Compassion
 
 
 
 
 声を上げて泣くと頭痛がする。
 やがて彼女はその痛みに耐えかねて泣くのをやめた。何気なく壁の柱時計を見ると、エリックが出て行ってから一時間ほどが経っていた。
 クリスティーヌは立ち上がり、冷たい水で顔を洗った。それから普段は目に入らないように布を掛けて隠してある鏡で顔を確かめた。瞼が少し腫れて隈もできていたが、さほどおかしいところは無かった。数日前に自殺を試みて切った額の傷にはさすがに目が行ったが、エリックの処置が適切だったのだろう。思ったよりは目立たなくなっている。流れた血の割に傷が浅かったのかもしれない。
 ──自殺。
 その傷を見て、彼女はそんな言葉を思い出した。
 今、エリックは出かけていて、地下の火薬はもう駄目になった。彼女を助けに来た二人は無事に地上に帰され、ならば、彼女が今から死んだところで、新たな被害者はもう現れまい。残されたのは、エリックとの結婚だけ……。
 クリスティーヌは洗面台の前に手を突いて、立ったまま目をつむり、そうしていくらかのことを考えた。
 けれど、次に目を開けたとき、不思議と自殺しようという気持ちはどこにも残っていなかった。
 確かに魂の永遠の救いを懸けた誓いを破ることは恐ろしい。けれど、神より与えられた命を自ら投げ出すというのなら、初めから永遠の救いなどありはしなかった。たとえ地獄に堕とされるとしても、屍肉をまとった亡霊の妻となることは耐え難かったからこそ、彼女は自殺を試みたはずだ。
 しかし、今、その気持ちはあまりない。
 クリスティーヌはキッチンに寄って時間をかけて丁寧にお茶を淹れ、ルイ=フィリップ様式の部屋に戻った。ここがオペラ座の地下だということも忘れさせるような常識的でのどかな佇まいが、彼女を落ち着かせるのかもしれない。彼女はずっと「キリストのまねび」を読んでいた肘掛け椅子に腰を下ろし、ゆっくりと温かいお茶を飲んだ。
 あの不思議な静けさが心に戻っていた。
 エリックとの未来に対する何らかの希望があるわけではない。だから、それが彼女を落ち着かせているわけではない。
 しかし、死だけを考えたあの二十四時間のように、絶望しているわけでもない。
 強いて言えば、何も考えていないのかもしれなかった。今さら考えたところで、どうしようもないという諦めを感じているようだった。
 どんな形であれ、エリックが今はクリスティーヌの婚約者だ。地上から帰ってきたら、彼はすぐにでもマドレーヌ寺院で式を挙げようと言うのだろう。その後のことは想像がつかず、考えようがなかった。考えてしまえば、ただおぞましさが彼女の体を震わすかも知れない。だから敢えて考えることを投げ出して、流れに身を任せようとしているのかもしれない。
 クリスティーヌはその部屋の家具を見回した。その家具類がエリックの母親の形見だということは少し聞いていた。クリスティーヌはヴァレリウスの義母(はは)のことをようやく思い出した。異国の地でお互いを支え合うことで生きてきた、クリスティーヌが離れて一人残されることをあんなにも恐れていた義母は、今頃、行方不明になった娘のことを寿命が縮むほど心配しているだろう。
 せめて手紙を書くことが許されるだろうかと、クリスティーヌは考えた。一度きりでもいい、叶うなら定期的に、ヴァレリウスの義母を安心させる手紙を出せるなら良いのに。エリックが戻ってきたら頼んでみようと彼女は思う。彼は許してくれるだろうか?
 エリック──。
 可哀想なエリック。
 改めて、クリスティーヌはそれを思った。
 この数日間、彼が平静であったことが、彼を哀れんでいた頃の気持ちを彼女に少し思い出させた。
 彼の天才は疑いようもない。その音楽の才はもちろんとして、いくつかの恐ろしい仕掛けも、この地下の隠れ家も、恐ろしさを忘れて考えるなら大変なものに違いない。拷問部屋すら美しく作るその才能はどれほどのものか。
 もし彼が美しい姿で生まれていたなら──否、とりわけ美しくなくてもいい。せめて普通の人間と呼べるだけの姿をしていたなら、彼は神に最も近い人間としてあらゆる称賛を受けていたに違いないのだ。今でさえ、称賛を受けることはなく、また人と呼ばれることすらなくとも、彼はこの世で最も神に近い人間なのかもしれない。
 ふと、拷問部屋の中に作られた森を見ていた時に彼が盛んに話しかけていたことをクリスティーヌは思い出した。
 あの時は恐ろしい名前の付いた部屋に閉じこめられたラウルたちが心配でろくに聞いていなかったが、エリックの声は耳の奥に響き渡って残っていた。──腹話術、手品。もうたくさんだ。人並みの結婚をして。妻を笑わせて。普通の……。普通の生活がしたい。こんな人生はもうたくさんだ。
 可哀想に。
 クリスティーヌは思う。
 あれほどの才能を持ちながら、ただあの姿で生まれてしまったばかりに、そんなことを願う彼の不幸を思った。その天才も彼の人生も彼女には到底想像のつかないものだったが、ただ哀れだった。
 もし彼がその言葉どおりいくらか人に近い生活をして、彼女という妻を持ち、クリスティーヌが約束を守る限り怒り狂うことも、恋に狂うこともないままでいてくれるなら、彼の姿以外に嫌悪を催すものはなくなるのかもしれない。彼の望み通り彼女を笑わせ、慎ましく生きる日々が続くなら、今後こそエリックの狂気は落ち着くかも知れなかった。そして彼が言ったとおり、慎ましやかな幸せを、エリックも感じることが出来るのかも知れない。
 少なくとも、エリックはラウルとペルシア人を救って欲しいと言った彼女との約束を守るために、真摯に行動してくれたのだ。その彼の言葉を、信じていいと思える。
 そう……。
 クリスティーヌは、自分がこんなにも落ち着いて、逃げ出すことも自殺することも考えない理由にようやく思い至った。
 それは、エリックが約束を守ってくれたからだ。永遠の救いを失うことが恐ろしいのではなく、ただ彼が誠心誠意、彼女との約束を守ってくれたからだった。だから、今度は自分が誓いを果たさなければいけないと、ごく自然に思っている。
 クリスティーヌは少し微笑んだ。
 あの父に育てられた、素朴なまでに素直な自分の魂を思い出した。かつて謎の声を<天使>と信じ、心をすべて捧げた時のように、今もただ何も考えず彼との約束を忠実に果たそうとしている、そんな自分に気がついた。
 これは、結局すべてを善いものに見ようとする幼い夢想なのだろうか。そうして今もまた、自分は同じ過ちを繰り返そうとしているのだろうか。
 しかし……。机の上に出したままだった「キリストのまねび」にクリスティーヌは目をやった。エリックに対して、自分はどれだけ嘘をついてきたろう。中には彼のあの顔より醜い嘘もあった。だからこそ、今一度の裏切りは、許されるべきではなかった。
 クリスティーヌは顔を上げた。遠く、わずかな水音が聞こえたからだ。時計を見る。いつの間にか時が経っていた。エリックが帰ってきたのだ。
 しかし心は平静だった。
 とても静かだ。落ち着いている。
 彼女は冷めたお茶を飲み終えると、後は何も考えずに立ち上がった。人を出迎える当たり前の作法に則って、彼女は扉の前まで行ってそこで待つ。
 足音が近づき、一度止まる。躊躇するような間を挟んで、扉が開かれた。
 帰ってきたエリックは仮面を被っていて、その顔は見えなかった。クリスティーヌは少しほっとして言った。
「お帰りなさい」
 男は答えず、その場で立ち止まった。クリスティーヌを見下ろした仮面の奥の目がわずかに見開かれているように思えた。しかし、元より表情のわかりやすい相手ではない。気のせいだろうと彼女は深く考えずに思った。
 彼が黙ったまま動かないので、クリスティーヌは首を傾げた。
「二人は?」
「ああ……」男は一度言葉を切った。「ああ、大丈夫だ。無事だとも。家に運び込まれるところまで確かめてきたからね」
「そう、良かった」
 クリスティーヌはそう言って一歩さがった。戸口で棒立ちになっているかのような男が、自分のために入れないのではないかと思ったのだ。
 クリスティーヌを凝視していたエリックは、一度足下に視線を落としドアの敷居を見た。それから、男は再びクリスティーヌを見て、ようやく少し足を進めた。まるで初めて友人の家におじゃますることになった人見知りの子どものように、彼は遠慮がちに部屋へと入ってきた。
 エリックは足でも痛めたのではないかと思うほどおずおずと歩き、やがてクリスティーヌのすぐ前で立ち止まった。エリックは何も言わずに立っているだけで、その瞳が小さく揺れていた。
 それは不思議な様子だった。クリスティーヌには彼の気持ちが全く理解できなかった。
 だから、何か自分は彼を戸惑わせるようなことをしたろうかと、クリスティーヌは考え込んだ。そして、二度ほどまばたいた後に気がついた。今や彼女はエリックの婚約者だ。彼女はこの地下の隠れ家の女主人ではないし、迎え入れた相手も客ではない。普通に客人を出迎えるように彼を迎えるだけではいけなかったかもしれない。
 では、婚約者に対してなら──たとえばもしラウルが二人の家に帰ってきた時なら──自分はどうするだろう?
 そう考え、必ず自分がするだろうことをクリスティーヌは思いつく。きっと自分は彼に抱きつき、唇か頬か額にお帰りなさいのキスをするだろう。
 彼女はエリックを見上げた。そして、さすがに(ひる)んだ。彼のゆがんだ唇も、仮面の下にある顔も彼女の目には焼き付いていた。それにラウルに比べてエリックは長身で、彼女からキスをするのは難しい。
 だから、クリスティーヌは迷った挙げ句、代わりに少しだけ自分の額を彼へと向けた。口づけを待つ合図として、瞼を軽く伏せた。
 その半分閉じた視界の中で、エリックの手が一瞬震えたように見えた。ゆっくりと持ち上がる彼の手が小刻みにわなないているように見えた。半ば目を閉じた無理のある目線のせいで、自分の瞳が揺れているからだろうかと彼女は不思議に思った。
 思っていたよりはずいぶん長い時間が過ぎた。エリックの手が自分の肩をそっと抱くのを感じて、額に、ようやくかすかな感触があった。
 その感触に少しの意外をクリスティーヌは覚えた。
 額に受けた感触は温かかった。
 死者をそのまま思わせる彼の冷たい手とは違っていた。
 彼の唇は、冬の乾いた冷たい空気の中を歩いてきた人のように干涸らびてかさついた感触ではあったが、おぞましさを覚えるようなものではなかった。
 クリスティーヌは彼に口づけられた自分が怖気(おぞけ)だって震えてしまうことを密かに心配していた。だが、そんな恐れは必要ないほど、彼の口づけはごくありふれた感触だった。そういえば冬の寒い日に出かけた父親を出迎えると、こんな感じのキスを受けたと、何となく彼女は思い出した。
 
 

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