the heart asks permission first
面会室に入った途端、てめぇの予測が3割ほど外れたことを知った。オレは緊張感が膝から崩れるような気分を味わいつつ、パイプ椅子に腰掛ける。なにか、 こう……こんなドデカいメガネをつけたオレが言うのもなんだが、異様なものがいる、気がする。正直、見えない目でもあまり見たくない。 「こんにちは! 神乃木さん!」 一方、こちらは想像通りの相手だったお嬢ちゃんが両手を胸の前で合わせて頭を下げた。仕切りのガラス越しにまず一言、思わずいつも通りの調子で応えてし まう。 「ああ、久しぶりだな」 言ってから、わずかに苦い気分になった。失敗した、と思う。とてもではないが、オレはこの少女に向けてこんな口をきける身ではない。にもかかわらず笑え ないウッカリをやらかしたのは、パイプ椅子に座る彼女の斜め後ろに立つ男のせいだ。 「神乃木さん、お久しぶりです」 「その声、成歩堂……、か?」 「語尾に『……、か?』は要りません。決まってるじゃないですか」 両手を腰に当てる仕種は確かに成歩堂龍一のそれに見受けられるが、しかし、オレが知っている成歩堂とはずいぶん顔かたちが変わっている気がする。 「アンタ、いったいいつの間に美容整形なんてしたんだい?」 「美容整形って……。ち、違いますよ! これは!」 「あたしたち、先にあやめさんの面会に行って来たんですよ。そうしたら、あやめさんに見とれてるなるほどくんを見て、はみちゃんが連続ビンタ食らわせたん です」 道理で、とオレは納得した。成歩堂の顔が8割り増しで大きくなっているわけだ。 そういえばノロケる若い男を見るとチヒロも暴れたなと思い出した。綾里家の血筋には霊力以外にそういう成分でも流れているのだろうか。まあ、チヒロに関 しては、幸い殴る蹴るの危害を加える相手がどういうわけか星影先生に限られていたので、オレがあの強烈なパンチと鋭いケリを八つ当たりで受けることはな かったが、よく考えればひどいハナシだ。正当な理由があってご機嫌ナナメになる分、まだ綾里春美のほうが人格的にまっとうかもしれない。 「あのお嬢ちゃん、年上の男にキツイいっぱつを食らわせるなんて、なかなかやるじゃねえか。先が楽しみ、だぜ」 「一発じゃなかったんですけど……」 成歩堂の異議は聞き流す。 「それで、その将来有望なお嬢ちゃんは?」 オレに会いたくなかったわけか、と言外に匂わせた。 「あ、いえ」 すぐに真顔に戻った(らしい。なんと言っても腫れ上がった顔ではわからん)成歩堂が口を挟む。 「今はあやめさんと話しています」 「なるほど」オレは納得した。「あの二人、半分だけとはいえれっきとした姉妹だからな」 二人とも、あの綾里キミ子の血を継いでいるとは到底思えないくらい、いいコだ。きっと仲良くなれるだろう。 成歩堂が神妙に頷いた。 「一度ゆっくり話をする機会を作ってあげたかったんですよ」 「はみちゃん、神乃木さんによろしくお伝え下さいって言ってましたよ」 「よせやい」 オレは苦笑した。 「わかるだろ? オレは、あのコにそんな風に言って貰えるオトコじゃねえぜ」 あの小さいお嬢ちゃんも、オレがどんな人間かは聞いたはずだ。あのコに優しくしたのだって、きっと、一歩間違えば殺してしまっていたかも知れない罪悪感 があったからだ。 「でも、オジサマにお伝えしてくださいって。本当にありがとうございましたって」 マイッたな。オレは咽奥で笑った。根っからの善人のセリフというのは、いちいち胸に響いて仕方がない。 「……その伝言、確かに受け取ったぜ」 「はい」 綾里真宵が全開の笑顔を浮かべた。 「で? アンタたちは元気にやってたのかい?」 「あの後ついに! 葉桜院のスペシャル・コースやって来たんですよ!」 「そりゃあまた……」 やや意外に思う。綾里真宵にとって霊力も、霊媒師という職も、ついでに言うなら葉桜院のスペシャル・コースも忌まわしい思い出がつきまとうもののはずだ と思っていた。そうなってしまった責任はオレにあるのだが、それにしたって、敢えて霊力を高めるスペシャル・コースに挑むとはどういう了見だろう。 「春美ちゃんは付き添いで……なぜかぼくが付き合ったんですよ」 オレは軽く吹いた。至極軽くではあって、これが仮に法廷でコーヒーを飲んでいた時であっても、裁判長にも届かない程度の勢いだったとは思うが。 仕切りの前の台に肘をついてオレは口元を押さえる。 「まるほどう……なんでアンタが……」 「なるほどくん、顔が深ミドリ色になってました」 質問の答えにはなっていないが、そうだろうとオレは頷く。それこそ検事時代のオレが着ていたシャツみたいな色になったろう。少し見てみたい気がしなくも ない。 まあ、成歩堂といえば燃え尽きたオンボロ橋に突っ込んで、文字通り「火の中、水の中」をたとえでなく実行した男だ。顔が深ミドリ色になるくらいはそれほ どの問題でないのかも知れない。 「やっぱりスペシャル・コースってすごいんですよ。今じゃ、あたし、綾里真宵ちゃんの霊力も三倍増しです」 綾里真宵は指を三本立てた。こんなに明るく言われると返答に困る。オレはそうかい、とだけ返してあとは黙って笑った。 「あ、ぼく、それじゃあちょっと出てるから……」 「うん」 成歩堂のセリフにオレは仮面の下で眉をひそめた。まだ、面会開始10分だ。成歩堂が引き上げるには早すぎる。 「おい?」 呼びかけると、成歩堂は軽く頭を掻いた。 「邪魔しちゃ悪いですからね」 意味がわからない。ただ、ドアに向かっていくものだからコイツが本気で出ていこうとしていることは理解した。 早々にドアノブに手を掛けた成歩堂を、オレは呼び止めた。 「成歩堂。オレは、ひとつアンタに言い忘れていたことがあるんだ。この機会に聴いてくれねえかい?」 「なんです?」 「礼だよ。アンタがチヒロを救ってくれたことに対する礼を、オレはまだ言っていなかった」 成歩堂はオレに向き直ると、軽く顔を歪めた。 「でも、ぼくは千尋さんを……」 成歩堂の言葉の続きは「死なせてしまった」か「救えなかった」だったろう。オレは最後まで言わせずに、言葉をさえぎった。 「アンタは、弁護士の綾里千尋を救ってくれたのさ」 成歩堂にはまだわからないらしい。なんのことだろう、という顔をして顎に手を添える。勘の鈍い男だと思う。 「綾里千尋は、初めての裁判で弁護士として致命的なダメージを受けた。彼女は、彼女だけが信じた依頼人に信じて貰えなかった。……いや、むしろウラ切られ たのさ」 「尾並田さん……」 「ああ」 尾並田美散は、悪魔のようなあのオンナに呪われた男だった。ヤツ自身が被害者だったと言っていい。おまけに、惚れた女にとらわれるという意味では必ずし もオレにやつを非難できるわけではないが、それでも、今となってはどこかユルせないという思いもある。あのシマシマが綾里千尋につけた傷はあまりに大き かった。 「チヒロは、尾並田の死と同じくらい、依頼人にウラ切られたことにダメージを受けたはずだ。アイツが二回目の裁判に出るまで一年も掛かったのは、そのせい だろう。ようやく彼女が復帰したその法廷で、アンタは、チヒロを救ってくれたんだ」 「ぼくが千尋さんに助けられたんです。ぼくは何もしてませんよ」 「いいや、成歩堂。アンタはチヒロから受けた信頼を、チヒロへの信頼で返した。尾並田と同じ女の呪いに負けなかった。チヒロは初めて依頼人との間に信頼関 係を築けたのさ」 それは、どれほど彼女を救ったことだろう。 「あればっかりはアンタにしかできねえことだった。……ありがとうよ」 「神乃木さん……」 今さらではあるが、こういう事実がこの男を救ってくれるならいいと思う。 「さァ、用があるんだろ? オレの話はこれだけ、だぜ。引き留めて悪かったな」 成歩堂は少し笑って頷いた。 「じゃあ、真宵ちゃん頑張ってね」 「まかせてよ!」 何が頑張ってなんだというオレの疑問を余所に、成歩堂は軽く頭を下げると本当に出て行きやがった。 「神乃木さん、あたし、ついに家元を襲名したんですよ」 成歩堂の行動に呆れていたオレは、そう声を掛けられ我に返った。綾里真宵は斜め上を見上げながら、「まあ、"おーとめいしょん"って感じでしたけど」な どと言う。 「でも、それからまだ、一度も霊媒してないんです」 「そうかい……」 オレはどう言っていいかわからず、ろくな返事が返せない。無理することはないさ、とでも言ってやればいいのだろうか。 「だから、今日は家元・真宵ちゃんの初仕事なんですよ!」 「今日は?」 例の両手を合わせたポーズでうんうんとお嬢ちゃんが頷く。 今日が初仕事だったのだろうか。それとも、これから仕事に行くのだろうか。疑問に思ったオレは、不意に体の前面に圧力を感じた。 「まさか……」 想像して、途端に心臓が跳ね上がった。オレは見えない目を見開く。かつて一度は止まりかけた心臓がうるさいくらいドキドキ言い出しやがった。 「はい」 綾里真宵はにっこり笑って頷いた。 「お姉ちゃんを呼んじゃいます」 「……チヒロ、を……?」 オレは、喉元で息が詰まるのを感じた。 息ばかりでなく声まで咽に絡む。チヒロが、ここに、現れる? それは確かに綾里真宵にならいくらも可能なことではある。あるが、しかし。 いつの間にか仕切り前のカウンターについていたオレの手が震えていた。 今のオレがチヒロを目の前にしたら、オレはどうなってしまうのだろう。ここにはもう、法廷という名の楯はない。弁護士と検事という名の仮面を取っ払っ て、ただの綾里千尋と、彼女の母親を殺した神乃木荘龍として顔を合わせることに、オレは耐えられるのだろうか? 「ダメ、ですか?」 綾里真宵がうつむく。 (ダメ?) オレは台についていた手からそっと手を放し、パイプ椅子に背を預けた。強張った全身の緊張を解く。そうでもしないと、ただでもイカレている体は持ちそう にない。 「お嬢ちゃん、顔を上げるんだ」 チヒロの妹はわずかに顔を上げた。オレは笑って顔を横に向けた。オレが見つめた先の壁には時計がある。面会が始まって15分。残り、45分──。 「オレは目が覚めてからの一年、チヒロの死から逃げ続けてきた。まったく情けねぇ話だ。お嬢ちゃんや成歩堂はきちんと向かい合ってきたことだっていうのに よ。ここでまた逃げ出したら、オレはオトコじゃねえぜ」 「それじゃ……」 オレは綾里真宵を正面から見つめた。 「倉院流霊媒道の家元さんにお尋ねするが、オレのためにアンタの大事な姉さんを、呼んでくれるかい?」 倉院流霊媒道の若き家元は、力強く頷いた。 |