薬草と香草の匂いが籠もっていた部屋から出ると、外の空気はひどく新鮮に感じられた。
 決心していたことと言え、切り出すには緊張もあった。首尾良く話が進んだことに安堵しつつ、思い切り肺の奥まで息を吸い込むと湿った草の匂いがした。
 もう秋が近い。


贖宥(しょくゆう) 三



 私は納屋の裏手に回った。そこには垣根に囲まれたごく小さな庭がある。
「おかあさま」
「あ、ラケシス」
 幼い二つの声に私は微笑んだ。
 子どもたちの横で、青い髪をおさげにした背の高い少女がなめらかな動きで私に向かって頭を下げる。
 私も軽く会釈を返して、それから子どもたち二人の前で跪き目線を下げた。
「リーフ王子、ナンナ、良い子にしていましたか?」
 うんうんと、子どもたちはそろって頷いた。
「セルフィナを困らせたりしなかった?」
「していません」
 答えたのはナンナだ。
 私は娘の頭を撫でた。
「良い子でしたね。えらいわ」
 ナンナの髪は幼い頃の私の髪にとても良く似ている。今は金髪と言うよりクリーム色と呼ぶ方が相応しい。年を経ればこの手の髪の色は濃くなるものだ。やがては今の私と同じような色になるだろう。
 ……デルムッドの髪は、今はどんな色になっているだろう……。
 私は娘の髪を撫でたまま、セルフィナを見上げた。
「子どもたちを見ていてくれて、ありがとう」
「いいえ、ラケシス様」
 青い髪の少女ははにかむように笑って首を振った。この隠れ家を訪れるために質素な身なりをしてはいるが、元はレンスターの将軍家の娘だけのことはあり、にじみ出す上品さは隠しようもない。
「リーフ様もナンナ様も大人しく遊んでいらっしゃいましたから、私には何も心配することがありませんでした」
「そう……。リーフ王子も、良い子にしていたのですね。えらいですよ」
 少し所在がない様子だった王子の茶の髪をナンナと同じように撫でれば、王子は途端ににっこりと笑顔になった。背負わされた宿命とは裏腹に、この亡国の王子は大人しく気が優しい。
(デルムッドともきっと仲良くなれるわ……)
 私は子どもたちのなめらかで柔らかい髪の感触を惜しみながら手を離した。
「リーフ王子、ナンナ。あなたたちに大事な話があります」
 突然口調を変えた私に子どもたちは首を傾げたが、傍に控えていたセルフィナが反応した。
「でしたら……私はこれで……」
 私は再びセルフィナを見上げて首を振った。
「いいえ。あなたも聞いていて頂戴。あなたにも迷惑を掛けることになるし、おそらくフィンから話が行くでしょうけれど、ドリアス卿に、あなたからも伝えて頂きたいことなの」
「は、はい」
 私はセルフィナに頷いて、再び子どもたちに視線を戻した。
「ナンナ、母はデルムッドを迎えに行きます」
 途端に、傍らで青い髪の少女は息を詰めた。
 一方でナンナはきょとんと首を傾げた。
「でも、おかあさま。デルムッドおにいさまは遠くのお国にいらっしゃるのでしょう? だから、ナンナがおにいさまにお会いしたいって言っても、無理だって」
「ええ、そうね。デルムッドは本当に遠くにいますから、母も長く会っていません。でも、ナンナもお兄様にお会いしたいでしょう? 私もあの子に会いたいの。だから、私はデルムッドを迎えに行くのよ。ナンナにはその間、お留守番をして欲しいのです」
 ようやく私の言わんとすることを察したらしい娘は、途端に顔を歪めた。
「じゃあ、おかあさまも遠くのお国に行っちゃうの?」
「そう、しばらくの間ね」
「いやー!」
 そう叫ぶと、ナンナは声をあげて泣き始めた。
「おかあさま行っちゃいやー!」
「ナンナ……」
 確かに、まだ四つになったばかりのナンナを置いて長旅に出るのは心苦しいことだった。決心したつもりだが、いざこうして目の前で子どもの泣き顔を見るのは想像以上に身にしみる。
 ……けれど、では、デルムッドはどうなるのか。
 母の顔すら知らない私のもう一人の子は──。
 私はナンナを抱きしめた。
「ナンナ、お願い。母の頼みを聞いて頂戴。あなただって、お兄様に逢えないのは悲しいでしょう?」
 娘はいっそう激しく泣き出した。
「おかあさまがいなくなる方がもっといやー!!」
「ナンナ……」
 『いなくなる』というその響きは妙に暗示的で、私はどきりとした。ただ一時の不在というより、その言葉はむしろ永別を想起させるものだったのだ。
「ラケシス」
 別の幼い声に呼ばれて、私はナンナを抱いたまま目を上げた。
 幼い王子が下衣(ズボン)の裾を握りしめながら言う。
「僕も、ラケシスがいなくなるのはイヤだよ。ラケシスは僕にとってもお母さまみたいなものなんだ」
「王子まで……」
 言葉を失った私に、セルフィナが堪りかねたように口を開いた。
「ラケシス様。差し出がましいようですが、私も反対です。デルムッド様はイザークにいらっしゃるのでしょう? ただでも長い旅ですのに、今のイードはとても怖ろしいところだと父から聞いています」
 私はナンナをなだめながらそれに答えた。
「イードがいかに危険かは、知っていてよ。でも、わたくしはマスターの称号まで受けた身です。武器ばかりでなく、三精霊の魔法も、杖も一通り使えます。滅多なことにはならないわ」
「それは存じております。けれど、仮に治療の杖がお使いなれると言っても、術者本人が自分の傷を癒すことは出来ないではありませんか」
 セルフィナの言葉はかなり正しく、痛いところを突いていた。
「そう……確かに、その通りね」
「ラケシス様」
「それでもね、セルフィナ」
 思い留まってくださるのかと言わんばかりに顔を輝かせたセルフィナに、私は首を振った。
「デルムッドも、わたくしの子どもなの。このナンナと同じ。あの子と離れて生きているのがどれほど辛いことか……。それを、どうかわかって」
 少女は腰の位置でぎゅっと両手を組み合わせた。
「ラケシス様。フィン様には、もうお話しされたのですか」
「ええ、今し方」
「フィン様はお止めにならなかったのですか?」
「もちろん止められたわ。でも、最後にはわかってくれました」
「そんな……」
 セルフィナが眉宇をひそめた。
 若い彼女は私とフィンの正確な関係を知っている数少ない一人のはずだが、その上で更に誤解、あるいは勘違い、はっきり言及するならば何らかの想像を働かせているようだった。後家と呼んでも差し支えない立場にいる私を、何故あの騎士が放っておくのかと、セルフィナは責めているようにすら見えた。
 そうした若さには私自身にも覚えがあって、苦くも愛しく思う。けれど私は首を振った。
「わたくしはもう決めてしまったのです。誰にも──今、わたくしの傍にいる人には誰にも、止めることは出来ないでしょう」
 フィンが言ったように、今は傍にいないあの男性(ひと)は私を止めたろう。そして、彼にならば私を止められたかも知れない。彼がどんな言葉で私を止めるのか、想像すら出来るような気がした。
 けれど私はそれを思い描きはしない。今は記憶の中にしかいない人に、止められる筋合いはないから。
 セルフィナには、私が言外に潜ませた意味がきちんと伝わったようだった。
「ラケシス様はまだ、お忘れではないのですね……」
 誰を何を、とはセルフィナは言わない。私もまた、娘の前でその名を口にするつもりはなかった。ナンナはフィンこそが自分の父だと信じているし、それは娘にとっては恐らく幸せなことだからだ。
 私はただ微笑んだ。
「セルフィナ。準備を整えなくては行けませんから、わたくしが旅に出るのはもう少し先のことになるでしょうけど、わたくしがいない間リーフ王子とナンナのことを、お願いね」
「──はい」
 と、セルフィナは小さく頷いた。
「リーフ王子」
 それを確かめ、大人しすぎるほど大人しく黙っていた王子に私は目を向けた。
「王子にもお願いがありますのよ」
「なに?」
「わたくしがいない間も、ナンナと仲良くしてやって下さい。この通り……」
 私はまだ肩口に顔を押しつけてしゃくり上げている娘の背を撫でながら、苦笑した。
「この通り、ナンナは寂しがり屋で泣き虫ですから、王子に傍にいて頂きたいのです」
「もちろんだよ」
 幼い王子は力強く頷いた。
「ラケシスがいない間は僕がナンナを守るよ」
「まあ、王子……」
 私は目を瞠った。
「ありがとうございます。それを伺って、わたくしは安心しました」
「その代わり、早く帰ってきてよ」
 約束しますと告げて私は頷いた。
「さあ、ナンナ。あなたももう泣きやんで。母はデルムッドを連れて必ず帰ってきます。あなたはしばらくの間だけ、我慢していて」
 しゃくり上げながら、ナンナは真っ赤に腫らした目で私を見上げた。
「必ずですか」
「ええ、そう。必ずです。約束するわ」
 こんなに愛しく可愛い我が子の元に、帰ってこないはずがなかった。
「必ず、わたくしは帰ってきます」
 

 金の砂が風に巻き上げられていた。
 ごくごく細かい砂であっても、乾いた風に吹かれればそれは『舞う』などという生やさしい光景ではない。砂と風の生み出した造形物は人馬の行く手を阻む巨大な城壁と化していた。これから、私が挑まなくてはならない壁だ。
 抜けられるだろうか──。
「……良くない発想だわ」
 私は胸の内に浮かんだ問いを自ら否定した。
 出来るか、出来ないかではない。いかに成すか、それこそが問題だ。
 私はこの砂漠をなんとしても抜けなくてはならなかった。そうしてデルムッドの元にたどり着き、更に今一度砂漠を抜けてナンナの元に戻らなくてはならない。
 充分な準備はしてきたつもりだった。
 砂漠の中のオアシスと、オアシスの傍の村を記した地図は手に入れた。いま私が騎乗している馬には水と食料の詰まった樽もいくつか積んであるし、替えの馬には当然ながらそれ以上に持たせてある。秋半ばを過ぎ、砂漠の暑さも多少はやわらぐ季節を選んだ。
 物取りに狙われることのない様、身支度は質素かつ頑健なものに留めるために大地の剣も含め、これまで扱ってきたほとんどの剣はフィンの元に置いてきたが、新たに手にした細身の剣と槍でも不自由は感じなかった。風の魔導書も身に帯びている。
 ──大丈夫。私は、必ずここから生きて帰る。帰ってみせる。
 そう信じ、改めて私は砂漠に目を向けた。
 イードの砂漠は、どこまでも続く砂の海に見える。そのくすんだ金の砂の色は、あの男性の髪の色に似ていなくもなかった。
 この沙漠の別の境で分かれた男性……。
 同じイードとはいえ、彼と別れたのはこんな砂のただ中ではなく、荒れ地が続く礫沙漠だった。
 あの別れを、彼の最後の言葉を、見送るしかできなかった背中を、同じイードと言って似てもにつかない砂の海に、それでも私は見た。
 

 ベオウルフ。
 私にはどうしてもあなたに言いたいことがある。
「……あなたは、ひどい人だわ」
 

 彼との生活は、決して幸せに満ちたものではなかったと思う。
 今なら良くわかることだが、私たちには余りにも言葉が足りなかった。いま振り返ると何一つ語り合わずに時を過ごしたような印象すら覚える。それでも、解り合ってはいた。それもまた確かだった。
 彼の言ったとおり私が敢えて口に出さずとも、私がベオウルフを本当に愛していたことを、彼はずっと解っていてくれたのだろう。
 そして、私も知っていた。ベオウルフはずっと私に負い目を感じていたのだ。どれほど私が愛しても嬉々としてそれを受け入れることが出来ないほどに。
 私を汚したと思っていたのかも知れない。近づくべきではなかったと、ずっと後悔していたような気がする。
 なぜ、彼がそれほど思い詰めていたのかは私にも解らない。
 兄を失った悲しみの底から私を救い出してくれたのは彼だった。兄だけのために存在していた狭い世界から私を拾い上げてくれたのも、間違いなく彼だった。幼かったあの日の私に、兄以外の人を愛すことを教えてくれた。他の誰にも出来なかったことをしてくれたのは、間違いなく彼なのだ。だから、ベオウルフが負い目を感じることなど何一つなかったというのに。
 気にすることなどないのだと、私が言うべきだったろうか。あなたのことを私は本当に愛しているのだから、あなたは何一つ後悔することはないのだと。
 本当は解り合えているからと、敢えて口にして愛を告げなかった私の傲慢さが彼の罪悪感を募らせたのだろうか。
 だから彼は最後の最後になるまで、私との関係を受け入れられず、私は最後の最後にあんな言葉を聞くことになったのだろうか。
 それでも、私は思う。
「どうして、もっと早くにあの言葉を言ってくれなかったの……」
 私があなたを愛しているのだと、もっと早くに受け入れてくれたなら、私たちはもっと甘やかな、優しい時を過ごせたろう。あなたが傍にいてくれないという以上の悲しみに、今こうして襲われることもなかったろうに。
 解ってくれたなら、どうして私を一人にしたのか──。
 それでも、それでもだ。
 私は両手で顔を覆った。
「ベオウルフ、私はあなたを愛しているわ……」
 この声が、風に乗ってあの男性の元に届けばいいと、私は心から願った。

 そして、私は顔を上げる。
 この砂漠の向こうには私と彼の息子が待っている。五年の時を隔て、あの子はどれほど大きくなったことだろうか。
 必ずこの砂漠を抜けて私はデルムッドと再会しよう。
 そして、私の帰りを心待ちにしているナンナと三人で生きるのだ。
 私は砂避けの外套(マント)を頭から被り、布でしっかりと口元を覆った。
 この金砂の海から、新たな一歩を踏み出そう──。
 

<FIN>
 

closed