All I Ask of You -summertime- 

 
 
 
 
 空を渡っていく雲の影が、緑の原をゆっくりと進む。
 影の後を追うように涼やかな高原の風が吹き抜け、その風に色とりどりの花がなびいた。
 ふと空を見上げると透きとおるように青い。
 木陰からわずかに覗く夏の陽射しは葉の隙間できらきらと光った。
 夏だった。フランスの、決して長くはない夏の、そのさなか。
 ラウル・ド・シャニィとその妻子が訪れた避暑地は、明るく涼やかに彼らを迎えた。
 シャニィ夫妻とその子どもたちは木陰のひとつにブランケットを広げ、その日の昼食をとった。
 子爵が手ずから運んだバスケットの中身は、蒸した鱒料理、セロリが数本にトマトが数個。塩と胡椒。それに香ばしいバゲットとチーズというごく質素なもの だ。だが、爽やかな高原の空気の中で食べるとそれがひどく美味かった。
 シャニィ家の別荘を取り巻くこの辺りの丘は、それ自体もまたシャニィ家の土地であり、彼ら家族の他に人影はない。この丘までの道すがらには、子どもたち が手慰みに摘みとるに余りある野苺や山葡萄、ともすれば杏までが実ったままにされていて、デザートの準備は始めから必要なかった。
 摘みとってきた苺や杏を満足いくまで口にすれば、幼い子どもたちは食後の休憩などとは到底言っていられない様子で小川に駆け下りてゆく。彼は妻と木陰に 残り、特に何をするでもなく丘からの眺めを見つめた。
 彼の手のひらの下には妻の手があった。
 小川で遊ぶ子どもたちの笑い声がここまで届く。
 穏やかな、ただ穏やかな午後だ。
 幸せを、ラウル・ド・シャニィは感じた。
 目に見えるすべてが美しく優しい。
 それは永遠のような幸せだった。
「まるで天国にいるようね」
 隣で妻が言った。
 彼は妻を見た。妻は彼に顔を向け、微笑んだ。
「本当に、そうだね」
 心からラウルは言った。彼も同じ事を思っていた。
 ここで時が止まってもいいと思うほどの幸福があった。
 ならば、ここが天国だ。
 ラウルとその妻は、どちらからともなく顔を近づけキスをした。
 額をくっつけたまま二人で小さく笑う。
 小川のそばから子どもたちの声がした。見ると、二人へ手を振っている。
 彼は軽く左手を挙げて応えた。横で彼の妻も優しく右手を振り返した。
 重ねた手はそのまま、彼らはまた黙ってその風景を見る。
 どれだけ時間が経ったろう。
 彼らが休む木の影は、まだそれほど向きを変えていない。
 彼は変わらず横にいる妻を見た。
 妻は変わらず、その丘を見ていた。
 透きとおるように美しい横顔だった。
 白い頬と、丸みを帯びた輪郭を縁取る豊かな髪。
 薔薇色の唇はかすかに開き、瞳はどこか遠くを見つめていた。
 その顔を見て、ラウルは気づく。
 彼女は歌っている。
 彼は気づいた。
 クリスティーヌが歌っている。
 ラウルに妻の歌声は聞こえない。けれど、それでもわかった。ラウルには決して聴くことが出来ない音楽を、彼女の心が歌っている。
 この美しい世界を見て、彼女が歌わないはずはなく。
 今、彼女のたましいはきっと天へも上って、ラウルの隣にはなかった。
 手を……。
 手を握るべきだ、と彼は思った。
 そして彼女の名を呼ぶ。
 それで彼女の心は地上に──自分の隣に──帰ってくるだろう。
 だから手を握るべきだ。
 そう思い。
 しかし彼は、そうしなかった。
 ラウルは目を伏せ、耳を澄ませる。
 彼に、彼女の歌は聴こえない。
 それでも彼は妻の声にそっと耳を傾けた。決して彼女の聖域に踏み込まないように、彼女を試すようなことをして、彼女を傷つけないために。
 そうしながら、彼女の歌を聴くことの出来ないもう一人の男を想った。
 彼女の歌をその魂で分かち合うことはできても、彼女の傍らにいられないが為にこの歌を聞くことのできない男を思った。
 それでも彼女は歌うのだろう。遠く、ここではない場所を見つめながら。
 そして男たちはそれぞれ、聴こえない彼女の声に耳を澄ますのだ。
 ラウルは耳を澄ませ、動かず待った。信じて待った。
 やがて、彼のてのひらの下で、かすかに彼女の指が動いた。
 彼は目を上げ、彼女を見る。
 彼女の大きな目が二度まばたく。その眼差しが地上に戻り、彼女は彼を見た。
 クリスティーヌは彼を認めると、やがてその目が彼に詫びた。声はなかったけれど、その言葉は彼に聞こえた。
 その眼差しを見て彼はただ微笑む。ゆっくり彼女の手を握った。
 彼女は泣くように微笑んだ。少し遅れて、肩に彼女の頭が乗る感触がした。
「ごめんなさいね……」
 小さく、その声が聞こえる。
「いいんだよ……」
 彼は心から言った。

 

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