ラケシス。
 お前を手に入れたその時から、俺の苦しみは始まったように思う。
 美しいラケシス。
 愛しいラケシス。
 お前に触れることを許されたその時から、俺は自分を責め続けてきた。
 たとえお前に許されても、俺は、俺がお前に触れることを許せずにいたからだ。
 俺は、お前に相応しくない男だ。
 何も身分だけのハナシじゃあない。
 それもあるが、歳も、心根も、俺はどうにもお前に相応しくない男だ。
 だから、お前に触れるたびにお前を汚しているような気になって、悔やんでいた。
 お前を汚す罪深さに怖れさえしていた。
 子を成してなお、お前が俺になど汚されることはないと知ってもまだ安堵はなく、その気高さを感じるほどに俺の苦しみは深くなり、俺はお前をどこかで避けてきた。
 そのために俺は、お前にどれほど淋しい想いをさせたことだろう。

 けれど、ラケシス。
 俺は知っていた。
 それでもお前が俺を愛してくれたことを、俺は確かに知っていたんだ。
 

贖宥(しょくゆう) 一

 
 沙漠はもはや砂漠・・ではなく、ひびの入った岩石質の荒れ地が続く礫沙漠に入って数日が経っていた。
 イードをようやく抜ける。
 切り立った崖の端からは微風(そよかぜ)に流された砂の粒が音も立てずに下へと落ちていく。
 俺はその眺めを黙って見ていた。
 昇り始めたばかりの朝日で作られた陰は崖の下を濃く覆っていたが、こぼれ落ちる砂は影の中でかすかな光を振りまいた。空は、快晴。風は砂を散らしても砂塵を巻き上げるほどには強くなく、雲一つ無い青い空は目眩がしそうな程どこまでも広がっていた。
 清々しく少し冷たい朝の空気が肺の中を洗うような、いい夜明けだった。
「ずいぶん早いのね」
 背中から、軽やかな声が掛かった。
 俺は声の主を振り返る。
 背の中程まで伸ばした淡い金の髪を抑えながらラケシスが立っていた。
 目覚めて半刻も経っていないと思われるのに金糸で刺繍が施された緋の胴衣と長靴(ちょうか)を身につけたいつもの姿だ。
 俺は眩しいものを見る思いで目を細めた。
「お前もな」
 朝日に照らし出されるラケシスの金の髪は、さながらその陽光を集めて紡いだ絹糸だった。だが、さすがにここ数日イードの日射しと風を浴び続けたせいで幾ばくか痛んだらしい。ラケシスは髪を手櫛で整えようとするが、金の髪はもつれて白い指の間をなめらかに通り抜けることはない。
「私が早いのはいつものことだわ。あなたは珍しいけれど」
 俺は軽く肩をすくめた。
「いくらなんでも行軍の最中だ、深酒をするわけでもあるまいし。俺だってこの時間に目が覚めることもある」
「そうよね」
 ラケシスは髪から手を離し、小さく笑って頷いた。その視線が俺から崖の下へと向く。
「すっかり砂の海ではなくなったわね。あと少しでフリージ領に入るの?」
「ああ、そのはずだ」
 俺はラケシスの横顔を見つめた。
 髪と同様、白皙の頬にも日に焼かれた痕が見てとれた。真白いままの肌は、しかし陶器のようななめらかさをわずかに失っている。
 しかしそんなことで、この女の美しさを損なうことはできない。出逢った頃は少女だった彼女も背が伸び、今ではすらりとした体つきが否応なく人目を惹くようになった。
 さながら黄金の薔薇が立っているようだと称されるほどの美しい姿だ。
 そんな場合ではないと知りつつも俺はその姿にしばし見惚れた。
 ラケシスの腰には大地の剣と呼ばれるノディオンの守り刀が下げられている。
 それもまた、ただの飾り物ではない。少なくとも彼女が手にする以上は。
 今、自分のすぐ脇に立つ女は、大陸中を探しても片手の指で足りるほどしか存在しないすべてに通じた騎士、マスターの称号を受ける者なのだ。
 軍神の娘とも讃えられる才能。その魅力(カリスマ)に俺は思いを馳せた。
 それほどの力を持ちながら、信じがたいことに、実質は俺の妻たるラケシス──。
 そのラケシスの横顔を見つめたまま、俺は言った。
「順調にいけば今日の夕方には、雷姫さんのオヤジと一戦やりあうようなことになってるかもな」
「そうね。また、戦いになるのだわ」
「ああ」
「あなたは今度も先鋒を勤めるの?」
 ラケシスが俺に向き直った。俺の視線とかち合うことになった琥珀色の目がわずかに瞠られる。
 そこに浮かんだのは驚きの表情だった。
 

 俺とラケシスがただならぬ関係になってから、俺にはまともにラケシスと向き合えた記憶がない。
 久しぶりに俺の目を直に見たことに、何より俺が目を反らさなかったことに、聡いラケシスが気づかないはずはなかった。この女が驚くのも無理はない。だが、俺はラケシスの動揺には気づかない振りをした。そして、やはり目は反らさなかった。
 理由は至極簡単だ。それがわずかな間でも、この姿から目を離すことが惜しまれた。
 本当に、これほど簡単な理由もない。
「──力量がわからん相手にとりあえずぶつかってみるってのは、傭兵(おれたち)の役目だからな」
 こう言えば、ラケシスは何も言うまいと思った。
 そんな戦い方が、主に仕える騎士ではないこの俺の仕事に向かう姿勢なのだとは、これまでラケシスに言い続けてきたことだった。ラケシスはそれが傭兵の誇りなのねと言った。そんな大層なものなのか、俺は今も知らない。だが、この女がそう言うのなら、あるいは正しいのだろう。
 俺の言葉に、ラケシスは案の定、口を挟まなかった。だから俺は昨日飲んだ酒の銘柄を告げるような気安さで、さらに言葉を続ける。
「うちの大将には、もう今日から先鋒を勤めると言ってある」
 初めてラケシスが顔色を変えた。
「聞いてないわ」
 声は普段の彼女のそれよりわずかばかり高かった。彼女の声を高めたのは、非難の響きだったろう。
 それを珍しいと俺は感じる。隠し事をしていたからといってこうして咎められるのは珍しいことだった。
 俺たちはこれまで、すべてを語り合う夫婦などではなかったのだ。この程度の内緒は日常茶飯事だった。それが俺たちにとっての当たり前で、これまで咎められた覚えはない。
 だから、ああやっぱりだ、と俺は思った。
 俺がラケシスの目を真正面から見る気になったように、ラケシスがこうして俺を咎める気になったように、今朝は、いつもと違う。
「そりゃあ言ってなかったからな。うちの大将は、お前には俺から言うもんだとでも思ってたんだろうし」
「知っていれば私も前衛に回してもらったのに」
「今度の相手は雷親爺だ。そう勝手の効くもんでもなかろうよ」
「でも……」
「なに、前で戦える奴ならいくらでもいるさ」
「そうではなくて。今日の行軍から、私とあなたの部隊は離れてしまうということになるんでしょう?」
「もちろん、そうなる」
「ベオウルフ……」
 ラケシスの瞳が揺らいだ。さながら、この砂漠に立つ陽炎のようだった。
 これまで、どんなに不安を胸に抱えていても、ラケシスが戦を前にしてこんな表情を見せることは、あり得ないことだった。戦いを前にして彼女は決して気弱げな表情など見せない。戦場にあってこの女を包むのは、常に絶対の意志だった。
 その姿が、ともすれば戦いの女神が降臨したかのように、ラケシスの周囲を奮い立たせてきた。
 まして、彼女は練達の騎士だ。軍神の娘と呼ばれるほどの才能を持っている。
 そのラケシスが、たとえ俺に対してであってもこんな顔を見せるということは、
 俺の感じているこの予感をラケシスも感じているということなんだろう──。
 

 グランベルに入ってから、その予感は誰の胸にもあったらしい。
 人によって感じ方は違うだろうが、俺の場合なら、小さな黒い羽虫の群れのようなものだった。
 黒い靄のように漂うそれは今も心の中でざわめいている。
 手で払えば一時は散ったように見えるが、またすぐに群がって塊になる。
 黒い影は弓騎兵団(ゲルプリッター)を破り、聖斧スワンチカの勇者たるドズル大公を打ち下しても消えず、キュアンとエスリンの訃報に触れていっそう羽を広げた。
 拭いがたい不安だった。あまりに不吉な予感。
 叛乱軍──もとい、シグルド軍に所属する主立った将兵が幼い子どもたちをイザークに逃がしたのも、きっとこの不安のせいだろう。
 ただ、俺自身に限ればこの不安がどんな不幸を予感してのものなのか、今でもはっきりと悟っているわけではない。
 もっとも、戦場の不吉な予感など意味するところはそう多くないのも確かだった。
 今から俺が口にしようとしている言葉が、俺の感じている予感の正体を語るだろう。
「ラケシス。もし俺に何かあればレンスターに行ってくれ」
 ラケシスは息をのんで、指を固く組み合わせた。
 斧や槍どころか、剣すら扱うようには見えないほど節のない細い指。その指に自分の指を絡めたことがあったことを思い出した。
 その時を、俺はわずかに懐かしむ。
 身に余るほど幸福な時間だった、と思った。そんな時間を持てたというだけで俺には思い残すことがないほどに。
 ただ、それもまた男の身勝手なのだろう。この女のためには言わなければならないことが残っていた。息子(デルムッド)にも悪いことをする……これは心残りと言えるかもしれない。
「レンスターにはフィンと、それにキュアンの子がいる。俺に代わって彼らを助けてやってくれ」
 目に見えてはっきりと、ラケシスは赤い唇をわななかせた。
 次の瞬間には喉を振り絞るような叫びが上がった。
「そんなことを言わないで──!!」
 涙を浮かべた目が俺を射抜いた。琥珀の瞳は怒りに燃えて、金に輝いて見えた。
「行くときはあなたも一緒です!」
 ラケシスは強く言い切った。
 絶対的な眼差し。力に満ちたその瞳に胸打たれる。
 凛と放たれたその声、この瞳について行けばいいと確信させられる輝きがそこにはあった。
 この目を前にしたなら、自分は十中八九折れていただろう。
 それでもだ。今はその十中の一か二だった。俺は彼女の言葉に頷かない。
 俺は首を横に振り、
「ラケシス」
 と、その尊い名を呼んだ。
 

 口にして改めてなんと美しい名だろうかと思った。
 この響きを俺はどれだけ愛したことだろう。
 今この時に、長く俺を苦しめた懊悩が消えてゆくのを感じた。
 愛しさと、赦しを求める想いだけが胸を占めようとしていた。
 すべてが燃え尽きたあと、灰がぬくもりだけを残すにも似て、俺の心は静かだった。
 だからこそだろう。その言葉は拍子抜けするほどにあっさりと俺の口を割った。
「お前には、すまなかったと思っている」
「え?」
 唐突な俺の謝罪に、ラケシスが目を瞠る。
「どうして……」
 女は、何を急に謝るのかと言いたげに俺を見つめた。
 俺は言った。
「お前の気持ちは知っていた」
 

 ラケシスが大きく息を呑んだ。
 何かを言いかけた唇はわずかに開いたままの形で静止した。
 言葉より先に細い腕が伸びて、白い手が俺の両腕を握りしめる。
 見開かれた目が揺れていた。
 ラケシスのこんな顔を見たことはない。
 その表情に、俺は自分の言わんとしたことが正しくラケシスに伝わったことを感じた。
 口にすれば、たったの一言だった。
 お前を汚したという罪悪感に苛まれるばかりで、お前の心を有りのままに受け入れられず、まともにその目すら見られず、ろくに言葉も交わさず、それなのに共に時を過ごした。
 本当なら、俺はもう少しはお前を幸せにしてやれたかも知れないのに。
 今の一言を言えなかったばかりに、俺は長く苦しみ、何よりお前を傷つけた。
 やっと言えたと思ったら、これが別れの挨拶になる。
 それではたぶん、遅すぎたろう。
 ラケシスの凍り付いた表情が、遅すぎたことを物語る。
 今更この言葉を口にしたことで、どうやら、もっとお前を悲しませることになるらしいと、愚かな俺もさすがに理解した。こんな時に言うべき言葉ではなかったのだ。
 死を間際にしなければこんな事も言えなかった俺の臆病が、お前を傷つけた。
 申し訳ないと思った。
 俺は卑小な男だった。
 かつてお前が愛した獅子王とは比べるべきもない男だ。
 だが、それでも。
 そんなしがない男を、お前は愛してくれた。
 ラケシス。
 俺は、確かにそれを知っていたんだ──。
 

 遠くで鐘の音がした。
 前衛部隊の招集の鐘だ。
 遮るものの一つとしてない沙漠に、その音は波のように揺らぎながら広がっていく。彼女との別れを告げる音だと思うと、耳に馴染んだその響きすら特別なものに思われた。
 俺はラケシスの肘を取って、彼女の手を俺の腕から離す。
 ラケシスは俺を必死の面もちで見上げてくる。
 これは、永遠の別れになるだろうと俺は思ったし、きっとラケシスもそう思っていた。
 だから俺は最後に、そんな彼女の足元に跪いた。まずは片膝を、そして両膝を。
 見上げればラケシスは呆然としたまま動かない。
 それをいいことに俺は、両手を大地にあてて、身をかがめた。
 手の平に荒れ地のざらついた感触を感じながら、
 俺は、罪人が女神に赦しを請うように、ラケシスの靴の先に口づけた。
 

 けれど、赦しを求めているのではなく。
 これは、祈り。
 俺のいないお前のこれからが、どうか幸福であるように──。
 

 顔を上げて立ち上がると目を見開いたラケシスがいた。
 俺は思わず苦笑した。あの獅子王にすら膝を折らなかったこの俺だ。自分でも甚だ似合わない真似であることはわかっていた。風のように自由と言われ続けた男も最後には一人の女の足元に跪いたのかと嘲られるのかも知れない。
 だが、それでも良かった。
 この神聖なる女性(ひと)。俺はただ、その足先に触れられるだけで、きっと本当に満足だった。
「ラケシス、元気でな。短い間だったが、楽しかったぜ」
 ラケシスは言葉を失ったままで、俺は軍神の娘の意表をついたことにも満足して笑った。
 最後は、笑顔の方が良い。
 だから、そのまま背を向ける。
「──待って! ベオウルフ!!」
 後ろから叫びが聞こえたが、もう振り返ることはしなかった。
 俺は背を向けたまま、ラケシスに片手を挙げて見せる。
 
 

 ラケシス。
 ────生きろ。
 
 

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