≪ 憂国の竜 ≫
 


 

 イード砂漠から引き返したトラバント王の姿が次に確認されるのは、トラキア本城ではなくグルティア城である。
 当時、グルティア城の衛兵として国に仕え始めたばかりの新兵であったタウマス・パラスという青年の日記には、初めて王と間近にまみえた興奮と共に、王がグルティア城を訪れた日付や詳細な時刻、また、その際に彼が目にしたいささか珍しい王の姿が克明に書き記されている。
 この「パラスの記録」は、イードの虐殺後のトラバント王の行動を明らかにするもっとも正確な記録の一つであり、一個人の残したごく私的な記述には珍しく、多少なりとも歴史的な価値が見出されている。
 パラスの記録によれば、トラキア国王トラバントがグルティア城を訪れたのは、イードの虐殺があったその日の、日が暮れかかる頃であった。
 

 トラバントは子どもを片腕に抱き、空いた手で飛竜の手綱を操るとグルティア城の屋上に降り立った。自らと仇敵、二対の聖槍は、今は皮紐で飛竜の胴の左右に抑えてある。
 グルティア城の石造りの床に、飛竜の影は黒く長く伸びた。赤い夕景が目にしみるようだった。
 連れてきた幼子は竜に乗った後、泣き疲れたのかこんこんと眠っていたが、そのおかげで扱いが楽だったのはトラバントにとって幸いなことだったろう。イードからトラキアへの帰路では、レンスター上空を避け、メルゲンの西を迂回しターラの上空を通過することで王はようようグルティアにたどり着いたのだった。竜の国の王が駆る最高の飛竜をもってしても、それは短い道のりではなく、もし子どもがだだをこね続けていたなら、今日中に国へ帰ってくることは困難であったに違いない。
 しかし、その帰路が長ければいいと、トラバントはわずかながら思ってもいた。このグルティア城で彼がせねばならぬことに、トラバントは必ずしも乗り気ではなかったのである。

「へ、陛下!?」
 王の突然の、それも単騎での訪問にその姿を見た衛兵は驚きの声を挙げた。
 暮れかかる日射しの中で、若い衛兵は一瞬その人物の鎧に刻まれた紋章を見間違えたかと思ったほどだった。まだ役目に就いたばかりの一兵卒の彼は、新兵の就任式で遙か遠目に王の姿を見たことがある以外、現国王の絵姿は知っていても間近で実物を見たことなどなかったのだ。
 何より、仮にその人物が王だとするならば、片手に小さな子どもを抱いているのが異様である。
 だが、来訪者の鎧に刻まれているのは紛れもなく「槍を持つ竜」を(かたど)ったトラキア王家の紋章であり、また、乗る黒竜の翼の張りとその大きさ、そして今は竜の胴にくくりつけられた槍の比類なさはこの世に二つと──否、天地の二槍の他には──ないものだった。
「へ、陛下。どうなさったのですか!?」
「王妃の見舞いに来ただけだ、騒ぎ立てるな」
「あっ……か、かしこまりました」
 狼狽したように頭を下げる衛兵は、当然ながらトラバントにとっても知らない顔だった。まだあどけなさが感じられるほど若く、二十歳前と見受けられた。おそらくこの任について間もないのだろう。王がこうして、時折単騎でこの城を訪れることを知らなかったのか、余程喫驚したらしく額に汗をかいて総身を硬直させている。
 トラバントも三十路には至っておらず、世間的に見てはまだ青二才と言われてもいいような歳なのだが、衛兵の姿はひどく初々しく王の目には映るのだった。事実、トラバントと若き衛兵の間には、歳の差を倍にしても足りないだけの隔たりがあるに違いない。
「初めて見る顔だな。名は?」
「はっ。パ、パラス家のタウマスと申します!」
 これからは、こうした若い者たちが他国の戦に駆り出されなくてすむようになる、トラバントは思った。朝、レンスターの王太子を討ち取った感慨が、まだ完全には抜けきっていないのかもしれなかった。
「タウマスか。王妃の護りもある、この城の護衛は重要な役目だ。よく励めよ」
「はいっ」
 若い衛兵は王に言葉を掛けられ、感激も露わに頭を下げる。
 その衛兵に、王は自らが乗ってきた竜を休ませるよう頼み、さらに改めて騒ぎ立てることのないよう念を押した後で、幼子を腕に王妃の寝室へと向かうのだった。
 

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