≪ The Last King-Crow ≫
 

「俺にはあんたがわからん」しばらくネサラの顔を見つめた若獅子はそう言い捨てた。「だが、とりあえず死ぬな。それから手は抜くな!」
 スクリミルはそれだけ言って立ち上がった。リアーネがまだ何か言いたげに声を掛けたが、「鷺の姫は休んでいろ」とだけ言い置いて若獅子は背を向けた。
「別に手を抜いてるわけじゃない」
 ネサラは立ち去る背中に笑って言ってやった。ちょっと命を大事にしているだけさ、という台詞は果たして届いたかどうか。
 大股に立ち去る巨躯の背中はやり場のない憤りを押さえ込んでいるのが明らかで、ネサラは軽く苦笑した。どうもその背中からは、白の姫の前でもめ事を起こ すのはうまくないという想いが見て取れるようだ。
 てっきり強い者にしか興味のない男かと思っていたのだが、意外なことに、この白い翼には弱いらしい。年若い獅子が、世にも珍しい強情な鷺の娘にいささか 幻想を壊された風なのは気の毒でもあったが。
 よいしょ、とネサラは少しも重くない白の姫の体を抱き起こした。
「リアーネ、おまえ、もう少しあいつにもいい顔をしてやれよ。王になるにはまだまだ甘いが、スクリミルは悪いやつじゃない。わかるだろ?」
 リアーネの顔色はまだ悪い。いかに鷺にしては芯が強い娘だとは言え、負の世界を見せられた白の姫はまだ立ち上がれないようだった。ネサラが小さな頭を昔 のように撫でてやると、白鷺姫は恐れげもなく鴉王に体を預けて困ったような顔をした。
"Waruihitojanainohawakarukedo......Naesalawoijimeyoutosurunndamono"
    (悪い人じゃないのはわかるけど……ネサラをいじめようとするんだもの)

「それは仕方がない。悪いのはあいつじゃなくて俺のほうだ」
 ネサラは軽く笑ったが、リアーネの顔は途端に曇る。その顔を覗き込んで、ネサラは真面目な顔になった。
「……忘れろ、と言ったろう」
「でも、ネサラ」
「悪かったな、変なものを見せて。あれは俺の失敗だ。だから忘れろ。おまえが心を痛める必要はないんだよ」
"......Doushite, iwanaino?"
    (……どうして、言わないの?)

「ん?」
"Doushite, Tibarnsamaya, Skrimirto, channtoohanashishinaino?"
    (どうして、ティバーンさまや、スクリミルと、ちゃんとお話ししないの?)

「俺があいつらを裏切った理由か」
「そう。Etto(えっと), りゆう」
 ネサラは目を細めた。
「言い訳はしたくないからな」
「でも……」
「いや、ティバーンにはいずれ話すさ。カイネギス殿にもな。自分の民が理由もなく殺されましたでは、二人とも収まりがつかないだろう」
 ネサラとしては、それが言い訳じみて聞こえないことを祈るばかりである。
「俺はキルヴァスの王だから。正直に言えば、俺は今でも民を守ったことは悔やんじゃいないんだ。けどな、そのために俺はフェニキスの民を殺した。ガリアの 連中も死んだ。……それも呆れるほどたくさんだ。自分が殺した分の償いは、しないとな……」
 そして、願わくは自分一人の命で連中の怒りのすべてを受け止められるように。鷹王や若獅子ばかりではない、ラグズのすべての怒りが、どうか自分に向くよ うに。
 これも本当は虫のいい話なんだがな、とネサラは笑う。
 正直なところ、ネサラは己の行いが自分一人の命で贖えるとは思っていなかった。
 彼の裏切りによって失われた命、失われるはずだった命は、彼ひとりで背負うには多きに過ぎる。
 だが、彼以外に他の誰を恨めというのか。
 裏切りをそそのかしたニンゲンはもう死に絶えて、残る裏切りの罪は、ただこの王のみにある。
"Shinanaide"
    (死なないで)

 白の姫が口を開いた。
"Naesala, Shinanaide"
    (ネサラ、死なないで)

「この戦いが終わるまでは死にやしないさ」
"Sonoatomo zutto, shindaraiya"
    (その後もずっと、死んだらいや)

 鴉の王は、白鷺の姫の頭をもう一度撫でた。
「すまないな。おまえの望みは聞いてやりたいが、こればっかりは約束してやれそうにない」
 だって、鴉は最弱だから。
 怒りにたぎる鷹と獣牙族を相手にすれば鴉には勝ち目がない。ネサラの目に、それは明らかだった。
 ラグズばかりではない。ベオクはこの先も知恵という名の力をつけるだろう。ならばベオクとも対等に渡り合っていくことは難しい。かといって、竜鱗族のよ うに他の一族との交流を絶って生きることもできはしなかった。自給自足で生きるには、キルヴァスの地はあまりに貧しいのだ。
 鴉の民には居場所が必要だった。同胞あるいは仲間と言い換えてもいいだろう。今のまま、ラグズから怨みを買ったままでは、鴉の民はいつか滅びる。
 だからなんとしても、この身ひとつを持ってキルヴァスに対する怒りのすべてを連れて行く。
「ネサラ」
 白鷺姫の呼びかけに、ネサラは我に返った。
"Naesalagainakunattara, watashihatotemokanashikunaruwa"
    (ネサラがいなくなったら、わたしはとても悲しくなるわ)

「そうか……」彼は鷺の姫の顔を見て、胸が痛むのを感じた。リアーネを悲しませるのは彼にとっても痛恨と言えた。「……悪いな。てっきり、おまえも俺を嫌 うもんだと思ってたんだよ。……読み誤った」
"WatashihaNaesalaga, daisuki"
    (わたしはネサラが、大好き)

「……まったく。今でもそんなことを言うのはおまえくらいだ」
 鴉王は苦笑してみせたが、白の姫は沈んだ面持ちのまま首を振った。
"Uunn. NealuchimoNaesalagadaisuki. ......Naesalagainakunattara, Nealuchihakitto, watashiyorimottokanashimuwa"
    (ううん。ニアルチもネサラが大好き。……ネサラがいなくなったら、ニアルチはきっと、わたしよりもっと悲しむわ)

「ああ、ニアルチ……」鴉の王は目を閉じて、自分が生まれる前から仕えてくれた老僕を思い起こす。「ジジィは、まあ、そうだろうな……」
 キルヴァスの王となったネサラを、今なお平気でぼっちゃまと呼び称す老鳥は、およそ何かの間違いで鴉に生まれてきたとしか思えないお人好しだった。たと えどんな理由があろうとも、あの老人はネサラの死を心の底から悼むだろう。もうしばらく時間があればすっかり白の姫に預けてしまうつもりでいたというの に、何事も思い通りにはいかない。
「……なあ、リアーネ。俺がいなくなった後、ニアルチをおまえのそばに置いてやってくれ。まだまだボケちゃいないし、年寄りだけあって物はよく知ってるか ら、少しはおまえの役にも立つだろう」そして鷺のそばにいれば、無体な真似をされることは少しなりとも減るはずだ。この聖なる娘の存在は、あの老僕を守っ てくれるに違いない。
 白の姫が両腕を伸ばして、鴉王のほおを両手で包んだ。森の瞳がかすかに笑った。
"......Naesalaha, Nealuchigahontounidaisukine"
    (……ネサラは、ニアルチが本当に大好きね)

 鴉王は少し笑う。心を閉じずに話していたのだから、こう言われることは覚悟の上だった。「……そうだな。ニアルチには本当に」感謝している、と言いた かったが、今は悪いことをした、という思いばかりが先に立つ。人生の最後にもなって、孫どころかひ孫のような歳の主に先立たれるなど、そんな思いをさせる のも酷な話だった。世にも希なほど誠実な老鴉への気がかりは尽きない。
「リアーネ。俺がいなくなったら、ニアルチは馬鹿なことを言い出すかもしれない。だけど、あいつは今さら死に急がなくてもじゅうぶん老い先短いんだ。あい つがおかしなことを言い出したら、おまえ、止めてやってくれよ。おまえの言うことならニアルチもきっと聞く。──ニアルチのこと、好きだろう?」
「……うん。ニアルチ……、大好き」
 鴉王は三度苦笑した。
「本当に呆れるな。鷺の民が鴉にばかりなつくなんて聞いたことがないが」しかし今はそれがありがたい。
 白鷺姫は鴉王の頬を両手で挟んだまま、ふしぎそうに首を傾げた。
"Doushite? Nealuchihasugokuyasashiimono"
    (どうして? ニアルチはすごく優しいもの)

「おまえがなつくのも当たり前、か。……ニアルチは白い兄妹に、それはそれは甘かったからな」
"Naesalamo, hajimekara totemoyasasikatta"
    (ネサラも、初めからとても優しかった)

「白の兄妹に悪さをすると、俺がこっぴどく叱られたんだよ」無論、彼を叱りとばしたのは老いた鴉である。「……懐かしいな」ネサラは思わず呟いた。
 そんなネサラの頭を、鷺の姫は子供にするようによしよしと撫でる。それもまた、鴉王には懐かしかった。リアーネが見た目も未だ雛の時分、ネサラはたびた びこんな風に撫で回された。鷺の王家の末の姫は一度お姉さん役をしてみたかったらしく、森を訪れた鴉の少年を他にも色々なままごとに付き合わせたのだ。
"Niisamamowatashimo, saisyokara Naesalagadaisukidatta. Naesalahasaisyokara, totemoyasashikattamono"
    (兄様もわたしも、最初からネサラが大好きだった。ネサラは最初から、とても優しかったもの)

「覚えていない」
 そっぽを向いて答えれば、白い姫が小さく笑った。
"Naesalahatotemoyasashikattano. Demo, kokorodeomotterukototochigaukotowoiuno. Okashii"
    (ネサラはとても優しかったの。でも、心で思っていることと違うことを言うの。可笑(おか)しい)

 ネサラも短く苦笑した。
 鷺の民は嘘をつかない。種の性質として嘘をつけないのだ。セリノスの森の最奥で育った幼い鷺の姫は、嘘というものに触れたことがなかったらしい。外から 来た鴉の少年が照れてついた嘘を、だから面白く思ったとしても無理はなかった。
「……じいやが鷺の力を黙ってたんだよ」
 幼い日。森の緑の眼差しがさも不思議そうに自分を見上げ、「どうして心で思っているのと違うことを言うの?」と尋ねてきたときの衝撃は忘れがたい。この 白い雛には自分の心が読めるのだと知った時は顔から火が出る思いだった。ぼっちゃまがじいの話をきちんとお聞きにならないからです、と老僕がここぞとばか りにカラカラと笑ったのを覚えている。
 鴉王はその頃を懐かしんだ。ただ幸福だったと呼べる時があるとすれば、それはあの頃をおいて他にない。
 
 

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