Compassion
 
 
 
 
 足音は近づき、やがて戸口にエリックが現れた。いつも通りの姿だった。長身に、正装。仮面と(かつら)。無言で立つ彼は、少し疲れた風に見えた。エリックは口をきかず箱に目を向けて、そのまま手のつけられていない箱を黙然と眺めた。
 クリスティーヌは両手を腰の高さで握りしめた。何か言わねばならない、と思い、しかし言葉は出てこなかった。本当は、こうして彼と向かい合っていることすら耐え難いのだ。
「エリック!」
 まるでそんな彼女の代わりというように、壁の向こうから声が上がった。
「私だ、わかるだろう!」
「ダロガ? 君はそこで死ななかったのか……」エリックは少し意外な調子で言った。「では、そのまま静かにしていたまえ。これ以上よけいなことを言うのなら、すべてを吹き飛ばす」
 エリックの声は、ひどく落ち着いて、冷たかった。彼の声にはこんな時、有無を言わせぬ力が宿った。彼が一言発するだけで周囲の空気が立ち上がり、緊張し、そばにいる者の喉を締め上げるのだ。
 この状況を前にして、なぜこうも落ち着いた声が出せるのか──。すすり泣き、金切り声を上げていた自分との、あまりの違いをクリスティーヌは感じた。改めて恐ろしさが募り、鳥肌が立った。
 それはクリスティーヌばかりではないらしく、誰も何も言えなくなった。そんな静寂の中で、ひとり落ち着き払ったエリックがゆっくりとクリスティーヌへ顔を向けた。
「……我々の、そして地上の人々の運命を決める名誉は、こちらのマドモアゼルにお返しすべきだ」
 クリスティーヌはただ息を詰めて男を見つめた。自分の体が震えているのを感じていた。やはり何か言わねばならないとはわかっていたが、声は相変わらず出なかった。
「こちらのマドモアゼルは」ひどく淡々とエリックは言った。「さそりには手を触れなかった。それに、ばったにも手を触れなかった」
「エリック……」
「クリスティーヌ、小箱の中の生き物を見たろう? どちらもとても良くできて、かわいらしい」
 男は不意に笑い出した。
「良いことを教えてあげよう」彼はうつろな陽気さで続けた。「このばったは跳ぶのだよ。この地下にはパリの一区画をまるまる吹き飛ばせるほどの火薬がある。ばったを回せば、その火薬の力ですべて吹き飛ぶわけだ。ばったというのは、それは見事に跳び上がるものだからね、高く、高く! ……だが、さそりを回せばその火薬は水浸しになる。素晴らしいとは思わないか、クリスティーヌ? きみはオペラ座の客たちに、命というそれはすてきな贈り物を与えてやることになるわけだ。差詰め私たちの結婚式の引出物というところだ!」
 エリックは高い声で笑いながらクリスティーヌに歩み寄った。そして、その腕をクリスティーヌへと伸ばした。クリスティーヌは思わずその手を避けて半歩退いた。
 男はクリスティーヌへと差し出したままの形で手を止めた。笑い声がやみ、男は手を下ろし、やがて頭を垂れた。
「その、美しい手で……」男は、今度は喘ぐように言った。「さそりを回せば、私たちは晴れて新郎新婦になれる」
 クリスティーヌはたまらず顔を背けた。両手を胸元に引き寄せ、身をかばう。男は長い、長い溜息をついた。
「……あと二分。二分だけ待とう」エリックは言った。「私は時計を持っている。とても正確に動く時計でね……。あと二分でお前がどちらも選ばなければ、私はばったを回すだろう」
 それを聞いて、クリスティーヌは思わず暖炉の前に立った。自分の体で背後の二つの小箱をかばい、エリックを見た。そんなクリスティーヌを男はにわかに笑った。
「私は切り穴(注:舞台のセリ上がりなどに使われる仕掛けを組み込んだ穴)を趣味にしている男なのだよ? どんな仕掛けでも、操れる。こうして離れていてもその小箱の中のばったを回すことが出来るのだよ」
 まさか、と口にしようとしたところで、背中からパタンと軽い音がした。クリスティーヌは弾かれたように飾り棚を振り向いた。そこには閉じていたはずの箱がふたを開け、中のばったを覗かせていた。
「ほら、かわいい虫が見えるようになった」
「……」
 エリックに出来ないことがあるなどと、そんな希望を言葉にする余地は、今やどこにも無かった。この男の狂った天才をクリスティーヌは確かに知っていた。エリックが出来ると言うのなら、それは間違いなく彼には出来ることなのだ。
 恐ろしい沈黙が降り、クリスティーヌは改めて小箱を見つめた。さそりを回すべきか……そうだ。さそりを回すべきだ。しかし、もし、エリックがうそをついているなら? ではばったを……? しかしばったは火薬のはず。正解は? あるいはどちらも火薬だったら?
「約束の時間だよ。クリスティーヌ。だが、お前はどちらも回さなかったね」天使のようなその声で、クリスティーヌは我に返った。「では、私がばったを回そう」
「エリック、よすんだ!」
 クリスティーヌより早く、壁の向こうから叫びが上がる。しかし、それを気にしない様子でエリックは軽く手を挙げた。
「待って、エリック!」その腕をクリスティーヌはとっさに掴んでいた。「エリック……。わたしは本当にさそりを回すべきなの?」
「そうだよ、クリスティーヌ」男はひどく優しい口調で認めた。「だが、お前はさそりを回したくないのだろう? だから、私が代わりにばったを回してあげよう」
 そして男は叫んだ。
「さあ、ばったよ! 高く飛び上がれ!」
「エリック!」クリスティーヌとダロガは同時に叫んだ。
「あなたは狂っているわ……!」クリスティーヌは呻いた。「あなたは怪物よ! 狂ってる!」
 男の特徴的な黄金の目が、彼女を黙って見下ろした。
「けれど誓える?」クリスティーヌは男の腕を捕らえたまま、その目を睨み上げた。「その呪われた愛に懸けて、誓える? わたしはさそりを回すべきなのだと、たしかに言える!?」
「ああ……」男は短く頷いた。「そのとおりだ、クリスティーヌ。おまえがさそりを回せば、私たちは教会までひとっ飛びでたどり着ける」
「やはりそうなの……?」クリスティーヌは思わず呻いた。「どちらにしても、わたしたちは吹き飛ぶのね……?」
 エリックは乾いた笑い声を上げた。
「まったく、お前は本当に何もわかっていないね。教会へ行くんだ。何も葬式に行くわけではない。私たちは結婚式場へ行くのだよ。──ああ! だが、もうたくさんだ!」男は唐突に叫びを上げた。「どうせお前はさそりを回したくないのだろう!」
 男は大きく頭を振る。仮面が外れるのではないかと、クリスティーヌが思わず恐れるほどの勢いだった。
「そうだ! お前はさそりを回す気はない! もういい! もうたくさんだ!」
 男は静止するクリスティーヌの腕を振り払い、そのまま芝居めいた仕草で腕を上げた。
「もうたくさんだ……!」
「エリック!」
 クリスティーヌは叫んだ。拷問部屋から叫ぶペルシア人の声と、その声は再び重なった。
 しかし、クリスティーヌが見ていたのはエリックではなかった。彼女が見ていたのは自分が思わず手を伸ばした──伸ばしてしまった箱の中だった。彼女は半ば途方に暮れ、ゆっくり男へ目を戻した。
 腕を振り上げていた男はその手を止め、クリスティーヌを見た。
「エリック……」
 クリスティーヌはもう一度男の名を呼ぶ。そして言った。
「わたし、さそりを回したわ」
 
 

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