あなたに、どうしても言いたいことがあるのよ。
 『あなたは、ひどい人だわ』
 

贖宥(しょくゆう) 二


 私は杉で出来た古い戸を叩いた。
 一度叩いても返事はない。おそらく、この部屋の現在の主はなんらかの作業中なのだろう。
 それを邪魔することを申し訳なく思いながらも、私はもう一度戸を叩く。
「……誰だ?」
 中から男の声が掛かる。
「わたくしです」
 名を名乗る必要はなかった。それだけで通じる。
「ラケシス?」
「入っても良いかしら」
 戸を開けることなく、聞いた。その部屋の中の騎士が否と言うはずはないことを知っているのだが。
「もちろんだ」
 ノディオンの王女であった私に、諸処の事情から彼が対等な物言いをするようになってからすでに数年が経つが、彼は自分の言葉遣いがぎこちないことに未だ気づいていないだろう。
 私は断ると戸を開け、戸を閉ざした。この扉は古くて、見かけ以上に痛んでいて、開閉するたびに蝶番がキィキィと音を立てた。
 立ち上がって私を迎えた青い髪の騎士はほっとしたように言った。
「……お一人ですか」
 半分ほど開かれた木窓から射し込む午の日射しだけが光源の、やや薄暗く狭い部屋の中だと、長身の騎士はいかにも窮屈そうだ。その彼は、私と二人きりになると途端に口調を改める。その時の口調の方がずっと自然だった。
 だからこそ、私には人前で彼が使う言葉が不自然であることがわかるのだし、それは案外、私にしかわからないことであるかも知れない。
「お邪魔してごめんなさいね」
 私は短く詫びた。
 いえ、と騎士は人当たりの良い笑顔で応じてくれる。
 この彼と出逢ってからもう7,8年は数えた。出逢った頃にはまだ少年の域を出ていなかった彼も、主君を失い、あるいは国を追われ、決して幸福とは言えない経験を重ねてきたわけだが、時折こうして昔と同じやわらかい表情を見せてくれることは救いだろう。
「どうぞ、お掛け下さい」
 騎士はそういって椅子を勧めた。レンスターの王太子に早くから使えていた彼の身のこなしは洗練されて、美しくすらある。
 もっとも、勧められた椅子の方は緞子が張られ細工が施されたようなものではなく、背は汚れ脚にも傷のついたただの木組みの椅子だった。彼の振る舞いに似合わないこと甚だしい。
「あなたはこういう場所にいても、騎士としての姿勢を失わないのね」
 勧められるままに腰を下ろして、私は笑った。
 こういう場所、とはつまりアルスターのとある民家の納屋を改造した一室だ。
 食料庫であったものを急遽人が過ごせるように改造したため、椅子やソファのたぐいはあれども、その一方で壁に沿っては今も棚が置かれ、色とりどりの小型の壺が並んでいる。壺にはピクルスや鹿肉の燻製、林檎の蜜漬けや杏の砂糖漬けに、野苺のジャム等々が詰められているという。棚の下の方には一抱えもある樽がいくつもあって、中身はおそらく麦酒と果実酒だろう。壁に打ち付けられた釘には干された薬草や香草が掛けられて室内の空気を香気で染めていた。
 今の今まで騎士が向かっていたと思われる机も、むろん城の執務室にあるような樫の大きなものではない。ちょっとした作業台と呼んだ方が良いような品だった。今は、彼が仕事の手を止めたそのままにいくつかの書面や地図が広げられていたが、ただでも目の粗い天板の上にはいくつか傷もあって書き物をする時にはひどく難儀することだろう。だがそれもこれも、帝国とトラキア王国の双方から追跡されている身であれば致し方ない。
 小麦の入った袋を避けながらもう一脚の椅子を持ち出した彼は、私の前に置いたそれに腰を下ろすと神妙な顔をして言った。
「ご不自由をかけます」
 私は苦笑した。
「そんな意味で言ったわけではありません。わたくしは騎士の国(アグストリア)の生まれですもの、あなたのそうした姿勢は好ましいと言いたかったのよ」
「恐れ入ります」
 輪をかけて生真面目に騎士は答えた。

 そういうラケシス様こそ……などという軽口をわずかに期待していたらしい私は、それで少し肩すかしを食った気分になった。
 だが、思えばこの目の前の彼が、私に対してそんな口を利くはずはなかったのだと思い直す。私に向かっても平気でそういう台詞を口にしたのは、別の男だ。
 ()はいかなる時も、誰が相手でも、自分の姿勢を変えなかった。
 彼の姿勢の在り方は、目の前の青年の騎士の礼節とはまったく逆と言っていいほどの物だけれど、姿勢を変えない、というその点、この二人はとても良く似ていたのかも知れない。
「……あなたとあの男性(ひと)の親交が深かったことをどんなに不思議に思ったか知れないけれど、そのせいだったのかしらね」
「ベオウルフ殿のことですか」
 唐突な私の独り言が意味したところはわからなかったはずだが、騎士は律儀に返事を返す。
 私はいつの間にか下ろしていたらしい視線を上げて、微笑んで見せた。
「ええ、そう。でも、ただの思い出話をするためにあなたの邪魔をしに来たのではありませんから、安心して。実は折り入ってお願いがあって来たのよ」
 青年は元もと伸ばしていた背をさらに真っ直ぐにした。
「どの様なお話でしょう」
「イザークへ、デルムッドを迎えに行きたいの」
 私は単刀直入に切り出した。
 

 騎士は無言で蒼い双眸を瞠った。
 血相を変えるとはこういうことを言うのかと思いつつも、私は青年の驚きを見なかったことにする。
「だから、その間、あなたに娘をお願いしたいのです」
「なりません!」
 騎士はようやく我に返ったようだった。
 彼らしくもない声の大きさに、私は軽く眉をひそめる。
「声が大きいわ、フィン……」
 彼が私にこんな言葉遣いをしていることが周囲に露見するのは、好ましいことではなかった。表向き、私とフィンは夫婦関係にあることになっている。それは半ば彼に一方的な負担を強いる偽装(カムフラージュ)であったかも知れないが、逆を返せば私にとっては利点の多い関係であって、それだけに私はごく少数にしか本当のことを知られていないこの偽装を、解きたくなかった。
「ラケシス様、」
 騎士は声こそ低めたものの口調の厳しさはそのままで、視線の鋭さはむしろ増したようだった。
「ご自分が何を仰っているか、お分かりですか? このアルスターからイザークへ向かうということは……」
「イードを抜けなくてはならない」
 騎士の言葉を受けて私は答えた。
「それが何を意味するかもお分かりですか」
「今のイードが死の砂漠と呼ばれていることは、無論知っていてよ」
「まだナンナは四つを数えたばかりですよ?」
「デルムッドは六歳になっているはず」
 私は意識的に目を伏せた。
「わたくしがあの子をイザークへと託したのは、あの子がようやく二つになろうという頃だったわ。幼くともナンナにはわたくしが分かる。けれど、年かさであってもデルムッドは自分の母親すら見分けることが出来ないでしょう」
 この騎士は実直すぎるきらいがあるが、こうした人の心の機微に鈍感ということはない。私の言わんとしていること──あるいは気持ちを理解したと見え、すぐに反論はしなかった。
 私は伏せていた目を上げた。
「あの子は母を知らぬまま、六つになってしまった。わたくしはあの子を迎えに行きたいの」
 騎士は私から目を反らした。
 しばらく、考え込むように。
「しかしラケシス様。仮にここに御子息を連れてこられて、それでどうなります。我々は国を失い現在は追われる身です。今はドリアス卿の保護を受けていますが、我々の居所が帝国に知られればそうも行かなくなるでしょう。また逃亡生活が始まるのですよ。我々の元が安全な場所と言えません」
「イザークとて状況は同じだわ。シャナン王子がいるとはいえ、あの国も現在は帝国の支配下にある。彼らとて見つかればただではすまないでしょう。せめてアイラ王女がいらっしゃったならまだ良い。けれど、シャナン王子もオイフェも未だ若年。だから念には念を入れ、彼らが居場所を知られることのない様に我々は手紙のやりとりすら出来ないのではなくて? 危険がどちらにしても同じならば、母親の元に置いておきたいと思うのは理に適ったことだと思いませんか?」
 それに、と私は室内を見回した。
「北トラキアの地は大陸で最も食に恵まれた地だとかつて城の教師に習ったことがあるけれど、本当にその通りね。少し裕福な農家や商家であれば、この程度の蓄えを備えているなどという光景は、イザークはおろかアグストリアやグランベルでさえ見られないでしょう」
 事実、レンスターの王子に救済の手が集まったとはいえ、それを抜きにしたところで我々は逃亡生活のさなかであっても北トラキアに留まる限り飢える心配だけはなかったろうと思われた。
 だが、イザークは草原の大地だ。私はその地を訪れたことはないが、聞いた話に因れば羊の肉や乳ばかりが生活を支えるという。
「生きてゆくことだけを考えるなら、マンスター地方は恵まれた場所です」
「──つまり、ラケシス様はもう決心しておいでなのですね?」
「ええ」
「ラケシス様……」
 騎士は眉間に皺を寄せ、頭を振った。
「それでも、私は頷けません。正直に申します。私はイードが嫌いなのです」
 私は初めて即答を避けた。
 フィンの言わんとしていたことが分からなかったわけではない。
 分かったからこそ、言葉を選ぶ必要を感じたのだ。
 私は騎士の目を見て、慎重に口を開いた。
「……確かに、イードがあなたにとって忌まわしい地であることは知っています。あの地でキュアン様、エスリン様は亡くなられ、アルテナ様に至っては今も行方が知れず……到底、良い印象の場所ではないでしょう」
「そうです。ラケシス様、生きていればいつかはきっと御子息とも逢えるはず。ここで御命を危険にさらしてどうなりますか。あなた様にまで何かあれば、私はベオウルフ殿に示しがつきません。ですから……」
「フィン」
 私は騎士の言葉を遮った。
「では、わたくしも正直に話すわ。わたくしにとっても、イードは特別な場所なの。わたくしは、どうしてもあの地をもう一度訪れたいのよ」
「それは……」
「わたくしが、あの男性と最後に別れたのがイードだった」
 私は脳裏にその姿を思い浮かべた。
 不思議なもので、遠く別れてしまった今の方がはっきりと彼の姿を思い起こせるような気がする。
 別れの場面が、余りにも鮮明に意識に焼き付いていた。私の足元に跪いたあの男性の、くすんだ金の髪。少し嗄れた低い声と、告げられた言葉。見送ることしかできなかった背中。
 追っていれば、あるいは止めていれば、と思うことは無意味なことだ。
 彼に前衛の役目があったように、私にも後衛ですべき仕事があった。彼には彼の傭兵としてのプライドがあり、私もまた、騎士として然り。そうである以上追うことも止めることも不可能だった。たとえあの日の別れを何度繰り返しても私は結局彼を止めることが出来ないだろう。
 けれど、それでも、私の心はいつの間にかあのイードの別れを思った。
 あの日に帰り、せめてもう一度彼と話が出来たなら……。
「……もうあれから、五年も経つわ。わたくしはどこかで自分の気持ちに整理をつけなくてはならない。そう、ずっと思っていたのよ。そうして、デルムッドと、ナンナと、新しい生活を始めるの」
「私には、あなた様をお止めすることは出来ないのですね……」
 私は頷いた。
「ベオウルフ殿がここにいらしたら、きっとあなた様をお止めになりましたよ。あの方なら、私と違い留めることもお出来になったでしょう」
 私は目を細め、唇の端をわずかに持ち上げた。微苦笑に見えれば良かった。
「あの男性が本当にそれを望むなら、わたくしの元に戻って来て、わたくしを止めるべきなのよ。帰ってきてくれないままのあの男性の言うことを聞くつもりは、わたくしには無いわ」
「ラケシス様……」
 私は表情を目の前の青年から隠すために、軽く頭を落とした。
「ごめんなさいね、あなたには本当に迷惑を掛けるわ」
 青年は首を横に振った。
「良いのです。今でしたらドリアス卿やセルフィナも助けてくれるでしょう。ナンナのことは、どうぞお任せ下さい」
「ありがとう」
「その代わり、一つだけお願いがあります」
「なんでしょう」
「デルムッドを連れて必ずお戻りになると誓って頂きたい」
 私はフィンの顔を見つめた。青年の目は真摯そのもので、わずかに曇ったところもなく、必死ですらあった。折り目正しく、正義感の強い、誠実な騎士。

 ──もし、仮にこんな彼を愛していたなら私はもっと幸福になれたろうか。
 私の胸にそう、問いが生まれる。
 今この時も胸に抱え続ける想いを味わうことにはならなかったろうか?、と。
 けれど、たとえそうだとしても私は……。
 私が愛したのは……。

「──わかりました。誓いましょう」
 言って、私は椅子から立ち上がった。
 腰には唯一身につけた大地の剣がある。
 刃幅が広くその割に長さの短いその剣を鞘から抜くと、私は自分の顔の前に、白刃を垂直に立てた。
「ノディオンの宝剣に込めた騎士の誇りと、マスターの称号に懸けて、必ずこの地に戻ってくることを、わたくしノディオン王女ラケシス・ノルンはここに誓う」
 一息に言い切り、私は刃を翻して鞘に納めた。
 青年は無言で目を瞠っていた。おそらく、彼が求めた誓いというのはここまで仰々しいものではなかったのだろう。私自身もそれを理解していた。ただ、これ以上に誓ってみせる術を、知らなかったというに過ぎない。
「ナンナを頼みます」
 私が言うと、騎士は我に返ったように立ち上がり、背筋を伸ばして騎士の礼をとった。
 
 

NEXT