夢の続き


 神乃木荘龍が意識を回復したのは、冬のことだった。
 その朝、五年間眠り続けた男に対する現状の説明に医師が要した時間は、必ずしも短いものだったとは言えない。
 神乃木にどれほどの知力、理解力が残っているか確かめるという意味合いもあったのだろう。いくつかの質疑応答──それも医師から神乃木に対する形式めい た確認ばかりでなく、神乃木から医師に対する問いまで交えて行われた会話は「アンタの淹れたコーヒー、一杯くれねえかい?」という問い掛けと「絶対にダメ です」という即答まで含めて、およそ三十分あまりも続いた。
 神乃木荘龍に充分なコミュニケーション能力が生きていたからこそ、それだけの会話が可能だったと言える。
 一通りの確認のあとに、医師の簡単な自己紹介もあった。神乃木が運び込まれた頃にはまだこの大学病院の一医局員だったというその男性医師も、五年の間に 准教授になったと語る。
 意識を失って初めてこの病院に運び込まれた神乃木にしてみれば医局員時代のその医師を知っているわけでもなかったが、ヒトゴトながらそれだけの時間が 経ったのだと、多少とはいえ実感は得られた。
「最後に、神乃木さん」
 会話の終わりに、医師は言った。
「先程も言いましたように、あなたがこうして意識を取り戻したのは、本当に、奇跡と呼んで差し支えないことです。視力の著しい低下や五年あまりも眠ってい たことに今はショックを受けておいででしょうし、この先のリハビリも厳しいものになるでしょうが、どうか再び目覚めることが出来たこの幸運を忘れないでく ださい」
「ああ……わかってる、さ」
 神乃木荘龍はかすれた声で応えた。わずかに上げた手を軽く横に振る。
「人生に悲観して、自殺したりは、しねえぜ。安心しな」
 昔と違って電気的刺激を加える効果的な技術の確立によって筋肉の衰弱がある程度回避されていたとはいえ、五年に渡って眠り続けた男の手の動きにはやはり 力強さが欠けている。声を発することを忘れていた咽から紡がれる言葉は絞り出すようだ。それでも、男は言葉を続けた。
「オレは、本当に、ラッキーだったと思ってるん、だぜ」
「そうですか」
 医師はゆっくり応える。ああ、と短く呟いて神乃木荘龍は目を閉じた。
「それで、ワリぃが、しばらく眠らせてもらえるかい? どうやらまだ、寝たりねえらしい、ぜ」
 神乃木の冗談は医師に通じたようだ。医師はクスリと音を立てて笑って聞かせた。ただ、医師が頷いたことは、無論、神乃木には分からなかった。
「話しすぎましたね。しばらく休んでいてください。起きられる頃には、お知り合いも集まって来られるでしょう」
「……そう、だろうな」
 知り合いという言葉に神乃木がひとりの女性の姿をまぶたの裏に思い浮かべたことを、医師は知るよしもない。
「一、二時間もしたら起こすように看護師に伝えておきますよ」
「そうしてくれ。また、五年も寝るのはごめんだから、な」
「ええ」
 医師は立ち上がると、それじゃあ、と言って神乃木のそばを去る。
 スライドする戸の音にここは病室なのだと、神乃木は改めて思い知った。逆を返せば音や匂いから辛うじて自室ではないこと、病室であることを推測している に過ぎない。
 ひとりになった神乃木は、閉じていた目をまた開いた。そして再び閉ざす。目を開いて見た世界は、限りなく黒に近い灰。目を閉じて見る世界は、限りない 闇。その程度の差しかない。それとも、これは大きな違いなのだろうか。
 いずれにしても、視覚情報とは別に、今が朝で、自分は陽の光を浴びているという事実を認めることに神乃木はやぶさかでなかった。シーツの外に出した手や 頬には陽射しが肌を焼く感触がかすかにある。陽射しのぬくもりがどこか希薄なのは、今が冬だというためか、それとも毒が彼の神経にもたらした障害のせい か。
 おそらく後者だろうと神乃木は思う。
 オレはツイてたぜ……。
 神乃木は胸の内で呟いた。
 ラッキーだったと、そう医師に語った神乃木の言葉に嘘はない。ただし、彼がそう感じるに足る理由は、医師の説教とは必ずしも一致していなかった。
 神乃木は述懐する。
 毒を盛られたのがオレで、ツイていた──と。
 もし、今ここで全身にあまねくガタをきたして寝ているのが綾里千尋だったらと思うと、ぞっとする。視力を失い、体もろくに動かせず。綾里千尋がそんな姿 で五年も眠っている姿を想像すると、せっかく死の淵から甦ったというのに神乃木の心臓は止まりそうだった。
 しかし、それすらも最悪とは言えないのだ。さらにもっと悪い可能性もあり得えた。聞かされた医師の話を総括すれば、神乃木荘龍が一命を取り留めたこと も、今こうして意識を回復したことも奇跡ということらしかった。では、もし毒を飲んでいたのが綾里千尋だったなら? 体格では神乃木より優に一回りは小さ い彼女だ。同じ量の毒を盛られたなら命を落としていたかも知れない。意識回復の可能性はなおさら低かったろう。
 それは文字通りの絶望だった。神乃木荘龍を持ってしても、それだけは耐えられないと彼は思う。
 だから、神乃木は安堵の息を漏らした。
 絶望は想像の範疇に納まった。実際に毒を飲んだのはこのとおり神乃木荘龍だ。綾里千尋ではない。そして、神乃木はいま目覚め、何より綾里千尋は死なずに 済んでいる。絶望は現実にはならなかった。最悪の事態も起こりえたことをかんがみれば、視力を失ったことさえ神乃木にはささやかなことに思われる。
 毒を盛られたのがチヒロでなくて、本当に良かった。
 神乃木はそう胸中で呟いた。

 安堵すると同時に、神乃木はわずかな睡魔の誘惑を覚えた。再び眠りに落ちることにまったく抵抗を感じないと言えば嘘になるが、医師も睡眠を許したことだ しおそらく大丈夫なのだろう。
 次に目覚めるのは一時間後か、二時間後。その時に彼を起こすのは、もしかすると彼女かも知れないと神乃木は思う。 
 この五年で、綾里千尋はどんな弁護士に成長したろうか。目覚めた自分になんと言うだろう。彼女の成長する過程をそばでずっと見ていられなかったのは残念 だが、想像して、神乃木はひどく楽しみになる。眠りに対する抵抗は薄れ、男は睡魔に身をゆだねた。
 

 いまだ彼は≪知らない≫という名の、幸福な夢の中にいる。


 

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