the heart asks permission first


  ── 同日 午後3時16分 留置所面会室──

 オレは静かに深呼吸した。ひどく、緊張している。こんなに緊張した記憶は未だかつて無い。
 ガラスの仕切りを前に、カウンターの上で握りしめた拳の指先が冷たかった。そもそも拳自体がガタガタ震えていやがる。千尋に逢うのがたまらなく怖いと、 その震えは物語る。
 けれど、逢いたい。
 もしチヒロになじられればオレは容易くボロボロになるだろう。美柳ちなみの盛った毒なんぞ比にならねえ。チヒロの言葉はオレを微塵に切り裂くだろう。そ れが怖ろしい。だが、ボロボロにされても、切り裂かれても構わない、とも思っていた。少しでいい、チヒロの声が少しでも聴きたい。ただ一声でも。
 ムジュンしているのだろうか。
 下ろしていた視線を綾里真宵に向けて、オレは息を止めた。少女の姿には明らかな変化が生じていた。一瞬のうちに背が高くなり、体つきが変わる。目は閉じ られたままだが、顔立ちも既に違っている。髪こそ黒いがこの顔、この体は──綾里千尋、だ。
 握りしめた拳がいよいよガタガタ震えた。怖い。そのくせ、体は前のめりになった。もっと間近で見たい。このイカレた目でも構わねえ。拳を握ったのと逆の 手を、オレはガラスに押し当てた。
 チヒロが、ゆっくりと顔を上げる。
 ひどくよくできたドライ・マティーニをたたえたように澄んだ瞳が、オレを見る。
 永遠にも思える一瞬の静止。
「お久しぶりですね、センパイ」
 その声に、オレは奮えた。


 一分、あるいは一秒だろうか。オレは声を出せずに沈黙した。
「……オレはもう、弁護士じゃねえぜ。センパイってのは頂けねえな」
 解凍されたみてえにやっとのことで声を振り絞る。ふ、と女が口元を綻ばせた。
「じゃあ。──お久しぶりです、神乃木さん」
 その呼び名に目眩がした。オレが目覚めてから、法廷で彼女がその名を口にすることは決してなかった。胸を痺れが貫く。喜びが鮮烈すぎるのだと、痛みに一 瞬遅れて悟る。
「チヒロ」
 絞り出した声には万感の思いがこもった。彼女の名を呼ぶだけでオレにはもう精一杯だった。一年前、目覚めた冬の朝でさえ、もっとマシに喋れたように思 う。
 目の前の女は落ち着いて、悠然と微笑んでいる。それはオレの知らない綾里千尋の姿だった。オレの知る彼女はまだ駆け出しの新人弁護士で、裁きの庭に迷い 込んだコネコみたいなもんだった。それが、いま目の前にいる彼女はどうだ。憎らしいくらい完成されてるじゃないか。
 けれど同時に、彼女は間違いなく、オレが誰より愛した女で。
 チヒロはかすかに目を細めた。
「体は大丈夫なんですか?」
「ああ。なんとか、な」
「目の傷も?」
「こんなのはかすり傷みてえなもんさ」
「相変わらずね……」
 チヒロは苦笑すると、視線をオレから逸らした。視線が向かった先はオレの斜め後ろの壁だ。
「面会時間は、あと、どれだけですか?」
「三時から、一時間……四時までだ」
 その壁に時計が据え付けられていることは当然知っていたが、オレは、時計には目を向けずに答えた。チヒロから目を離す気にはなれなかった。目を離したス キに彼女がこの世から消えてしまうようなことがあれば、オレは二度は耐えらない。
 人の気を知ってか知らずか、チヒロは軽く頬に指先を添えた。
「ずいぶん長いんですね」
「ああ」
 成歩堂が時間を取った、であるとか、言うべきことはいくらもあるのだろうが声が出なかった。オレなんぞが説明しなくてもチヒロには見当がついたのだろ う。チヒロは頬に当てていた手を下ろすと、軽く顔を斜めに向けて微笑んだ。
「良かったわ。それなら少しは、ゆっくりお話しできますね」
 そこでまた、オレの呼吸は止まる。オレと話をする気があるのかと思い、同時についに来たか、とも思う。
「いいぜ」
 オレは呼吸を取り戻すために大きく息を吐き出し、椅子に背を戻した。
「なじられる覚悟は出来てるさ」
「──でしたら、エンリョしませんよ。私があなたに言いたいことは三つ」
 チヒロは正面からオレを見据えると、表情を硬くした。
「神乃木さん……本当に、ありがとう」
 綾里千尋はそう言って頭を下げた。何が起きたかオレにはわからず、一瞬、言葉を失う。
「ば、バカな!」
 気づくとオレはそう叫んでテーブルを叩いていた。
「どうしてアンタが頭を下げるんだッ」
 チヒロは顔を上げ、わずかに眉をひそめた。
「だって、神乃木さんは真宵を助けてくれたでしょう? お礼を言うのは当たり前だわ」
「チヒロ、アンタにはわかってるはずだ。オレはあのコを助けたわけじゃねえ」
「私だからわかるのよ、神乃木さん。それが結果的にでもなんでも、あなたがいなければあのコは殺されていた」
「それは……」
「あなた以外の誰に、あんなことができたと思うの? 検事になってまで、おばさまの計画を暴いてくれたじゃない。命がけで戦ってくれたじゃない」
「違う」
 オレは首を振ったが、自分でも弱い反応なのはわかっていた。今の綾里千尋がこんなスキを見逃すはずもないことも、知っている。
「あなたがいなかったら、誰一人おばさまの計画を知ることさえできずに真宵は殺されていたはずだわ」
「だが、オレは綾里舞子を……アンタの母親を殺したんだぞ。アンタがそれこそ命がけで汚名をすすごうとした母親を!」
 オレは拳を叩きつけた。
「それもアンタの妹の目の前でッ!!」
 チヒロは無言で表情を曇らせる。オレはそのまま畳みかけた。
「綾里真宵を助けるだけなら、他にいくらもやりようはあった」
「でも、あなたが真宵を救ってくれた、その事実は変わらない」
「オレがアンタの母親を殺した事実も変えられねえぜ」
 二人、ガラスを通して睨み合った。
 これがチヒロにとっては神乃木荘龍との五年ぶりの再会になるのかと思うと笑う気も起きねえ。頭のどこかで自分が言った。チヒロにとっては、ずいぶんとひ でぇ話だぜ。
 睨み合いの末、先に視線を外したのはチヒロだった。
「私が言いたいことの二つ目は、そのことについてです」
「……?」
「ごめんなさい」
 オレの頭にオトウフが浮かんだ。
 いや、つまり、豆腐じゃねえ。頭の中が真っ白くなるくらいカンペキに、オレは何を言われたかわからなかったのだ。
「チヒロ?」
 チヒロは顔を伏せる。
「──本当は、お礼より何より、このことが言いたかったの。神乃木さん、ごめんなさい」
「どうして、だ? なぜアンタが謝る」
「私は、あなたを待てなかった」
 チヒロの声が震えていた。
「私は、小中を追い詰めることに気が逸って、ひとりで無謀な真似をして、あなたが目覚めるより前に死んでしまった。危険なことはわかっていたの。ひとりで 終わらせようなんてせずに、神乃木さんが起きてくれるのを待つべきだったのよ」
 軽く、オレは身じろぎしたろう。胸の奥で古傷が痛んだような感触が走った。
「──オレが起きてさえいれば、アンタを死なせはしなかった」
「私が死んでいなければ、あなたはこんな事をせずにすんだ」
 オレはにわかに押し黙る。これまで敢えて目をつぶってきた感情が沸々と胸に涌くのを感じた。
「……アンタに、ウラ切られたと思った」
「神乃木さん……」
「五年も眠り続けてようやく目覚めたってぇのに、アンタはもうこの世にいなかった。よりにもよってあの小中大を追い詰めようとして殺されちまってた。なん でそんな危険な真似をした? それも、オレがいない間に」
 怒りにほど近い感情が胸を占める。それは、憎しみと呼んでいいかも知れない。
「そんな危険な真似をするなら、オレが目覚めるのを待って、それからでも良かったんじぇねえのか。危険であれば、オレは止めた。アンタがどうしてもと言え ば、いくらでも守ってやったんだ。それなのにアンタはひとりでとっとと逝っちまって……。どうしてオレを待てなかった? オレが必ず目覚めると、信じ続け られなかったのか!」
 チヒロが身を強張らせる。
 怒鳴るだけ怒鳴ったオレは、咽奥で笑った。
「あの時ばかりはアンタにウラ切られたと感じたぜ」
「死ぬつもりなんて、なかったの。あなたが目覚めないと思ったことは一度もなかった。ただ、私は詰めが甘くて……」
 チヒロはふと言葉を切ると、腕を組んだ。
「いいえ、これは言い訳ね。私はあなたに憎まれても仕方がないんだわ」
「──コーヒーと紅茶は別のカップに入れる。……そいつが、オレのルールだぜ」
 唐突なオレのたとえ話に、チヒロが眉を寄せた。
「コーヒーと紅茶は、同じ器には注がない?」
 相も変わらずなかなか察しのいい女だと、オレは満足する。
「愛情だの憎しみだのってやつは、ひとりの女に混ぜて注ぎ込むもんじゃねえってコト、さ」
 チヒロが目を瞠る。オレは笑った。
「そうだろう? 綾里千尋を憎むくらいなら、オレはオレを眠らせた女を憎むし、アンタを死なせた男を憎む。何より、毒薬なんぞでスヤスヤ五年も寝ちまった 自分を憎む」
 目覚めて、綾里千尋が死んだと知って、ウラ切られたと思ったことは確かにある。それは本当だ。だが、これが結論だった。たとえウラ切られようと、なんだ ろうと、オレに綾里千尋を憎むことだけは出来ねえ、と。名を捨て、弁護士をやめて検事になっても、それだけは変えられない。むしろ、変えない。
 ああ、とオレは不意に納得した。結局、尾並田美散もこうだったのだろうか……。
「神乃木さん……」
 チヒロの呼びかけにオレはゆっくり首を振った。
「わかってるさ。アンタはオレをウラ切ったわけじゃねえ。今度のことも、アンタのせいじゃねえさ」
 そして最後は、おそらく彼女のためですらなかった。
「アンタのため、アンタの妹のためだって言うなら、他にいくらもやりようはあった。思い上がったオレがこんなバカな真似をしなけりゃァ、アンタのお袋さん が死ぬことも、アンタの従妹を殺人の共犯にしちまうこともなかったのにな……」
 すまなかった。
 その一言は、意外なほどすんなり口をついて出た。
「本当に、すまなかった」
「謝らないで」
 チヒロの手が、仕切りのガラスに押しつけられる。掌に続いて、額も。
「謝らないで、神乃木さん……」
 前髪に隠れた彼女の目から、透明な雫がこぼれ落ちた。ギムレットの雫のはずもない。
 オレはチヒロの手に重ねるように、ガラスに再び自分の手を当てた。
「謝られたら憎めなくなる、か?」
 顔を寄せ、低く囁きかける。チヒロは小さく首を振る。
「知ってるくせに……。あなたのルールは、私のルールでもあるのよ?」
 上目遣いに見上げ、泣き笑いを浮かべた。
「私に、あなたを憎めるはずがないじゃない。それなのに、あなたの口から出るのが自分を責める言葉ばかりなんて、あんまりよ」
「チヒロ……」
 その顔を見て、急に彼女を抱きしめたいと思った。こんなガラスなんぞぶち破ってチヒロを抱きしめたい。だが、たった1センチ厚のガラスと、この世とあの 世という永遠の距離がそれを不可能にする。
 何より今のオレにはそんな資格がなかった。オレ自身が、自分にそれをユルすことはない。
「……いったい」
「え?」
「いったい、オレたちはどこですれ違っちまったんだろうな……」
 答えのない問いを呟いた。
 それは、オレが美柳ちなみに毒を盛られた時か。チヒロが小中大に殺された時か? オレが血の色を忘れた時か? それとも、初めから運命ってやつがすれ違 うように出来ていたのだろうか。
 そう思いつつもオレは心のどこかで、まだすれ違ってなんていないとチヒロが言ってくれるのを期待していたような気がする。けれど、チヒロは押し黙ったま ま、額をガラスから離した。意を決したような眼差しがオレを射る。
「私の、三つ目の話を聞いてくれますか?」
 静かな声でチヒロが言った。 おいおい、秋霜烈日ってやつは検事の代名詞だぜとでも言いたくなるようなその響き、その眼差し。ここが勝負所だなと、オレは無言の内に悟った。
 自問。こういう時、プロならどうすべきか。自答。決まっている。
 ふてぶてしく笑うのだ。
 だからオレは笑った。
「その前に、オレの頼みをひとつ聞いちゃあくれねえかい?」
「えっ?」
 おそらくかなりの覚悟を決めて紡いだろう話を反らされて、チヒロは珍しく狼狽したようだった。こういうところはまだまだ甘いなと思いつつ、もちろん、そ んなスキを見逃すオレではない。
「ひとつだけ、どうしてもアンタに許してもらいたいことがあるのさ」
 オレがそう言うと、チヒロはまたたきの間で狼狽から立ち直った。表情を改め、姿勢を正す。
「なに?」
 すぐにそう問い返してきたのは見上げたものだ。だが、まさか彼女は自分が罠に掛かったとは思いもしないだろう。
 オレはふてぶてしく、笑ってみせた。
 

「アンタを愛し続けてもいいと、言ってくれ」
 

 チヒロはしばらく押し黙った。一拍のタイムラグの後、「なっ」と、奇声を発する。両手をバンと叩きつける所作は新人時代の彼女を彷彿とさせた。
「神乃木さん!?」
 懐かしい姿に、オレははったりばかりでなく純粋な微笑ましさを覚えたが、笑ってばかりもいられない。ニヤけたツラを収めて、真顔でもう一度、口を開い た。
「オレが、アンタを──綾里千尋を愛し続けることを、許してくれ」
 チヒロは顔色をなくしてオレを見つめた。その唇からは声も出ない。
「オレはアンタのお袋さんを殺した男で、ついでに言えばアンタももう死んじまってる。だが、それでも頼むから、もう気にするなだの、私のことは忘れてくれ だの、オレだけでも幸せになってくれだの、そんなセリフは言わないでくれ」
「どうして……」
「アンタが用意してた三つ目ってのは、どうせこんなとこ、だろう?」
 あいにくその程度はこっちもお見通しだぜ。そう茶化せば、チヒロは顔を歪めた。
「忘れていたわ……」
 眉根を寄せた表情は、ゆっくりとだが、苦笑に変わっていく。 
「神乃木荘龍と言えば、先手必勝で知られた弁護士、だったわね」
「検事さんってのは後出しジャンケンがお好きらしくてな。それなら、先にぶっつぶしちまったほうがいい」
「私は検事じゃありませんよ」
「オレももう弁護士じゃねえぜ」
 ふう、とチヒロは溜息をついた。
「私の初公判でもそう。センパイったら、こっちは準備なんてゼンゼンできてないのに『弁護側には証人の動機を立証する準備があります!』なんて叫んでくれ ちゃって。あの時、私がどれだけ焦ったと思ってるんですか」
「度胸がついたろ?」
「おかげさまで」
「アンタの法廷での記録は、全部見たぜ」
「ワタシ流に、頑張ってみたんですけど」
「アンタは最高の弁護士だった」
「いい先輩に恵まれましたから」
「いい後輩にも、だろう?」
「ええ」
「綾里千尋は、生きている時は最高の弁護士だった。死んじまった後にも、最高の弁護士をこの世に遺した」
「あなたも、素晴らしい検事でした」
 それはウソだな、とオレは笑う。そこで会話は尽きた。
 法廷で判決が下されるように、人には決断を下さなくてはならない時がある。
 綾里千尋は、果たしてどちらを選ぶだろうか。
 オレのルールでは、ノーと言わせるわけには行かないのだが。  
 綾里千尋が口を開く。これが最後の尋問だと、オレは予感した。
「──私は、もう死んでるんですよ?」
「痛感してるぜ」
「こんな風に真宵の体を借りることだって、もうないかも知れません」
 オレはヤレヤレと首を振る。「そんな贅沢は望んじゃいねえよ」
 チヒロが軽く腕組みした。
「私、嫉妬深いんです」
「気が合うな。オレもヤキモチ焼きだぜ?」
「こんなこと言っておいて浮気なんてしたら、祟るかも知れませんよ」
「ありえねえよ」
「私が祟ることが?」
「神乃木荘龍が、このさき綾里千尋以外の誰かを愛すことが」
「バカね」
「オトコの純情、なめちゃいけねえぜ」
 チヒロは再び体を傾け、ガラスに額を押し当てた。
「バカよ、あなた……」
 

 <でも、愛してる。>
 

 そんな言葉を彼女の唇が紡ぐのを、オレは見た気がする。
 この瞬間が永遠であればいいと、オレは一度だけ、神に祈った。
 
 
 

 面会時間が終わり、客がすべて去った面会室にオレはひとり残された。たとえ神サマに祈っても瞬間が永遠になることはない。そして、生き残った者は時の流 れに乗らなくてはならない。どれほど想いが強かろうと、その場にひとり居座り続けることは許されねえもんだ。
 そして時間が流れていけば、やがてその中で消えていく思いもあるのだろう。だが、時とともに想いが深まってゆくのなら、生きて行くのは、きっと悪いこと ではない。オレはそれを知っていた。
 本審理が始まれば、またここで面会を受ける機会もいくらか増えるのだろう。
 オレはふと顔を上げた。小汚い壁の上部に開いたわずかな窓から光が射し込んできている。綾里舞子の最初の月命日も過ぎた三月。そろそろ春めいてきた光 が、ささやかながらそこにはあった。
 チヒロが去り際、言った言葉を思い出す。
"私はいつでも、あなたを思っているから"
 オレも、いつまでもおまえを想うだろう。その度に想いは深まるだろう。
 オレはマスクを外した。視界は限りなく闇に包まれ、部屋の輪郭すら定かでなくなる。それでも、わずかに陽射しだけは薄明るく見えた。仮面を取り払った頬 にもかすかなぬくもりを感じる。目が見えずとも、光は感じられる。光はオレを照らしている。
 一度は絶望的にすれ違った運命が、彼岸で再び逆転して交錯することはあるのだろうか。
 問いかける。答えはわかりようもない。けれど。
 おまえを愛し続けることが許されたなら、それは、永遠を誓ったことかも知れないと、オレは思った。

 

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