≪ 憂国の竜 ≫
 


 

 目の前の騎士は、この最後の時まで何一つわかろうとはしなかった。
 騎士は英邁な青年だった。トラバントはトラバントなりに、相手をそう認めていた。仮にこの相手が真に愚か者であれば、男は砂漠での急襲という手段を使うまでもなく、とうにレンスターを打ち破り、北トラキア侵出の足がかりをつかんでいたはずである。再三に渡るトラキア王国の攻勢を防いできたレンスター王太子を、無知蒙昧の徒と侮ったことは、男にはない。
 だが、決して愚かとも思われないのに、この王太子が敵国のある南トラキアの地を理解することはなかったのだ。
 高潔な騎士である青年は、金のために死体を積み上げるトラキアの竜騎士団をハイエナと呼び称した。それはあながち間違った評価でない自覚がトラバントにはあったが、ハイエナは死肉を食わねば生きてゆけないからこそ、死肉も食らうのである。
 トラキアが他国の戦に自軍を送ってまで金を欲するのは、貧困にあえぐ()の国で民を生かしていくのに、どうしても外貨が必要だからに他ならない。
 しかし、北トラキアの地にはトラキア竜騎士団を、金のために誇りを捨てた者共と蔑む者が星の数ほどいた。自国の兵──すなわち、民の命を危険にさらしてまで得る金が、いったい何に用いられるか、彼らは一顧だにしないのである。
 けして悪くない頭を持ちながら、なぜその程度のことが考えられないのか、男はいつも疑問に思わずにいられなかった。

 北トラキア諸侯の南トラキアへの無理解に疑問を覚えるのは、何もトラバントに限ったことではない。それは後の世でも大きな謎として度度言及される問題であった。
 トラキア半島の戦乱に関し、第一次聖戦(十二聖戦士戦争)後の100年の歴史で戦火の口火を切ったのは必ず南トラキアであったが、そうなるように仕向けていたのは決まって北トラキア諸国であった。戦乱の原因を生み出していたのがむしろ北トラキア諸侯の政策であったことは、今となっては自明である。
 そのことをキュアン王太子が理解し、加えて貧窮する南トラキアの状況を知っていたならば、そして彼に南トラキアを救うつもりがあったならば、彼には平和的に南北トラキア間に交流の道筋をつけることが可能であったと思われた。レンスター王太子の地位にあり地槍ゲイボルグの継承者でもあったキュアン王太子は、北トラキアにおいてそれだけの発言力を保持していたはずなのだ。
 けれど、キュアン王太子がそうした行動に出たという痕跡は存在しない。
 あるいは、イードの虐殺が起こることなく、王太子が王位に就くことがあったなら、彼は北トラキアの政策を改めたかも知れないという意見はあるが、それは全くの仮定に過ぎないのであった。
 慈悲深く正義感の強い青年であったとされるレンスター王太子キュアンが、なぜに彼本来の優しさを困窮する南トラキアに向けたという事実が残されていないのか、不思議を感ずる者は少なくない。
 しかし、事実、その目は開いていたのに、やせ衰えたトラキアの民を見ようとはせず、その耳は聞こえていたのに、救いを求めるトラキアの声が届くことはなかったとしか思われないのだった。
 それは何故か──。
 トラバントはその疑問に、ようやく結論を見たように思った。
 この騎士にはわかるだけの知恵がありながら、最初(ハナ)からわかろうとする意志が、絶対的に欠けていたのだ。
 

(だから、お前には永久に、わかるまい)
 

 気づいたのが今でなければ、トラバントはそのことを心から憎んだに違いなかった。なぜにわかろうとせぬのかと、言葉の限り罵ったやもしれぬ。
 だが、もはや目の前の騎士は男にとって過去の人物に成り下がろうとしていた。
 トラバントの意識はすでにこの騎士の存在しない未来を見つめ始めており、これまで宿敵としてきたこの騎士に対する興味は急速に失われつつあったのだ。
 今やトラバントの胸には、静かな、諦念に似た何かがよぎるだけである。
「お主には他に言うべき言葉があろう」
 死に行く者には、語って聞かせる呪詛の言葉すらないのだった。
 しばらくの沈黙の後、絞り出すように騎士は言った。
「必ず、娘の命は救ってくれるか」
 トラバントは鷹揚に頷いた。
「誓おう」
「本当に?」
 キュアンは念を押す。
 男はにわかに笑いの衝動に包まれた。
 この騎士が自分を信じられないのも、無理はないことと思った。何より男自身、この相手に己を信じさせようとする日が訪れるなど、これまで夢想だにしなかったのだ。
 因果というものの妙を思いつつ、男は表情を引き締めると自らの槍を構え直した。
 天に向けて掲げられた槍先が朝の光を反射する。
「我が天槍に誓って」
 騎士はその言葉を聞くと目を閉じ、天を仰いだ。
 風が凪ぐ。鬱金の砂塵に覆われていた視界が開け、青い空が覗いた。
 やがて、その青空の下、騎士の手からは地槍が投げ出された。
 イード砂漠の細かな砂に、聖なる槍の穂先が音もなく沈み込む。
「娘は、頼んだぞ」
 騎士は言った。
「あい分かった」
 男は頷いた。
 その口元に笑みを閃かせると、ただ一たび天槍を振るう。
 騎士の首は胴から離れ、きれいな弧を描くと、やがて砂地の上へ重い音を立てて、落ちた。
 

NEXT