≪ 憂国の竜 ≫
 


 

 イード砂漠の砂は、今も昔も変わることなく鬱金色(うこんいろ)をしている。
 それは、そのほとんどが鉄の被膜によって黄色を呈する石英粒からなっているためだったが、グラン歴760年のその時ばかりは、黄色い砂も、レンスター王国槍騎士団の血で赤く染まっていた。

「陛下! 一行の女騎士が子どもを連れておりました!」
 トラキア国王トラバントは振り返り、部下の腕に抱かれて泣きわめく幼子を見つけた。
 円磨の進んだ細かい砂が隙間に入り込むため、鎧は男の動きにわずかな軋みを上げる。まだ夜が明けて一刻と経っていないにもかかわらず、砂漠に吹く風は熱を帯び始めていた。あと半刻もすれば陽炎が立ち、逃げ水が視界の端々を埋めるようになるだろう。
 しかし、それも今は厭わしくなかった。男は思わず口元に笑みを浮かべていた。
 男は人生でこの時まで、戦いの続く戦場で笑みを浮かべたことなどなかったように思う。ただ、このときばかりは笑わずにおられなかったのだ。
「キュアンの娘だな……これは面白い」
 その幼子の父親は、わずかばかり離れた場所で槍を手にただ一騎で、男の部下に囲まれていた。
 レンスター王太子を取り囲む竜騎兵の数は十騎を下ることはなく、しかもその手にあるのはいずれも騎士殺し(ナイトキラー)の名を冠する槍である。
 その様は絵に描いたような多勢に無勢と言えた。
 けれどなお、その騎士はまっすぐに背を伸ばし周囲を睨みつけている。そこに怯みは存在しない。むしろ怯んでいるのは男の部下の方だった。
 麾下将兵のその様を、それでも不甲斐ないと言うつもりは、トラバントにはない。
 男の部下が二の足を踏むのは当然のことであった。神器を手にした騎士には一縷の隙もなく、余程の愚か者でもない限り無闇に襲いかかることは出来ぬだろう。実戦を良く知る男の部下たちは、相手の技量を見極めることを知っているのだった。
 今の騎士と順当に渡り合える者の数は、大陸中を探してもせいぜい両手の指で事足りる程度しかいないに違いない。
 無論、この戦場で騎士と互角に渡り合えるのは、間違いなくトラバント唯一人だった。しかし、男ですら互角以上に渡り合えるとは思えない。
 足元の不安な砂漠にあって地の利は確かにトラバントの側にあったが、その武器は騎士の手にある地槍と対をなす天槍である。両者の間合いは等しく、いったん接近戦ともなれば飛竜で騎馬の頭上を取ったところで安心は出来ない。
 それでも、仮にこれが他国の騎士、他国の王族であれば、迷わずキュアンとの一騎打ちを望んだことだろう。それが騎士としての礼節というものであり、また、強者との正々堂々たる手合わせは騎士道における一種のロマンであるからだ。
 だが、この男はそうしたものを捨てて久しい。
 あるいは、幾人かの部下を犠牲にすればトラバント自身は無傷で事を為し遂げられるかもしれなかった。男の麾下にある者たちは喜んで犠牲になったろう。しかし、それもまた男の望むところではなかった。
 男にとって優先されるべきは、断じてここで彼自身が深手を負わないことと、部下の血を無駄に流さないという二点なのだ。
 ならば、残される手は一つであろう。
 男は肺の奥まで深く息を吸い込むと、騎士へ向かって太く声を張り上げた。
「キュアンよ!」
 騎士の目が、男へと向く。
「トラバント……」
 騎士の口がそう語るのを、トラバントは見た。
「お主の娘は我が手の内にある! 娘の命が惜しくばゲイボルグを手放すが良い!!」
「貴様!!」
 瞬間、カッと騎士の身を烈火が包んだ。
 けれど、そのノヴァの聖光と呼ばれる光が自分へ向くことはもはやないと、男は知っていた。あの騎士は、娘を見捨てられる者ではなかった。
 甘い、とトラバントは思う。
 甘くあれるのは環境がそれを許したからだ。甘さが身に染みつくのが許されるほどに恵まれていたからだ。だが、その甘さは今や愚かさであった。
 本来ならば、ここで聖槍を手放すことは自らの死ばかりでなく、ひいてはレンスターという国の滅びに繋がっていることもわからぬほど、愚かでもなかろうに……。
 それでも、騎士のその甘さ故に、男は夢への一歩を踏み出そうとしているのだった。
 男は飛竜の手綱を取った。長年、男を背に乗せている飛竜はすぐさま騎手の意図を読みとり、羽毛のない翼を大きく羽ばたかせる。
 渦巻く風が、砂漠の砂を巻き上げた。
 男を乗せた飛竜はそのまま騎士のそばに寄ると、一定の間合いを取ったところで停止飛行(ホバリング)した。
「どうした、キュアン。娘の命が惜しくはないのか」
 部下の腕の中で泣きわめく幼子を指し示し、男は言った。
「この娘は、今となってはお主の妻の忘れ形見であろうに(・・・・・・・・・・・・・・)
 ぐっと、騎士が奥歯をかみしめるのがトラバントにも見て取れた。
 エスリン、と噛み締められた歯の隙間からわずかに声が漏れ聞こえた。
 娘が男の手に落ちた時点で、騎士は自らの妻の死を悟ったろう。
 鴇色(ときいろ)の髪の女聖騎士は事実すでに息絶えていた。トラバントの天槍はレンスター王太子妃の血にも染まっているのだった。さすがに聖騎士バルドの血を引くだけのことはあって女はトラバントと二合以上を渡り合ったが、神の血の濃さは力の差となったかもしれない。あるいは神器の有無の差か、護るものに気を取られた故か、いずれにしても王太子妃の剣がトラバントの身体を傷つけることはなかった。それでも最後まで気丈に立ち向かってきた女の強さには男も軽い賞賛の念を覚えたが、だからといって、そのようなことは王太子妃を生き長らえさせる理由になろうはずもない。
 男は、そこまで甘くはない。そこまで甘くあることは、男には許されていないのだ。
 故に導き出された結果としてエスリン王太子妃はすでに絶命しており、今は残された夫の憎悪を孕んだ苛烈な瞳が、こうして男を射っている。
「卑怯な真似を。我が妻を殺し、我が娘を楯にしてまで貴様は北トラキアを欲するか!」
「いかにも」
「……ハイエナが。なぜ、そこまでせねばならない!」
 騎士の怨嗟の言葉を、しかし男は一笑に付す。
 その笑みの裏で、トラバントは胸中に一言だけ、呟いていた。
 
 お前にはわかるまい、と。
 

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