≪ 夜明け前 ≫
 

前編
 

 グレイドは疲労困憊した身体を半ば引きずるようにして、レンスター王宮の廊下を歩いていた。
 昼、落城の歓喜が嘘のように城の中は死んだように静まり返っている。空気すらも微動だにせず静止したかのような静寂は、「銀のスプーンを落としたくなる」と形容するのが相応しい。
 城の中で今も起きているのは自分だけかも知れないとグレイドは一瞬考えた。グレイドが見回った限り、今日の激戦を戦い抜いてこの城を奪還した兵士たちは戦闘の緊張から解放されたことで誰しもが祝杯を上げるより先に眠り込んでしまっている始末だ。幼いころ母が枕元で語ってくれたおとぎ話に魔法で城ごと眠らされてしまった姫の出てくる物語があったと思うが、あの城に迷い込んだなら目にするのはこんな光景かもしれない。
(セルフィナはきちんと休んだろうか……)
 主立った将兵の部屋の割り振りをしたあと城の見回りに出たグレイドだったが、時間が掛かることはわかっていたので年若い妻には先に休むように言い置いてきていた。レンスターの将軍家に育った彼女もまた、今日の戦いでは一日グレイドが渡した弓を手に若き騎士たちの指揮を執っていたのである。疲れていないわけがない。言いつけを守って休んでいてくれれば良いと思うが、しかし妻の性格を考えると確率は五割を下回るような気がした。
 自分自身が早く休みたいという以上に、グレイドは早く帰ってやりたいと思った。もしセルフィナが言いつけを守って休んでいても、その姿を見ればそれだけで安心できる。
 グレイドは足の運びを少し早めた。
 と、その時。
 間の悪いことに目の前の扉が開かれ、グレイドは中から現れた人物と危うくぶつかりそうになった。
「失礼」
 短く謝罪したグレイドは、長身の彼より頭半分ほど低い位置にある禿頭を見て相手が見知った人物であることに気づいた。アウグストという名の、リーフ王子付きの軍師である。
 元々はエッダの司祭であるにも関わらず戦争を生業にしているという謎に満ちた略歴と、故キュアン王子を筆頭とした北トラキア諸侯の政策を痛烈に批判することが時折あることからアウグスト司祭はリーフ軍においてはやや微妙な立場にある。もっとも当人には周囲の感情を気にする素振りが全くなく、ともすればそれがまたふてぶてしく見えるほどで、グレイドも好感を持っているとは言い難い相手だった。
 とはいえリーフ王子が意見を重用しているし、何より好悪の情を別とすれば彼が優れた軍師であることは疑いようもないため、礼を失することは出来ない。
「失礼した、軍師殿」
「──貴公であったか。もう休んでいるかと思ったが……ちょうど良かったな」
 アウグストは出てきた扉を閉ざして髭をたくわえた顎を撫でた。
「何か、私に用件が?」
 言いながら、グレイドはふと脇の扉を見つめた。
 その部屋は城内の東南に位置していた。主な将校に対する部屋の割り振りはおおざっぱに行われたためグレイドにもはっきり誰がどの部屋であるか記憶になかったが、この部屋のことは覚えている。少なくともアウグストの部屋ではない。グレイドの記憶が正しければ、ここはグレイド自身の義父であるドリアス伯爵の部屋であるはずだ。
「伯爵と、何か今後についてでも話し合っておられたのか?」
「うむ、明日の進軍について計画を立てておったのだ」
「──……?」
 グレイドの反応は明確に遅れた。初めは何を言われたかわからず、次に言葉の意味を理解したあとも、事情が全く飲み込めなかったからだ。
「明日の、進軍?」
 おうむ返しにグレイドは尋ねた。
 そんな話は聞いていない。
 いや、それ以上にあり得ないことだった。
 レンスター解放軍は本日ようやくにしてレンスター城を攻め落としたばかりなのである。兵士たちの疲労はピークに達していた。ここで一度軍備を整えねばならないし、今日の戦闘でも兵は失われている。新たにこのレンスターで兵士を雇い入れる必要もあるだろう。
 レンスター城を落とされたことで次からは帝国も本気の構えを見せてくるに違いない。リーフ軍にはレンスターの旧臣が集い数だけはそれらしくなってきたが、その中身を見ればまだまだ大半が民兵と新兵の寄せ集めに過ぎないのだ。ここまでは運良く勝ち続けてきたが、充分な準備を怠れば気まぐれな勝利の女神はすぐさま機嫌を損ねて、結果、帝国に微笑みかけるに違いない。
 どう考えてもここでいったん腰を落ち着けて、軍内部を充実させなくてはならないはずだった。それ以外の策が存在するとは思えない。
 疑心を露わにしたグレイドの顔を見上げ、アウグストは一人納得したように頷いた。
「なるほど。貴公はまともな感覚の持ち主であるようだ。それならば話が早くていい」
「なんのことだろうか」
 内容はともかく、非礼と呼んで差し支えない物言いにグレイドは渋面を作ったが、いつも通りアウグストは他者の感情は黙殺することに決めたようだった。
「ドリアス伯爵が、明日、アルスターへ進軍される」
 アウグストは淡々と告げた。
 

 グレイドは咄嗟に口を手で押さえた。危うく「馬鹿な」と叫びそうになったのだ。それは、レンスターの槍騎士がレンスターの王宮内で口にしていい台詞ではない。
「軍師殿、まさか、そのような……」
「まったく無茶な話だ」
「一体なぜ。それが如何なる結果をもたらすかお解りにならぬ伯爵では──」
 そこまで口にして、グレイドは気づいた。
 これが伯爵の意志から発したことであるはずがない。ドリアス伯爵は飛び抜けた天才ではないにしろ、堅実な用兵を行う人だった。帝国の支配下にあるアルスターへ今すぐ向かうことがどれほどの無謀であるかは百も承知であろう。ならば伯爵に本来あり得ないこの決断をさせた者が他にいるはずである。
 グレイドは、その存在に心当たりがあった。
「リーフ王子が、仰ったのですか。すぐさまアルスターに向かえと」
「この軍はリーフ王子の軍である。伯爵といえども王子の命なくご自分の意志のみで兵を動かすことはない」
「……なんということだ」
 暗に誰の意向によって起こったことかを告げられてグレイドは呻いた。
「軍師殿はなぜ王子をお諫めしなかったのか」
「伯爵も儂も、無論お止めしたとも。だが、アルスターの人々を見殺しには出来ぬの一点張りで、聞き届けいただけなんだ」
「ならば私がお止めする」
 グレイドは即断した。
「私で止められぬならフィンを叩き起こしてもかまわん。王子が誰の話を聞かれぬとしても、フィンの言うことならば聞かれよう」
 そうと決まれば一刻も早いほうが良いと、グレイドは踵を返そうとした。
「待たれよ、グレイド殿」
「まだ、何か」
「伯爵は、もう覚悟を決めておられる。貴公はそれを妨げるおつもりか?」
 アウグストの言葉にグレイドは立ちつくした。
「将軍が……?」
 思わずドリアス伯爵のかつての役職名を呟いて、グレイドは絶句した。
「さよう」
 アウグストは重々しく頷く。そして、軽く廊下へと視線を向けた。この扉の傍から離れようという誘いだった。
 グレイドは無言で、その誘いに乗った。
 

 伯爵の部屋から離れて自室に割り当てられた部屋へ向かう最中に、グレイドは事のあらましを概ね聞き終えた。アウグストの説明は端的であり、話はごく短い時間ですんだ。
 その話を聞いてグレイドは伯爵の決意が固いものであると、悟らざるを得なかった。
「伯爵は自ら指揮を執ることを申し出られたのか」
 うむ、と司祭軍師は頷いた。
「ここで一時リーフ王子をお止めすることは、全く不可能というほどのことではなかろう。だが、それでは根本的な解決にはならん」
「伯爵と軍師殿、あなた方お二人がなぜ王子をお諫めしたのか。それを理解できるようになって頂かねば、この度はしのいでもやがて王子は同じ過ちを犯される……」
「王子はまだお若い。良くも悪くもな。だが、若いと言うことはすべてにおいて未来があるということだ」
「伯爵は、王子のよりよき未来のための布石になる覚悟をされたということか……」
「さよう。あとを託される我々は、せめて伯爵を捨て石にせぬよう手を打たねばならん。そこで貴公とは翌々日に出発することになる後発隊──その実『救援部隊』の編成について相談しておきたかったというわけだ」
「わかった、軍師殿。これからすぐにでも考えよう。伯爵が率いられることになる部隊についても、策を練らねばなるまい」
「それに関しては先ほどまで、伯爵と充分に話し合ってきたところだ。考えつく限りで最善の編成になっておる。貴公には別の役目を頼みたいのだが……」
 そこまで言ったところでアウグストの表情が揺らいだ。この軍師の鉄面皮が崩れるのを見るのはグレイドにとって初めてのことで、しかも何とも言えずばつの悪そうなその表情に一体どんなとんでもない頼みをされるのかと、思わず身構える。
「最も厭な役目を押しつけるようですまぬが、貴公の奥方に、今の話を伝えて欲しいのだ」
「セルフィナに……」
 妻の名を呟いてグレイドは事の重大さに愕然とした。
 彼の妻はドリアス伯爵の一人娘なのだ。
 今の今までそれに思い至らなかったのもどうかしているが、余りにも考えたくない事柄ゆえに自分の中で忘れる方向に、何らかの力が働いたとしか思えない。
 これほど厭な役目は、確かに他にはないだろう。
「すまぬな」
 アウグストが改めて謝罪する。言葉だけ見るなら簡素も良いところだが、それが心からの謝罪であることは、軍師の目を見れば今や疑いようもなかった。
「いや」
 グレイドは頭を振った。
「それは私の役目だ。伯爵はもとより、妻へのお気遣い感謝する」
 偽りでない感謝でもって、グレイドはそう言った。
 
 

NEXT