民の能力(ちから)は知っているだろう、と言うと若獅子は何とも言い難い顔をして白の姫を見やった。
「人の心を読めるとは聞いているが。しかし、この姫は噂に聞いた鷺の民とずいぶん違うぞ。……これではまるで翼を生やした猫ではないか」
 目の前に広がる純白の羽毛が逆立っているのを見てネサラは思わず吹き出した。「なかなか上手いことを言うな」
 実を言えばネサラでさえも昨今のリアーネには驚いているのだ。兄のリュシオンといい、リアーネといい、情の(こわ)い鷺など前代未聞である。
「笑っている場合か!」
「あー、悪い悪い」口もとを押さえていた手を振って、ネサラは軽い口調で言った。「今の俺にはもうこの軍を裏切る理由はないさ。こんなに澱みのない世界じゃあ、鴉には居心地が悪いことこの上ないしな」
「ならばもう少し性根を入れて戦え! あんたの力はこんなものではなかろう!」
「言ったはずだぞ、スクリミル」ネサラは声音を変えて若獅子を睨んだ。「俺はここで死ぬわけにはいかんとな。命を危険にさらすような戦い方をする気はない」
 痩身の鴉王の目線に、赤い獅子が息をのむ。その巨躯がわずかに()されたかに見えた。
 が、それも一瞬。次代の獅子王は我に返ったように憤然と言い返す。「負けられんのは誰しも同じだ!」
「いいや、それは違うね」ネサラは軽く口元をゆるめて自分の喉元をひと撫でしてみせる。「俺の首は特別だ。フェニキスとおまえらガリアの連中のために取っておかなきゃならないからな」
 そうだろう? と同意を求めるとスクリミルはにわかに押し黙った。
「ケチで名高い鴉とはいえ、俺もさすがにこんなところで出し惜しみはしないさ──ふつうならな。俺が死んでも、誰かが最後に女神に勝てばいいと言うだけだ。だが、今回ばかりはそうはいかん。この戦いの後、ラグズ連合の溜飲を下げる役目は、俺にしかできない」
 
 
 

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