Compassion
 
 
 
 
 いつの間にか、自分のしゃくり上げる声しかしていないことに、クリスティーヌはぼんやりと気づいた。
 ひどい頭痛がしていた。けれどまだ涙は止まらなかった。なぜなら哀しかった。エリックの人生が辛すぎた。ハンカチを顔の下半分に押し当て、ぐずぐずと何度もすすり上げた。
「クリスティーヌ」
 優しく美しい呼び声がして、クリスティーヌはわずかに顔を上げた。
「クリスティーヌ」
 もう一度同じ声がして、クリスティーヌはひどく腫れた瞼を何度かしばたいた。壊れてしまったように涙はまだ溢れていたが、わずかばかり澄んだ視界にエリックの顔が見えた。
 エリックは彼女の手を少し引いて、その手を広げさせると手のひらに何かを置いた。その何かを握り込ませるようにそっと両手で彼女の手を包み、男は言った。
「これを、きみにあげよう」
 エリックが手を離したので、クリスティーヌは自分の手を開いた。しょぼしょぼとした目をもう一度しばたいて、そして、少し驚く。手の中にあったのは、かつて彼に常に嵌めているようにと言われて、彼女が無くしてしまったあの金の指輪だった。しかし、それは確かめられたが、頭痛がしてそれ以上考えられなくなった。
 ぼんやりと指輪を見つめるだけのクリスティーヌに、エリックは言った。
「きみのために、それに……そう、彼のためにこれをあげよう。これは私からの……結婚のお祝いだ。『可哀想で不幸なエリック』からの贈り物だよ」
 エリックの声は今までのいつよりも優しく、ひどく痛む頭でも苦しむことなく聞き取ることが出来た。しかし意味がよくわからない、と彼女は思う。声がきちんと出せずに尋ねることは出来なかった。クリスティーヌはただ男を見つめた。
「きみが……彼を、愛していることは、わかっている。きみは今は自由になったから……。どうか、もう泣くのはおよし」
 そこまで聞いて、エリックの言うところの「彼」がラウルのことではないかとクリスティーヌは少し考えた。けれどなおさら意味はわからず、彼女は少し呼吸を整えると喉を湿した。
「……どういう意味?」
 ようやく尋ねると、彼は少し微笑んだように見えた。
 それから彼はゆっくりと説明した。
 エリックはもう、報われたこと。クリスティーヌによって、救われたこと。その彼女のためにならいつ死んでも良いと思うほど、救われたこと。そしてクリスティーヌが愛しているのは、夫にしたいのは、自分ではなくラウルだと、彼自身が知っていること。
「きみは、私と泣いてくれたから」
 エリックは微笑んだ。微笑みながら涙を流して言った。だから彼にはもう彼女の一切を妨げることはできず、彼女は本当に結婚したい相手といつでも結婚して良いのだと。けれど彼女はエリックと結婚すると魂の救済にかけて誓ってしまったから、だからこの指輪を渡そうと。彼女はしばらくの間、エリックのためにその指輪を嵌めている。それで二人の結婚は成立したことにしよう。クリスティーヌの誓いは果たされ、彼女の永遠の救いは守られる。
「だからこれは、『可哀想で不幸なエリック』からの、きみと、彼への贈り物なのだよ」
 ようやくクリスティーヌは理解した。自分がもう自由であることも、地上に帰れることも、ラウルともう一度逢えることも理解した。
 またラウルに逢えると思うと、それだけで胸の内が明るくなるようだった。嬉しい、と彼女は確かに思う。
 けれど、頬にはまた涙が伝った。悲しい、と彼女は思った。クリスティーヌが悲しんでいるのではない。けれど、エリックは悲しんでいた。この言葉を告げる彼の途方もない絶望が伝わった。それが心臓を止めてしまいそうなほど痛いので、クリスティーヌもう一度エリックの手をつかんで泣き出した。
「……可哀想なエリック……!」
 本当に、なんて不幸で、なんて可哀想な。
 たった一度、哀れみの涙を投げかけられただけで、愛を知ることのできる人だったのだ。にもかかわらず、彼にはこれまでただ一度として、こんな風に泣いてくれる誰かはいなかったのだ。その彼の孤独に彼女はまた泣いた。彼女の手の中で、エリックの手がもう一度震えた。彼もきつく目をつむり、また涙を零した。クリスティーヌはしゃくりあげた。そうして、また二人で一緒にしばらく泣いた。
 やがて彼はクリスティーヌの手を離した。
「さあ……指輪を」
 彼女はうなずき、それからエリックの手にもう一度指輪を返した。それから自分の左手を差し出した。
 エリックは少し驚いたようだったが、震える手でその小さな指輪をつまむと、そっと、彼女の薬指に嵌めた。
「死が」エリックは言った。「二人を分かつまで」
 クリスティーヌはうなずく。
 エリックは少し微笑んだようだった。どうしてか苦笑したようにも見えた。
「さあ、もう泣かなくていい。彼を連れてくるから、きみは待っているのだよ」
 そう言って立ち上がった男をクリスティーヌは見上げた。
「ラウルを?」
「ああ」それから、エリックは一度顔を逸らした。「そう、私はきみに謝らなくてはいけない。私は嘘をついていた」
 クリスティーヌは首を傾げた。泣いた頭が少し痛んだ。
「シャニィ子爵は、まだ地上に返してはいないんだ。この地下の、倉庫に閉じこめている」
 クリスティーヌは目を瞠った。一瞬、何かを言いかけて、しかしそれは飲み込んだ。
「……彼は、無事なのね?」
 エリックはうなずいた。
「大丈夫だ、傷つけてはいない。もうきみに嘘はつかない。彼にひどい危害を与えるようなことはしていない」
 クリスティーヌは目をつむり、深呼吸した。後は黙ってうなずいた。
「すまなかった」
 エリックが言った。彼女はもう一度黙ってうなずき、微笑んだ。
 少し時間がかかるだろうと告げたエリックを見送り、彼女は軽くこめかみに手を添えた。よろめきながら起きあがり、また顔を洗った。今度は、顔を洗ったくらいではどうしようもないほどひどい顔になっていた。彼女はハンカチを洗い、濡らして、すっかり熱を持った目蓋に当てて冷やした。
 何度かハンカチを冷やし直し、クリスティーヌは二人を待った。
 ずいぶんと時間が経ったように思えた。ようやく頭痛が引き、目蓋の赤みも引いたように思えた頃にエリックがラウルを伴って戻ってきた。
 エリックは部屋に入ると一歩さがり、ラウルをクリスティーヌの方へ進めた。
 クリスティーヌは近づいてくる彼に、思わず両腕を伸ばした。
「ラウル!」
 よろめくように一歩彼女が足を踏み出すと、ラウルが二歩駆け寄った。
「クリスティーヌ!」
 二人はしっかりと抱き合った。体を離し、お互いの顔に触れて互いの無事を確かめた。それからもう一度抱き合った。
 そして、どちらともなく顔を上げてエリックを見た。
 エリックは一人離れたところで二人を見ていた。微笑んでいるようにも悲しんでいるようにも見えた。
「クリスティーヌ」
「はい」
「きみにお願いがある」それからエリックはラウルに目を向けた。「シャニィ子爵にも聞いて欲しい」
 クリスティーヌはラウルを見上げた。ラウルはこわばった表情でエリックを見ていた。青年の顔は青ざめていたし、困惑もありありと浮かんでいたが、けれどかつてのような怒りを見いだすことはできなかった。ただ突然の事態の変化に、ひどく戸惑っているようだった。
 クリスティーヌはラウルの胸から添えていた手を離し、エリックに向き直った。
「どんなお願い?」
「今、きみがしているその指輪を、私が死ぬまで嵌めていて欲しい。子爵にも、どうかそれを許して頂きたい。長い時間のことではない。きっと、ほんの数週間のことになるだろう」
 口を開きかけたクリスティーヌを、エリックは首を横に振ることでさえぎった。
「私が死んだらエポック紙に報せを載せようと思う。ダロガ……ああ、子爵をここまで案内したペルシア人の彼に、私の死亡通知を載せるように頼んでおく。それを見たら、ここへ戻ってきて、私を埋葬して欲しい」
 足下が斜めになる心地がして、クリスティーヌはよろめいた。支えてくれるラウルの腕を背中に感じた。エリックが、死が二人を分かつまでと言った、その意味を彼女はようやく理解した。きみは自由だと言った時のエリックは、心臓が止まりそうな程の悲しみに満たされていた。今も、この先も、その絶望は彼の胸を刻み続けるのだ。その命を縮め、尽きさせるまで。
 エリックは彼の遺体を埋葬する場所とその方法を伝えた。彼女一人の力ではとても困難な作業になるだろうから、子爵にも手伝って欲しいと暗に告げた。そして最後に、彼の遺体の指に、彼女のしている指輪を嵌めるよう頼んだ。
「それでもう……」エリックは言った。「オペラ座の亡霊がきみたちを脅かすことはない」
「エリック……」
「誓ってくれるね」
 クリスティーヌは何かを言いかけ、けれど口を閉じた。エリックはじっと彼女を見ていた。目蓋がまた熱くなり、目を閉じた。涙が溢れそうだった。しかしそれをこらえ、クリスティーヌは目を開けた。彼が今、殉じようとしているものを彼女は知っていた。おそらく、彼が生まれて初めて全霊で捧げようとしているものを悟った。
 そして、捧げられるそれに、応える方法は唯一だった。
 クリスティーヌは一度ラウルを見た。ラウルは目をわずかに見開いてクリスティーヌに意見を求めていた。彼女はラウルにうなずいて、エリックに視線を戻した。
「必ず、お約束します」
 クリスティーヌの言葉に遅れて、ラウルもエリックに頷いたのが背中に添えられた腕から伝わった。
「ありがとう」
 そう、エリックは言った。
「……これからきみたちは、どうする?」
 エリックが尋ねる。クリスティーヌは、この問いには答えられずに、ただラウルを見上げた。彼女には何の案もない話だった。けれど、ラウルはしっかりした口調で答えた。シャニィの地に戻ることはもう出来ないだろうし、オペラ座にもいられない。クリスティーヌさえ良ければ、ヴァレリウス夫人も伴ってフランスを出て、彼女の故郷にほど近い北の国へ行き、そこで静かに暮らそうと思う。
 クリスティーヌは驚いたが、エリックは頷いた。
「それは、とても良い考えだね」
 それから彼は腕を広げて湖の方を指し示した。
「湖には小舟がある。すべての仕掛けはもう止めたから心配はない。湖を渡って行きなさい。人に見つからないように、どうか気をつけて」
 クリスティーヌとラウルはもう一度顔を見合わせた。エリックは腕を広げたまま立っていた。
 彼女は、少し待って、とラウルに告げ、エリックの前へ足を進めた。
 彼女は彼のすぐ前に立った。エリックは驚いた表情で立ちつくし、腕を下ろした。クリスティーヌは彼へ向けて両腕を伸ばした。エリックの顔を──あの顔を──両手で包んだ。エリックは大きく目を見開いていたが、彼女がその手を少し引くようにすると彼はわずかに頭を下げた。
 クリスティーヌはその額に口づけた。
 ゆっくりと、長く。
 そして唇を離した。
「エリック」男の顔を見て、彼女は言った。「ありがとう」
 そう言うと、エリックの両目から最後の涙があふれ出した。しかし、彼は笑っていた。
 クリスティーヌは、泣いてはいけないと思った。彼女はエリックに微笑んで見せた。
 そして手を離した。
「さあ……」かすれた声でエリックは言った。「お行き」
 彼女はうなずき、彼の方を向いたまま少し後ろにさがった。すぐにラウルに肩を抱かれる感触がして、ラウルを見上げた。ラウルはエリックを見ていた。ラウルもまたエリックに向けて、ほんのわずかに頷いたようだった。
「行こう」
「ええ」
 ラウルに軽く背を押されクリスティーヌは歩き出した。ルイ=フィリップ様式の部屋を出て、湖の小舟に乗り込んだ。彼女は二度、振り返った。船に乗る前に振り返ると、エリックは部屋の外まで出て彼女たちを見つめていた。彼女は船に乗ってから、もう一度振り返った。湖の畔に立つ彼の姿が見えなくなるまで、彼女は彼を見ていた。
 それが、生きているエリックを見た最後になった。
 

 今、エリックの遺体は、彼の望んだ場所に埋葬されている。
 あの地下の王国は、その出入り口がすべて塞がれ、彼がその生涯を懸けて描いたはずの「ドン・ジョヴァンニの勝利」のスコアは、もうこの世にはない。
 彼女が嵌めていた指輪は、エリックとの約束どおり彼の指へと返された。あの指輪は、彼と永遠を共にするだろう。
 そして、クリスティーヌはラウルと共に生きる北の地から、時折、彼のために祈りを捧げた。
 可哀想で不幸なエリックは、彼が初めてクリスティーヌを地下へさらって行ったその時、クリスティーヌが気を失い、彼が彼女の体を初めて抱き上げたその場所で、永遠の眠りについている。
 
 

<FIN>