死より静かな青
 

 センパイが毒を盛られた日の朝、私は、彼の部屋にいた。
 濃い青のブラインドを通した夏の光が青い影をつくっていた。夏の終わりの晴れた朝だった。そろそろ角度の大きな朝の陽射しは黄みを帯びていそうなものな のに、少しもそう思わせない。
 ベッドヘッドに置いた携帯電話で時刻を確かめると、まだ五時半時だった。アラームをセットしていた時間より一時間も早くに目覚めたことになる。私は携帯 のアラームを解除した。ボタンを押すたびにピッピッと鳴る電子音が、いつもよりずっと大きく聞こえた。
 ひどく静かな朝だった。
 青い空気が部屋を満たして、何かいつもと違う、冷たいものがまじっているように思えた。
 私は起き上がってからしばらく膝を抱えて天井を見ていた。てらてら光るブラインドが陽射しを反射して、天井には光の模様を作っていた。それを眺めていた ら、写真でしか見たことのない南の明るい海の、遠浅の底に沈んでいるような気分になった。
 明るいのに、どこまでも時の止まったような感じ。
 ずっと昔はサンゴや魚の骨だったカケラでできた真っ白な砂地を背に、冷たく浅い水底から青空を見上げているような、他にはどんな生き物もこの世に息づい てないような静謐。
 だから、私は空気に遠慮するみたいにものすごくそっとベッドから降りた。フローリングの床は裸の足裏にひんやりと冷たく、その感触に私はなんだかひどく 憂鬱になった。八月も終わりとはいえ、温暖化とヒートアイランド現象の進んだ現代、まだまだ残暑が厳くて昨夜はエアコンの設定温度を一度低くさせてもらっ て休んでいた。そのことを、ちょっと後悔する。
 なんでこんな時間に目が覚めたのかしらと思いながら着替えをすませた。
 やっぱり、今日のことでだいぶ緊張しているのだろうか。
 その日の午後には神乃木さんが美柳ちなみと会う予定になっていた。そのために、私は前日から彼の部屋に泊まり込みを覚悟で最後の詰めをしていたのだ。
 何を聞くか、どう追い詰めるか、レコーダの準備、彼女に突きつけられるような書類の最終確認。尾並田さんの裁判から半年あまり経って、ようやく、ここま で来た。長い道のりだったと思う。私一人ではとてもじゃないけれど歩き通せなかった。神乃木さんが傍にいてくれたから何とかここまで来られたのだ。
 その彼は、自分の寝室を私に明け渡してリビングのソファで眠っているはずだった。
 私はリビングに続くドアノブに手を掛けた。くすんだ金色のノブの傍には同じ色の鍵があるけれど、鍵は掛かっていない。
 尾並田さんの事件のためにセンパイの部屋で話をするようになって、電車のなくなる時間まで検討を続けた挙げ句泊めてもらうはめになったことは一度ならず ある。その度に、神乃木さんはまるで他の選択肢があり得ないみたいに当たり前に、寝室を私に明け渡して自分はリビングのソファで休んでいた。
 彼曰く、"オトコってやつは客をソファーで寝かせたりはしねえもんだ"。
 そういう問題じゃないんだけど、という私の異議は暗黙の内に封じられた。
 そして、私はささやかな抵抗として、この部屋の鍵を一度も掛けたことがない。あらゆるイミで必要のないものだった。
 そのドアを、私はやっぱりそっと開けた。
 朝はいつもセンパイの方が早起きだった。やや低血圧で朝にあんまり強くない私が事務所に行くために仕方なく七時頃に目覚めると、センパイはすでに身支度 を整えてソファでくつろぎ、新聞に目を通しながらコーヒーを飲んでいた。彼の、そのスキのない、でも落ち着いて嫌味じゃない姿が私は好きだった。四つ年上 で実力派な彼の安定感は、行き詰まっていた私を支えた。彼といると力が出た。頭を抱えても泣きそうになっても、地に足をつけて顔を上げて行こうという気に なった。
 けれど、その朝は違った。
 その朝は、部屋も外も水を打ったみたいにしんとしていた。リビングは寝室よりもっとひっそりしていた。ドアを開けたとたんそんな静けさがどっと押し寄せ てきて、私は一瞬窒息しそうになる。リビングとベランダを隔てる南向きの大きなガラス戸にもやっぱり青いブラインドがかかっているせいで、15帖のリビン グすべてが寝室よりまだ暗く、青ざめた空気に染まっていた。窓際に置かれた大きな観葉植物のグリーンまで青くて、生き物じゃないみたいに見えた。
 私は足音を殺してソファに近づいた。
 広い部屋の中央に置かれた大きなソファを覗き込むと、神乃木さんは薄暗い中で、息をしてないみたいな静かな顔で眠っていた。彼が横になっていたのは確か に大きなソファではあったけれど、長身の神乃木さんにはやっぱり窮屈そうで、それを見て私の胸は甘く痛んだ。彼はいつものスラックスにシャツのボタンをい くつか外しただけの姿で、ネクタイとベストはソファに掛けられている。せめてこのくらいはお腹に掛けて下さいと私が彼に押しつけたタオルケットを彼の体に そっとかけ直した。
 足音を立てないようにセンパイの脇を通って洗面所で顔を洗った。
 戻ってきても、センパイはまだ眠ったままだった。時計の秒針が時を刻む音だけがハッキリ聞こえて、よけいに静かで仕方ない。
 いつもはセンパイが淹れてくれるモーニングコーヒーを、その日は私が二人分用意してリビングに戻った。
「センパイ?」
 ガラステーブルに二つのマグカップを置いて彼に呼びかけた。
 コーヒーの香りがすれば絶対に目を覚ますだろうという根拠のない確信があったのに、センパイは相も変わらず静かに目を閉じて微動だにしない。
 私はソファの脇のフローリングに直に座って彼を見つめた。少しヒゲの伸びた顎。意外と小さな目。濃いけれど長くはない睫毛。びっくりするくらい形のいい 鼻筋。薄い唇。寝顔はおろか、こんなにしっかり神乃木さんの顔自体見たことはなかったと気づく。
「センパイ、朝ですよ」
 私は控え目に呼びかけた。チッチッと時を刻む秒針の音が、心細さをつのらせた。目が覚めてからずっと感じていたものが、いっそうハッキリしたようだっ た。背中にイヤな気配が貼りついている。部屋を染める濃く深い青を凝縮したようなものが、冷たくのしかかってくる。
「センパイ」
 呼びかけるけれど、彼にはやっぱり起きる気配がなかった。
 だんだん私は怖くなって、シャツの緩んだ彼の胸の辺りを見た。彼の胸は規則的に上下していたが、それを見てもどういうわけか、私の不安は少しも安まらな かった。むしろもっとひどくなった。
 青い影が彼の顔を覆っていた。
「センパイ、朝です」
 声をハッキリ出した。
 別に、彼の身に異常が起きて倒れているわけじゃないことはわかっていた。センパイが寝ているだけなのは知っていた。そして、死の気配もなかった。伊達に 綾里の血を引いているわけではないのだ。彼のそばに死の気配があれば、私はきっと見極める。だからそれは正体の見えない、わけのわからない不安で、私は怖 くてたまらなかった。
「起きて下さい」
 ほとんど悲鳴みたいにそう言った。がまんができなくなって、神乃木さんの肩をつかんで揺さぶる。それこそ夜中に起きてしまった子どもが母親を起こそうと するみたいに必死で。
「神乃木さん、起きて」
 それと同時に、耳元でクッと笑い声が聞こえた。
「ヤレヤレ……アンタはもう少し人を起こす方法ってやつを覚えた方がよさそうだな」
 私は彼を見た。神乃木さんはもうしっかり目を開けていて、ニヤニヤ笑っていた。
「コネコちゃんどころか、タダッ子みたいだったぜ」
 そのセリフに私は目を点にした。彼がしばらく前から起きていたのだと気づいた。寝たふりをして、私の起こし方を観察していたのだと。
 咄嗟に口のきけない私をよそに、彼は起き上がるとまず当然のようにテーブルのマグカップに手を伸ばす。ソファとテーブルの間にいた私の目の前に、センパ イの肩が迫った。すぐ耳元で、咽が鳴る音がする。
「……まあ、コーヒーを淹れてきたってのは上出来だ──味も、悪くねえ」
 センパイが少し感心したみたいに言った。
 黙りこくる私の咽の辺りには、いつから起きていたんですか、たぬき寝入りしてたんですね、からかわないでください、そんな言葉が殺到していた。けれど、 むかっ腹を立てた言葉はどれも声にはならないままで、
 気がつくと、私は神乃木さんの肩に自分の頭を乗せていた。


 

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