≪ The Last King-Crow ≫
 

 ネサラは自らの決断がラグズ連合にもたらした被害を知っている。
 ゼルギウス提督の計らいで事態は最悪にこそ至らなかったが、少なくとも、ネサラは裏切りの決断を下したときにフェニキス本土の民のすべて──すなわち女 子供に年寄りの別なく──皆殺しにすることを覚悟した。焦土と化したフェニキスに対しては一点の申し開きの余地もない。鷹の民は戦場にあったごく少数を除 いて、文字通り全滅する可能性があったのだ。
 それを知りながらなお裏切った。
 その罪の重さを、彼は誰より知っている。
 ──しかし、それはともかくだ。
 ネサラは白鷺姫の両肩に手を置いた。
「リアーネ、おまえはあっちの、……そうだな。クリミア女王のところに行ってろよ。こんなうるさい男がいたんじゃ休めないだろ」
「俺のせいか!」
 鴉王は呆れた振りをして若獅子を見やった。「他に誰がいる」
 うなる獅子を尻目に、ネサラはリアーネを促した。「すぐにまた忙しくなる。な、あっちで休んでろ」
 だが、鴉王を振り返った白の姫の柳眉は逆立ってた。
「いや!」
「……」
「……」
 ただの一言で却下され、今度は鴉王が固まる番だった。向かいでは若獅子も黙り込んでいる。
 そんな男二人にはお構いなしに、白鷺姫はネサラの腕をつかんだ。
「わたし、ネサラのそばがいい」
 ……だめ? と見上げてくる森の緑の瞳は一転して頼りなげだ。作為がないとわかるだけにタチが悪い。
 鴉王は思わず天を仰いだ。
「あー、……まあいいけど。さがってるならな。おまえじゃあ、ぶたれるどころか、スクリミルにちょっと押されただけでも壊れっちまう」言いながら、ネサラ はさりげなく白の姫の手から自分の腕を抜き取った。
「鷺の姫に手を上げるようなことはせん!」
「当たり前だ、そんな真似を許すと思うな」
 肩をいからせる獅子を一言で切り捨てて、鴉王は軽く肩を回した。「で? なんの話だっけね?」
「……う。あんたに、その、なんだ。性根を入れて戦えと言いに来たんだ!」
 ああ、そうだったな、とネサラは口元に笑みを掃いた。
「そうは言われてもねえ。俺の体も俺の命も、もう俺の好きにできるものじゃあない。フェニキスとガリアの双方が俺にここで戦って死ねと言うならともかく、 勝手に死ぬわけにもいかんだろうよ」ネサラはリアーネの頭を撫でながら、不安げな面持ちで見上げてくる少女に短く目配せした。本気じゃな いから心配するな、と心の中で伝える。「もっとも、ここで死ぬほうが、俺としちゃあ楽に死ねそうなんだがね」
 どうだ、ここで死んだほうがいいか、と訊けば途端に若獅子が吠えた。
「そんなことが許されると思うか!」
「だから言ってるだろ?」鴉王は若獅子を睥睨した。「俺はここでは死ねないってな」
 スクリミルはひとつ唸って太い腕を組んだ。
 その姿を見てネサラは密かに笑う。力だけが取り柄かと思っていたが、案外と道理のわかった男だと思った。これなら思ったよりも次代の獅子王として悪くない。
 それでもまだ少し甘いがな、と鴉の王は苦笑する。
 自分の命が自分のものではない──というネサラの台詞は、実のところもっともらしい嘘だった。こういう台詞を頭から信じてしまう素直さは、やはり、いか にも獅子らしい。


 ネサラにとって、自分の命が本当に自分のものでなかったのはつい先頃までの話だった。
 彼は今、王になって初めて自由を感じていた。自分の命も自分の意志も、今はすべてを自らのものだと思うことができる。
 今までずっと、生きた心地がしなかった。彼も、彼ばかりではなくキルヴァスのすべてが帝国の駒に過ぎぬとわかっていて、どうして安らぎを覚えられよう。 かの国に生きる命は、いつ同胞を巻き添えにして火中に投じられるか知れたものではなかったのだ。
 しかし、それはもう終わる。ようやく終わる。
 ネサラは胸元の隠しにしまった血の誓約書に触れた。
 これを取り返した。だからこそ、自分の命を自分の意思で、罪滅ぼしに差し出すこともできる。
 それがどれほど貴重なことか、キルヴァス王以上にわかる者はいないだろう。
 キルヴァスは帝国の奴隷たれ。そんな誓約という名の呪いの前では、贖いすらも叶わなかったのだ。過去に、自決によって裏切りの要求を拒絶しようとした王 もいたと聞く。しかし、呪いは次代の王に受け継がれるだけだった。贖いのために自らの首を携え、他国に赴こうとした王も皆無ではなかったらしい。だが、都 合の良い奴隷を手放したくない飼い主は、キルヴァス王に安易な贖罪を許しはしなかった。
 だから、今ようやく、鴉王は裏切り続けた同胞たちに真の意味で詫びることができるのだ。
 ネサラは胸元から手を離し、若獅子に向けて軽く両手を広げて見せた。
「誓うって言葉には反吐が出るんだがね、こればっかりは誓ってもやっていいだろう。俺は逃げも隠れもしない。この戦いの後、俺をどうするかはすべてフェニ キスとガリアの自由だ。煮るなり焼くなり好きにするといいさ」
 ネサラはひとつ笑った。おそらく、書いて字の如く煮られるか、あるいは焼かれるか。むしろ、その程度で済めば幸いというものだろう。このキルヴァス王が怒れる鷹と獣牙の民に投げ与えられれば、どれほど無惨な死が待ち受けているかは想像に難くない。
 首を落とされ、翼を斬られ、五体を千に引き裂かれる自分はたやすく目に浮かんだ。当然ながら、あまり嬉しい光景ではない。
 けれど、安い話だ。
 自分一人の死でラグズの怒りすてべを買えるなら、これほど安い話はない。
「俺にはわからん」若獅子が吐き捨てた。「自分の首を差し出す覚悟をするくらいなら、そもそも、なぜあんな真似を……!」
 声を荒げたスクリミルが、ふと顔色を変えた。「おい、鷺の姫……。どうした?」
「リアーネ?」
 ネサラに添うように立っていた細い肢体が突然傾いだ。無言で崩れ落ちる体を、ネサラは顔色を無くして抱き留める。「リアーネ! 大丈夫か!」
 見ると鷺の姫は目を閉じて気を失っているように見えた。元より真白い肌が胸元まで青ざめている。さすがに負の気にやられたか、とネサラは周囲を見渡し た。
「スクリミル。悪いがアイクの妹を呼んできてくれ」
「アイクの妹? 杖を使わせるなら巫女のほうが良いのではないか」
「アイクの妹は正の気が強い。リアーネには負の巫女よりいいはずだ」
 わかった、と若獅子が立ち上がりかけたところで、真白い翼がわずかに床を叩いた。「待って……」
「休んでろ」
 今、助けを呼ぶから、と言うネサラに対してリアーネは首を振った。
"Naesala, shinjaiya......"
    (ネサラ、死んじゃいや……)

「……」
"Shindaraiya, shinanaide......"
    (死んだらいや、死なないで……)

「リアーネ、おまえ……」その言葉を聞いてネサラは呻いた。「見たのか」
 鷺の姫は鴉の手を胸に抱きしめて、緑の瞳から涙を零した。
 鴉王はうなった。
 先ほど自分が思い描いた贖いの図を、リアーネが見てしまったのだと気がついた。彼女が自分の内側を覗いていたのか、それとも自分が漏らしたのか……おそ らく後者だ。鷺の民が羽が触れあうような距離にいる時に、断じて思い描くべき事柄ではなかった。あれほど明確に想起すれば、リアーネにはその光景まで目に 見えてしまったに違いない。
"Naesala, shinanaide"
    (ネサラ、死なないで)

「おい……鴉王。鷺の姫はなんと言っているのだ」
 若獅子の問いかけにネサラは答えあぐねた。リアーネの手を少しだけ握りかえして呼びかける。
「リアーネ、お前が心を痛めることはない。俺が償うのは当然だ。怖いものを見せて悪かったが、悪い夢だと思って忘れろ」
 鷺の姫はネサラの腕の中でいやいやと首を振った。とめどなく涙を流しながら若獅子のほうへと身をよじり、手を伸ばす。岩をも砕く獅子の拳に鷺の繊手が触 れた。「おねが……します。ネサラ、ゆるし。おねが、します」
「な……」絶句した若獅子の顔が、次の瞬間、その髪のように赤くなった。「ゆ、許せるはずがなかろう!」
「で、ます。でき、ます。わたし、ゆるし、ます」
「それは、鷺の民には関係ないことだからだ」
「ちがうの。……わたし。わたしは」
 うーっと声を上げてリアーネは首を振った。
"Datte, watashiha anokowo yurushitamono. Kawaisoudatta. Anokomo annnani kurushindeitakara. Dakara, anatamo Naesalawo yuruseruwa"
    (だって、わたしはあの子をゆるしたもの。可哀想だった。あの子もあんなに苦しんでいたから。だから、あなたもネサラをゆるせるわ)

「リアーネ、よせ。無茶を言うな」
「鷺の姫は何を言っているんだ!」
「おまえには関係ない」
「関係ないわけがあるか!」"Kankeinakunai!"(関係なくない!)
 声が重なって、若獅子はまじまじと白の姫を見た。
「……今のはなんだかわかったぞ、鷺の姫よ。関係ないわけではないと言ったのだな? 俺に言うことがあるのだろう」
「はい。そ、です」うんうんとリアーネが頷き、森の瞳が一心に若獅子を見上げる。「スクリミル、聞いて」
 若獅子の頬がわずかに赤くなった。
「や、訳せ! 鴉王」
"Naesala, Yakushite!"
    (ネサラ、訳して!)

 ネサラは思わず天を仰いだ。「何を意気投合してんだよ、おまえら」
「よ、よいではないか! とにかく訳せ!」
 若獅子はつかみかからん勢いだし、リアーネからは怨みがましい目で見上げられ、ネサラは溜息をついた。
「──おまえも聞いているだろう。三年前、リアーネはセリノスの虐殺を詫びる皇帝を許した。こいつはその話をしてるんだ」
「ぬ……」
「けどな、リアーネ。セリノスのことはサナキが生まれる前の出来事だ。あの皇帝には罪がなかった。おまえ、それをわかってたろう」だから関係ないと言ったんだ、とネサラは若獅子に向けて続けた。「今度のことは、すべて俺のやったことだ。俺は、その責めは負う。リアーネは今……少しばかり動揺して るだけだ。こいつの言うことは気にするな」
 鷺の姫はまだ緑の瞳に涙を浮かべて若獅子を見上げている。若獅子は口元を一文字に引き結んで、純白の乙女と鴉王とを見比べた。
「──なぜ、鷺の姫はここまであんたをかばう?」
「わたし、ネサラ大好き」
 鷺の姫に極めて単純な理由を即答され、若獅子は微妙に情けない顔になった。鴉王はわけもなく嘆息する。
「別に深い意味はないからそんな顔……いや。とにかく気にするな。俺はこいつの数少ない古なじみで、リアーネは誰のことでもすぐ好きになるんだ。そもそも 鷺はそう簡単に人を嫌ったりはできないからな」
「……鷺の民は負の感情を持てんとは言うが」渋い顔をした若獅子は、ふと何かに気づいたように顎をさすった。「だから、鷺の姫はニンゲンどもの暴挙も許せ たというのか?」
「かもな。ラフィエルだって一族の死に悲嘆はしてもベオクを憎んじゃいないだろうよ。そういう生き物なのさ、鷺は」
 だが、おまえは鷺じゃない、とネサラは目を細めた。
「スクリミル、おまえは何も間違っちゃいない。おまえは次のガリア王だ。そして、俺に民を殺された。俺に向けるおまえの怒りは、正当なものだ」
 
 
 

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