≪ 憂国の竜 ≫
 


 

 寝室──あるいは、病室と呼んだ方が正しいのかも知れない。
 トラキア王妃エルシオーネ・ウラニアは、第一子アリオーン王子を産んだのち身体を損ね、長く療養生活を送っていた。トラキア本城ではなく、グルティアに住まうのもそのためだった。
 トラキア本城は外敵からの守りを第一に考え、造られた城だ。そのため山岳地帯の高地に位置し、南トラキアの中でも一、二を争うほど土地の痩せた場所にある。国が請け負う傭兵業の収入によって、首都の名に恥じぬ程度には城下の街も栄えているが、手に入る食料は新鮮さなどからはほど遠いのが実情だった。
 トラキア王家に生まれた者は、王国の中でも一番厳しいとさえ思えるその土地で生まれ育ち、民と苦しみを分かち合うのである。
 しかし、それ故に病人が暮らすに適しているとは言い難い。
 王子を生んで三年の後、いっこうに回復の兆しを見せないトラキア王妃は病気療養のため、本城からグルティア城へと移された。
 グルティア城はトラキア本城に比較すれば高度も低く、海に面しているため海の幸にも多少は恵まれている。王妃の実家はカパトギアであったし、グルティアの浜風は必ずしも弱った妃の体にいいとは言えないかも知れなかったが、国母たる者が余りにも本城から遠ざかることも出来ず、王の直轄地であるグルティアは妥協点としては最適だったのだ。
 王妃エルシオーネがトラキア本城に不在となってから、既に五年余りが経とうとしている。

「まあ、陛下……」
 寝台で半身を起こしていた王妃は、夫の腕に抱かれたものを見て、榛色(はしばみいろ)の瞳を見張った。
 王妃の居室には南と西に窓が取られており、今も夕陽が差し込んでいた。広さに比して装飾のあまりに少ない室内を、その茜色の日射しだけが彩っている。
 そう、トラキア王妃エルシオーネの寝室は、一国の王妃のものとは到底思えぬほどに質素だった。
 その居室では、広さだけは十分にある天蓋付きの寝台がまず目に付いた。ただし、寝台に張られた敷布は絹ではなく木綿だった。他はわずかに、小さなティーテーブルとチェストがあるに過ぎず、ティーテーブルにもチェストにも百合の花をあしらった精緻な細工がなされてはいたが、その下の床は身体を損ねた王妃が咳き込むことなどないようにと埃を積もらせる絨毯すら敷かれていない。
 トラキア王妃の居室の描写は後世にももたらされることとなったが、多少の誇張は交えられていたものの概して正しいその記述は、多分に人々の驚きを呼ぶものであった。
 トラキア王国がいかに厳しい経済状態にあったにせよ、今少しの贅沢は可能だったはずとの算出もされている。しかし、どのように情報を改めてみても、王妃エルシオーネには側付きの侍女がやや多かった以外、彼女はまるで王妃らしくない清貧とも呼べる生活をしているのだった。また、侍女が多いと言ってもグランベル国内の大公妃たちに比べれば平均か、それ以下であり、トラキア王妃が身体を損ねていたことも鑑みれば、やはりその数すら少ない部類に入るのである。
 もっとも、こと質素さに関する限り、この国の王の生活は後の人々にさらなる驚きを提供するものではあったのだが。
 王はその質素な部屋に控える侍女に幼子を任せた。
 途端に、腕が軽くなる。
 トラバントは眠る子どもというものが思いのほか重いものであったことを初めて知った。思えば、一国の王たる彼は実の息子すらこんなに長く抱いていたことはないのだ。
「陛下……この、幼子は……」
 主君のわずかな困惑をよそに、王妃に仕えて長い年輩の侍女、もとい王妃付きの女官長であるテレサが、控えめに尋ねた。控え目ではあるが、思うところはあるらしく、その目にはわずかながら非難を思わせる色がある。
 トラバントはその非難の色については、黙殺した。
「わしの娘だ」
 一言で明言する。
 さすれば、テレサばかりでなく他の侍女たちまでもが憤懣やるかたないという表情を露わにした。
 一国の王に対するに、それは不敬と呼んで良い行為だったろう。
 が、彼女たちは王妃をずいぶんと慕っており、自分たちは王家に仕えているのではなく聡明で優しく美しい王妃様にお仕えしているのだと日々口にしているような者たちばかりだった。ために、この反応は容易く予測のついた結果であったし、そもそも今さら王に対する不敬を問うのもいたく馬鹿馬鹿しいことである。
 それがわかっているので、トラバントは侍女たちの反応も意識の果てに没却し、淡々と言葉を続けた。
「わしは王妃に話がある。そなたらは席を外せ」
 テレサは困惑気味に王妃に目配せしたが、王妃はいつものように頷くだけだ。侍女たちはそろってかすかなため息をつくと、大人しく退室していった。
 バルコニーへと続く窓から吹き込む風が王妃の髪を揺らしていた。アリオーン王子の癖のない髪はこの母后譲りで、今も黄みを帯びたまっすぐな栗色の髪がさらさらと音を立てている。
 けれど、その髪にかつてのような艶はなかった。
 病に痩せた今もトラキア王妃の優しげな美貌は奇跡的に損なわれておらず、むしろ儚げな風情は王妃の清らかさをいっそう際だたせているように見えないでもなかったが、顔色の悪さはいかんともしがたい。
 王は汐の匂いを孕んだ風を招き入れるバルコニーを見つめた。
「窓を開けていたのか。この濃い浜風はそなたの身には障ろうに」
「少し外の空気を感じたくなりまして、我が侭を申してしまいました。どうぞ、テレサたちを叱らないでやってくださいませね」
 王妃は少し困ったような表情で小首を傾げていた。叱らないでやってくれというその言葉が、果たして単に浜風についてだけを指しているのかは、トラバントにも計りかねる。
 やがて、難しい顔をした夫がバルコニーの窓を閉ざして寝台の脇の椅子に腰を下ろすのを待って、王妃は微笑んだ。
「陛下。先ほどの幼子はいったいどこの畑から拾っておいでになりました?」
「レンスター王家という畑から拾ってきた」
 この返答に、王妃は息を呑んで目を見張った。
 予想外の答えに衝撃を受けたのであろう。元もと良くない顔色が、更に一段血の気を失う。
 王妃は夫たるトラバントが今、レンスターの王子を葬るための遠征に出ていることを、聞いてはいた。レンスターの王太子夫妻の第一子が王女であることも、聞いたことがあった。
「では、今の娘はノヴァの姫……」
 声を低めて語られた言葉は、問いではなく確認だった。男は頷いた。
「あの娘は地槍の後継者になりうる者だ。我が国で育つならば、成人した暁には必ずトラキアのためになろう。故に連れて参った。だが、そのためにはあれの出自を明らかにするわけにはゆかぬ。あの娘は、我が子として育てねばならん」
「はい、陛下」
 王妃は夫のもくろみを一瞬で、正確に悟っていた。
 この王と王妃が互いを見知ったのは王が十、王妃が八つの時だった。けれどその時には既に、彼らは互いの名を知っており、その相手が生涯の伴侶と定められた相手であることも知っていた。それよりおよそ二十年を近しく生きてきた彼らには、敢えて言葉にせずとも通じる事柄も多い。
 先の幼女を、夫はその言葉通り我が子として育てるだろう。娘の血筋は、他者に任せるには危険すぎる。それも家臣や民から遠ざけ、人目につかぬよう育てるのでは駄目だった。王はあの娘を王家の一員として迎え入れ、王女として自らの手の内で育てるのだろう。この国の王族としての自覚を持たせ、何より決してこの国と、そして王自身を裏切ることがないよう教育するのだろう。
 そうしなければ、『道具』としては安心して使えない……。
 トラバントはそういう男だった。彼女はそれを哀しく思う。
 その哀しさまで含めて、王妃はこの王を愛していたのだけれど……。
 
 

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