≪ The Last King-Crow ≫
 

 しかし、今やネサラは王だった。あの豊かな森とは似ても似つかぬ、貧しき国の王だ。
 断崖と荒海に囲まれた群島キルヴァス。その地に生きるのは黒翼と裏切りで知られた鴉の民。
 かつて鷹と袂を分かったという鴉がその地に流れ着いたのは、おそらく他に行き着く場所がなかったからだとネサラは推測する。彼の民は、鷹とも、他の民と も、争って勝てる種ではないのだ。誰も欲しがらないような土地だからこそ、キルヴァスは鴉の巣になった。
 しかし、キルヴァスの島々には鴉の民を支えるだけの恵みがない。
 ネサラは目を開けて白鷺姫を見た。豊かで美しい森に守られた、この世で最も美しい民の姿がそこにある。
「……あの皇帝なら、すぐにでも約束を守ってセリノスを返してくれるだろう。邪魔する連中も軒並み片が付いたし、もうすぐ戻れるぞ」ネサラは鷺の姫に笑って 見せた。「良かったな」
「うん」
 白の姫は鴉王の手を両手で包んだ。「ネサラも、いっしょ」
 鴉王はほんの短い時間、心を閉ざして思った。おそらくそれは叶わない。
「……そうだな。おまえがあの森に帰るところは、見たいな」
 その光景を心に思い描いた。海に面したフェニキスはもとより、荒々しいガリアの森とも違う聖なるセリノス。やはり、この娘には蘇ったあの森がいちばんよ く似合うだろう。
 思えば、ネサラには豊かな森に生きる鷺を妬んだ覚えがなかった。女神の恩恵を受けるのが当然と思えるほど、彼女たちは美しく清い。事実、女神は鷺 の民を特別に創りたもうたのではなく、ただ美しく戦うことのできぬ民に育ったからこそ、あの森を与えたのだろうと思われた。
"Oboeteru? Naesalahamorinimoyasashikushitekuretanoyo"
    (覚えてる? ネサラは森にも優しくしてくれたのよ)

 おや、とネサラは眉を上げた。初めて見る豊かな森に圧倒された印象は残っているが、「それは本当に覚えていない」
 リアーネは目を細めると歌うように続けた。
"Naesalahamorinimoyasashikattano. Moriwodaijinishitekuretawa"
    (ネサラは森にも優しかったの。森を大事にしてくれたわ)

 そうだったろうか、と思ってネサラは短く嗤った。
"Dakara, watashimoniisamamo, suguni Naesalagadaisukininattano. Soreni, totemoshoujikidattakara
    (だから、わたしも兄様も、すぐにネサラが大好きになったの。それに、とても正直だったから)

「…………なに?」少女の昔語りに耳を傾けていた鴉王は、自分が古代語を聞き間違ったかと思った。「今、なんと言った?」
"Naesalahamorinimoyasashikatta"
    (ネサラは森にも優しかった)

「いや、そこじゃない」
"Naesalaha, shoujikidattakara. Totemo, sunao"
    (ネサラは、正直だったから。とても、素直)

 それから、鷺の姫は改めて言い直す。「Eeto(ええと)…………すな、お?」
 リアーネがわざわざ現代語で言い直してくれたが、ネサラはこの白鷺が誰かに間違えた言葉を教えられたのではないかと本気で疑った。
「それはどういう意味だ」
"Naesalaha, usowotsukanaidesyo"
    (ネサラは、嘘をつかないでしょ)

「何をどうしたらそんなことになるんだ」
"Crow peoplehaminnnasouyo"
    (鴉さんたちはみんなそうよ)

「それはおまえの知っている鴉がニアルチくらいだからだ」呆れ果ててネサラは言った。「あんなに腹の白い鴉は、強情な鷺と同じくらい珍しいんだぞ」
 よくわからない、と言うようにリアーネが首をかしげる。
"Nealuchidakejanaiyo? Crow peopleha, minnnashoujiki"
    (ニアルチだけじゃないよ? 鴉さんたちは、みんな正直)

「おい……」
"Crow peopleha, minnna, omotteirukototochigaukotowoiunogajouzune"
    (鴉さんたちは、みんな、思っていることと違うことを言うのが上手ね)

「それを嘘つきって言うんだ」
 まだ白い姫はきょとんとしている。
「いったいどうしてそんな間違った言葉を覚えた?」
"Demo, Crow peopleha, itsumominnnakokorogashoujikiyo. Aregahoshii, arewoshitai, suki, kirai. Totemohakkirishiteiruwa"
    (でも、鴉さんたちは、いつもみんな心が正直よ。あれが欲しい、あれをしたい、好き、嫌い。とてもはっきりしているわ)

「……」
"Tamanine, wakaranaihitomoiruno. Kokorononakaniiroironakimochigaippaiatte, kurushiinoni, kurushikunaitoomotteitari. Shiawasenanoni, kowaitoomotteitarisuruno. Souiuhitowomiteiruto, watashihananigahonntounanokawakaranakuraru"
    (たまにね、わからない人もいるの。心の中に色々な気持ちがいっぱいあって、苦しいのに、苦しくないと思っていたり。幸せなのに、怖いと思っていたりする の。そういう人を見ていると、わたしは何が本当なのかわからなくなる)

「……ああ……」
 なるほどな、とネサラは思わず頷いた。
「そういうことか……。そうだな、鴉は、あまりそういうことはしないかもな」
 口先だけで人を騙すことに長けた黒翼の民は、それだけに腹の中でまで自分を騙す必要がない。けれど、必ずしも人が常に自らに正直とは限らないことを、鴉 の王は知っている。人の心に直接触れられる鷺の姫と、表に現れるものからしか判断できない自分たちとでは、そもそも嘘の概念が違うのかもしれない。
 しかし、それでもなお鴉を正直だと言ってくれるのは、後にも先にもこの娘の他におりはすまい。
 白鷺の末の姫。長く失われたと思っていた。
 生きていてくれて良かった。彼女が生きていると知ったときの喜びは、こんなときでも胸の内で輝いて、世界を明るく照らし出す。
「リアーネ。おまえは、うちの……キルヴァスの連中が好きか?」
"Unn!"(うん!)
 白鷺姫はあどけないまでの純粋さで、即答した。
「そうか」
 キルヴァスの王は思わず笑った。この先、ひとりでも鴉を好きだと言ってくれる者がいるなら心強い。だが、とキルヴァス王は笑いながらも考えた。
 だが果たして、自分はこの白鷺のように、迷いなくキルヴァスの民を好きだと言えるだろうか?
 リアーネが驚いたように目をまるくした。
「ネサラ……?」
「ああ」ネサラは目を伏せて苦笑する。「まったく、俺はキルヴァスの連中をどう思ってるのかねえ」
 自分は彼女ほど迷いなく、キルヴァスの民を好きだと答えられるだろうか?
 キルヴァス王はそれを自問する。
 貧しき国の貧しき民。ネサラ自身を振り返っても答えは変わらない。鴉にあるのは逃げることを恥とも思わぬ精神と、他人のものをかすめ取るあざとさと、人 を騙す小賢しさ、そんなものばかりだ。
 その民のために、ネサラは生きてきた。民を守るために親しき者たちをも裏切った。この先、自分は汚名を背負い死んでいくだろう。それもすべては民のため。 そのことに悔いはない。なぜならネサラは王だからだ。最も強い者が群れを守るのは当然のこと。民を守り、民を豊かにすることが彼の務めだった。
 けれど今になって問いが残る。そこまでして守った民を、自分は迷わず好きだと言えるか?
 しばらく黙っていると、小さな手がひたりと男の胸元に当てられた。
 白鷺の姫は、目を伏せて小さく呟いた。
"Naesalaha, otemokurushinderu"
    (ネサラは、とても苦しんでる)

「……そうだな」ネサラはそれを認めた。「キルヴァスのためとは言え、ラグズの連中を死なせたくはなかったよ」
"Unn, ......shitteruwa"
    (うん、……知ってるわ)

「まあ、仕方ない。初めから許されないって覚悟して始めたことだしな」
 正確に言えば、ネサラには許される必要もなければ、あらゆる意味で許されたいとも思ってはいなかった。それはラグズ連合のためでもあり、キルヴァスのた めでもあるだろう。
"Naesalaha......"
    (ネサラは……)

「うん?」
"Naesalahaima,totemokurushiikara, sukoshidakekokorogakumotteshimattanone"
    (ネサラは今、とても苦しいから、少しだけ心の目が曇ってしまったのね)

 目を上げると愁いを帯びた眼差しがあって、ネサラは軽く驚いた。
「曇って……?」深みを増した森の緑の瞳に見つめられ、鴉王は気がついた。「……おまえには、わかるのか」
 白鷺姫がゆっくり頷いた。
"Wakaruwa. Datte, Naesalahashoujikidamono"
    (わかるわ。だって、ネサラは正直だもの)

「それなら教えてくれ。俺は、キルヴァスの連中をどう思っている?」
 白鷺が目を細めた。
"Muzukashii?"
    (難しい?)

「ああ」鴉王は真顔で頷いた。「とても難しい」
"......Naesalahane, tottemoshinpaishiteru. Crow peoplenokoto"
    (……ネサラはね、とっても心配してる。鴉さんたちのこと)

「そうだな」確かに自分は、民の未来を案じているだろう。「鴉は弱いんだよ。逃げ足しか取り柄がないのに、逃げ込む先もなくなりかねん」
 この先、糾弾される鴉の民の姿はたやすく思い描けた。だが、キルヴァスの民に咎はない。理由はどうあれ、裏切ったのはネサラであって、その罪もまたあく までこの王のもの。それなのに、そのただ一人の王の罪によって鴉の民が末代まで祟られるのでは、あまりに救われない。
"Sorekara, etto, raguzunominnnato, mottonakayoshininattehoshii"
    (それから、えっと、ラグズのみんなと、もっと仲良しになってほしい)

「ああ」鴉王はこれにも頷いた。「あのくだらん誓約のせいで、それも今までは無理だったからな。もう敵ばかり作る必要はないんだ」
 思えば裏切りの民と言われ続け、民のすべてが蔑まれてきた。キルヴァスの民自身までも、自分たちはそういう生きものだと思っているきらいがある。そんな 連中に、そうではない生き方を示してやりたかった。
"Totemo......kawaisouniomotteru. Crow peoplega, kawaisou"
    (とても……可哀想に思ってる。鴉のみんなが、可哀想)

「キルヴァスは貧乏だからな……」
 そう、本当にキルヴァスは貧しかった。あんな誓約を結ぶことになったのも、他国の民に蔑まれる生き方も、その貧しさを起点とすると思えるほどに。鴉がキ ルヴァスの海を通る船を襲うのは、そうしなければ生きていけないからだった。キルヴァスはそれほどに貧しいのだ。他人からかすめ取ってもまだ足りず、他国の資 源と交換できるのは人力だけ。結果として、王自らが民を率いて他国の傭兵として働かねばならぬ始末だ。
 口にして、ネサラは我に返る思いだった。そうだ、自分はそんな民を、ずっと哀れに思ってきた。どうにかしてやりたいと、思い続けて──。
"Naesalaha, minnnawomamoritakattanoyo"
    (ネサラは、みんなを守りたかったのよ)

「ああ……」ネサラは頷いた。「そうだな。俺は王だから」
 リアーネが少し笑った。
"Soune. Sorehasukoshidakehontou"
    (そうね。それは少しだけ本当)

「少し?」
「ネサラは、みんなが、大好き」
「……」
"Crow peoplewo, totemototemo, aishiteirukara"
    (鴉さんたちを、とてもとても、愛しているから)

「……」
"Dakara, Naesalahaminnnawomamoritainoyo"
    (だから、ネサラはみんなを守りたいのよ)

 そのためにこの王は罪を犯し、親しき者たちも裏切った。
「そうか」鴉王は呟いた。
「うん」と白鷺姫が蒼い髪を撫でる。
「そうか……」
「うん」
「それなら、良かった」
 ネサラは言った。
 人の心の内側を知る白鷺の姫。鷺は決して偽りを口にできない。だから、彼女がそう言うなら、そうなのだ。何より、その言葉が偽りでないことを、ネサラが今、誰よりも感じている。
 だから良かった、と心の底から思った。
 愛する者たちのためなら、羽の最後の一枚までも贖罪に捧げても惜しくはない。王の罪が翻って民の未来を奪うなら、次は民を未来を救うために罰を受けよう。心を閉じて、ネサラはそれを決意した。
 貧しきキルヴァスの民。どれほどやり方がこずるかろうと、懸命に生きる、痩せた民。
 すでに女神への幻想は崩れ祈るべき神はもういない。だが、ネサラは何者かに向けて祈らずにはいられなかった。
 ──どうかこの王の骸と引き替えに、彼らの未来に幸多かれと。
 
 

<FIN>