≪ 夜明け前 ≫
 

後編

 グレイドはすぐさま自室へ向かった。一刻も早く妻に伝えなくてはならなかった。
 死地を悟った戦にドリアス伯爵が娘の同伴を許さないであろうことを、グレイドは明確にわきまえていた。妻と義父との間に残された時間を想うなら、今やこぼれ落ちる砂時計の砂一粒は砂金一粒よりも貴重に違いない。
 だが、正直な心境を語るなら、グレイドはこの廊下が少しでも長ければいいとも思っている。妻に語るにはあまりにも重すぎる話だった。
 セルフィナの母──つまりドリアス伯爵の夫人は元来あまり丈夫でない女性であったらしく、初めての、そして最後の子であるセルフィナが物心つくやいなやで鬼籍の住人になってしまっていた。伯爵はその後も別の女性を妻に迎えることはなく、伯爵とその娘はずっと父娘二人で生きてきたのだった。伯爵の子煩悩はレンスター軍内では知らぬ者がないほど有名で、娘もまた父伯爵を深く敬愛していた。伯爵が戦乱の最中に片腕を失ってから後、二人の絆はより深く、力を合わせて生きてきた。
 グレイドの妻とその父は、そういう、本当に仲睦まじい親子なのだ。
 それがようやくレンスターを奪還し夢が叶ったと思った直後に永別の言葉を交わさねばならぬようになるなどとは……。
 グレイドは自室の前にたどり着くと足を止め、目を閉じて空を仰ぐ。
 なにゆえ神々はかほどに残酷な運命を人に用意されるのか。
 一体どう、セルフィナに告げればいいのか、彼は半ば途方に暮れていた。他者に任せられる役目ではないし、誰かが告げなくてならないのであれば何としても自分の口からとグレイドは思っていたが、その一方で本当に、こんなに厳しい役目もない。妻に義父の覚悟を告げなければならない事態に陥ったことが不幸で仕方なかった。
 大きく息を吐き出し、グレイドは視線を扉へと戻した。心臓が緊張に早鐘を打っていたが、これ以上、無駄にできる時間はない。
 一刻も早く彼女を義父と逢わせてやらねばならないという想いに突き動かされて、彼は扉を叩いた。
「俺だ、セルフィナ」
 言ってグレイドが開けるより早く、中から扉が開かれる。
「お帰りなさい」
 待ちかねていたように扉を開けた妻は、凛とした面立ちに輝くような微笑を浮かべてグレイドを迎えた。すらりとした肢体は夜着に包まれているものの、やはり眠っていなかったらしい。
「遅かったのね。お疲れでしょ……う?」
 笑顔で夫を迎えたセルフィナは、しかしグレイドの顔を見てすぐさま眉目を曇らせた。伸ばされた指がグレイドの頬に触れる。
「どうしたの? 顔色がひどくお悪いわ」
 グレイドは部屋へ踏み込むとドアを後ろ手にしっかり閉ざし、それから伸ばされた妻の手を取った。
「きみに大事な話があるんだ。落ち着いて、聞いて欲しい」
「グレイド?」
 夫の言葉に重い響きを感じたのか、セルフィナは不安げに夫をグレイドを見上げる。
 グレイドは短く息を吸い込み、妻の青い双眸を見据えた。
「ドリアス卿が、明朝、アルスターへ向かわれることになった」
 グレイドの決死の覚悟とは裏腹に、セルフィナの反応は小さかった。彼女は何を言われたかわからないように軽く小首を傾げただけだ。
「お父様がアルスターへ向かわれるとは、偵察に行かれるのですか?」
「いや……」
 グレイドは苦いものが喉に詰まるのを感じた。そうだ。今の言い方では、普通ならそう思うに決まっている。彼女の問いは至極もっともなものだ。
 グレイドは首を横に振り、更に言い添えた。
「義父上は、この軍の半数を指揮してアルスターへ向かわれるのだ」
 グレイドのてのひらの中で、ぴくりとセルフィナの手がこわばった。
「だって、そんな。今のアルスターは帝国軍の支配下にあるのでしょう?」
 グレイドは黙って頷く。
「今すぐに向かっても大丈夫なものなのですか? 勝算は……」
 そこでセルフィナは突然言葉を失った。さあ、とその面から血の気が引いてゆく。まるで彼女の青い髪と瞳の色が肌まで染めてしまったようだった。
 セルフィナは見開いた目で夫を見上げた。
「あなた……」
 彼女の声はかすれていた。
 その声に、気づいてしまった、とグレイドは思う。いま帝国軍と敵対しても勝ち目のあろうはずがないことにセルフィナは気づいてしまった。
 グレイドはだから、妻の手を両手で包み込んだ。唇を引き結んだまま、もう一度だけ頷く。
「そんな……」セルフィナがあえぐ。「お父様が、どうして?」
 グレイドは首を横に振った。どうしてその問いに答えられようか。
 現実は「リーフ王子の御為だ」という答えをグレイドに用意している。だが、そんな答えを妻に返せるはずはない。妻のためにも、義父のためにも、主君のためにも、彼が紡いでいい言葉ではなかった。
「どうしてなの……?」
 セルフィナの体が傾いて、グレイドに寄りかかる。グレイドはそっと妻の肩に手を回した。
「セルフィナ」
「まだ、孫の顔すらお父様にお見せできていないのよ……?」
 震える妻の肩を抱いたまま、グレイドは目を閉ざす。妻が頭を押しつけている肩口に温かく濡れた感触が広がった。
「セルフィナ、義父上の部屋へ行こう」グレイドは妻に言い聞かせた。「君がお止めすれば、義父上もお心を変えられるかもしれない」
 そんなことはけして起こりえないとグレイドの理性は知っている。それでも、彼を成す理性でない部分はそれが現実になればいいと心から願っていた。
 まだ、夜明けは遠い。それまでに彼女が義父を説得できればどんなにいいか。
 父娘が最後の時を過ごすには短すぎる夜に、グレイドは願った。
 

< FIN >
 

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