さそりを回してしまった……。
それを自覚したとたん、心臓が破裂しそうに音を立てるのをクリスティーヌは感じた。きっと、それは一秒ほどのことに過ぎなかった。爆発を待つ、あるいは爆発しないことを待つ。たった一秒程度なのに、十度も心臓が鳴ったような気がした。
一秒後、振りかざされたエリックの腕が、力を失ったように落ちた。
それと同時に、何か音が聞こえた。良くわからない。ガスが抜けるような音だった。
「導火線か!?」
拷問部屋から上がった声にクリスティーヌは驚いてエリックを見た。エリックはまっすぐに立ち、クリスティーヌを見ていた。
「そこを動くのではないよ」
静かな口調で男は言った。
「ここにいれば安全だからね」
「エリック、あなた……!」
やっぱり騙したのね、そう叫ぼうとしたクリスティーヌの抗議の声を、隣室からの声が遮った。
「いや、違う!」
音が変化した。クリスティーヌもそれに気付いた。地鳴りのような音、何かが雪崩れるような音だ。建物が崩れているのかと、一瞬クリスティーヌの背筋は冷たくなった。しかし爆発音はしなかった。足下から轟くような微動は感じたが、大きな揺れはない。
やがて、音は更にはっきりした。泡立つ音、流れる音。まるで滝のそばにいるような音だ。
「水だ!」
音の正体を証明する声が挙がった。その声にクリスティーヌは弾かれた。ラウルの声だった。
「水が上がってくる!」
ラウルの声に悲壮感はなかった。では、紛れもなく水が上がってきているのだ。それに気づいて彼女は一瞬ほっとした。さそりを回せば、水が流れて火薬はだめになるとエリックは言った。その言葉は嘘ではなかったのだ。
けれど、すぐに我に返った。
今し方エリックは「動くな」と言った。「ここにいれば安全だ」と言った。まるでここ以外は安全ではないかのような口振りだった。クリスティーヌはエリックを見た。男は動かずにいた。
そして、ただならぬ音に彼女は気づく。床下から聞こえてくる水音が、更に大きくなってくる……。
「クリスティーヌ! 水が上がってくる! 逃げろ!」
「え?」
ラウルの声に、クリスティーヌはまた拷問部屋に続く壁を見つめた。青年の声はつい今し方の歓喜の色を消し、まるで悲鳴のようだった。
「エリック、もう水を止めろ!」
今度はペルシア人の声だった。その声はほとんど悲鳴だった。
何が起きているの……そう考え、クリスティーヌは目を見開いた。
水が──。
水がせり上がってきている──!
ルイ=フィリップ様式のこの部屋だけを除いて、周りで起きている尋常ならざる様子が床を隔ててもわかった。否、壁の向こうでは、水音の聞こえる位置はすでに床の高さを超えている──。
「僕の膝まで水が……クリスティーヌ!」
クリスティーヌはエリックを振り返った。
「……エリック……」
クリスティーヌは目を見開いたまま、男に呼びかけた。
「……エリック、水を止めて……」
隣室から聞こえてくる声は、もはや完全な悲鳴に変わっている。
「お願いです」
男は少し笑ったようだった。
「おかしなことを言う。なぜだね? この部屋に水は入ってこない。ここは安全だと言ったろう?」
「お願いです、あの二人を助けて下さい」
男は、今度はハッキリと笑った。
「今やお前は私の婚約者になったのだよ? お前にフィアンセは二人も要らないだろう」
そのむやみに明るい声を、しかしクリスティーヌは聞いていなかった。聞こえてくる悲鳴の位置が当初より高くなっている。彼らの頭より高いはずの位置から声がしている。
その意味を悟ってクリスティーヌの背筋が凍った。
彼らの足はもう床に着いていないのだ。
クリスティーヌはエリックに歩み寄った。視線を下ろさず、言い募った。
「エリック、お願い。あの二人を助けて」
「あの二人を助けて──? それでどうする気だ?」男は笑ったまま軽く上を仰いだ。「奴らが再びこの地下に戻ってきて、お前を助け出してくれるのを待つ気か?」
「そんなことではなくて……!」
言って、それから、そんな言葉では足りないことにクリスティーヌは気がついた。
彼女は一度呼気を飲み込んだ。そして、心を決めた。彼女は、一言一言、ゆっくりと口にした。
「わたしは、あなたの妻になります。そうお約束しました。だからもう、誰も、傷つけないで」
エリックが顔をクリスティーヌの方へ戻した。燭を灯したような黄金色の目、瞳と言うより電光のように見えるその目が、彼女を覗き込んでくる。隣室からは、まだわずかな声が聞こえた。けれど、その声はもう天井に近かった。それなのに水はまだ止まらない。
「エリック……!」クリスティーヌは男を見上げて叫んだ。「エリックお願い! 水を止めて!!」
「……生きて、」
男が小さく呟いた。
「……え?」
「生きて、……生きたまま、私の妻になると誓うか」
クリスティーヌは肩で息をしながら男を見た。男の目は先ほどからずっとクリスティーヌに注がれていた。
生きて、このエリックの妻に……。
「…………誓います」
うなずいた。
「誓います! 彼らを助けてくれたなら、必ず生きて、あなたの妻になります! もしわたしがこの誓いを破れば……」そこでわずかに、彼女は言葉に詰まった。彼女は息を吸い、声を絞り出した。「……もし、わたしがこの誓いを破れば、わたしの魂が天上で救われる日は、永久に訪れないでしょう」
エリックが息を呑んだ。
「お前の……、おまえの、魂の救いに懸けて誓うと言うのか? 自殺はしないと?」
クリスティーヌは大きく頷いて、顔を上げた。
「自殺はしません。私の永遠の救いに懸けて、生きてあなたの妻になると誓います!」
もう水音は隣室を埋めていた。天井まで埋めていた。隣室からの叫びは、もう聞こえない──。
「だからお願い!! 早く──!!」
男の手が、クリスティーヌの肩へと伸びた。その手が伸びてきても、今度はクリスティーヌは逃げ出さなかった。ただすがる想いで彼女は男を見上げていた。エリックの手はクリスティーヌの肩に触れる前で一度震え、そして止まった。
一拍の静止。それからエリックは小さく頷いた。
「わかった、彼らを助けよう」
短くそれだけ言って、男はクリスティーヌに背を向けた。
その後、彼が何をしたのか、何が起きたのかクリスティーヌにはわからなかった。エリックはただ少し壁を撫でただけのように見えた。だが、それで水音が変わった。波の揺れるような音の位置が見る間に下がり、さらには遠ざかっていく。わずか三十秒ほどで、水の音は何も聞こえなくなった。
「お前はここで待っていなさい」
そう言い置いて男は足早に部屋を出て行った。
クリスティーヌは男を見送った後も、ただその場に立っていた。しばらくして脚が震え出して、少しでも動けばそのまま崩れ落ちてしまいそうになった。彼女は腰の位置で両手を握りしめ、目を閉じた。その姿勢で、ただ二人が無事であることを祈った。
そうしてただ立ちつくしているうちに、やがて、なぜか奇妙な落ち着きがクリスティーヌを支配し始めた。脚の震えは収まった。
やるべきことはやった、という感覚にそれは近い。
自分に出来ることは、すべてした。おそらく出来ることの中では、最善の道を選んだ。そう思えた。後はただ、巻き込まれた彼らの無事を祈るだけの気持ちが残った。
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