死より静かな青
   彼の無言の驚きが触れた部分から伝わってきた。私も、私の行動に自分で驚いていた。それでも私の体は彼の驚きにも私の驚きにもお構いなしで、私は彼の背 中に腕を回して力一杯しがみついた。それまで、そんな風に彼に触れたことはなかった。
 私はただ黙ってじっとしていた。
 だいぶん経ったように思った頃、カップがテーブルに置かれる音がした。
「……どうした?」
 そう尋ねた神乃木さんの声は優しかった。
 私の胸の中でも頭の中でも、いろんな思考や気持ちがぐるぐるして、しかもどれも形にはならなかった。私は黙ったまま彼の背中に回した手にいっそう力を込 めた。彼のてのひらを背中に感じた。子どもをあやすように、背中をぽんぽんと叩かれた。
 そうして私の中ですべての気持ちが一巡したとき、私の口からこぼれたのは思いも寄らない言葉だった。
「今日、やっぱり私が行きます」
「ダメだ」
 彼は答えた。びっくりするくらいの即答だった。返事の内容よりそのスピードに驚いて私は顔を上げる。彼の両肩に手を置いて距離を取り、私は尋ねた。
「ど、どうしてですか?」
「そのハナシはもうさんざんしたはずだぜ?」
 答える彼はその時、めんどくさそうにすら見えた。そのくらい、この件に関しては譲る気がない、もうこの話をする気すらないという、かたくなな気配があっ た。
「だから、どうして?」
 私は同じセリフを繰り返した。
「ここ何日も言ってきたはずだぜ。オレが行くのがベストだってな」
「でも、そんなの、おかしいでしょう? 尾並田さんの弁護人だったのは私なんですよ」
「オレたちには決定的な証拠がねえ。なんとしてもあのカワイコちゃんにボロを出してもらわなきゃならねえのさ。アンタには荷が重すぎるってモンだぜ」
「だったら、せめて私もいっしょに行きます」
「ダメだ」
 また、即答だった。
 思えば美柳ちなみと接触すると決まったときからずっと、この件に関しては彼がそんな様子だったことに、私は急に気がついた。頑として、決して譲ろうとし ない印象。
 彼の肩に突いた手から腕へ、暗い不安が駆け上った。
 もしかしたら、今朝になって私が感じた不安の正体を彼が知ってるのではないかという気がした。もっと前から、彼はこの気配に気づいていたのではないか ──。
「どうして、ですか」
 同じセリフで私は食い下がった。
「どうしても、だ。わかってるだろ? アンタとあのカワイコちゃんの間には色々ありすぎるんだよ」
「でも……!」
「これはもう決めたことだ。今さら"でも"はナシだぜ」
 彼は、それからちょっと笑って私の頭をぽんぽんと撫でた。
「アンタは事務所でオルスバンしてるんだ。イイ子でいれば、土産を持ってきてやるさ」
 彼の笑顔に私はどうしようもなく悲しい気持ちになって、また、彼に抱きついた。何か大きな恐ろしいものから彼を守るみたいに、すがりついて引き留めよう とするみたいに。
「いい知らせ、待ってますから」
 祈るような気持ちでそう言った。
 彼の腕がそっと私の背中に回された。顔を少しだけ上げて、彼の方を向くと、至近に彼の顔があった。吐息さえ感じられる距離。
 そのまましばらく見つめ合った。
 やがて、彼はふっとあきらめるような笑顔になった。私を抱き寄せるようにしていた腕が離れる。
「コーヒー飲みながらしばらく待ってな。お寝坊なコネコちゃんが珍しく早く起きたからな、うまいモーニングセットを出すカフェーに連れて行ってやる」
 彼はそう言うと、私が返事をするより早く立ち上がり、バスルームに消えてしまった。
 広いリビングにぽつんと残された私は、しばらくしてから立ち上がってベランダに続くガラス戸に向かった。きっちり閉ざされていたブラインドを引き上げ て、戸を開ける。
 真っ白な朝の光と熱く灼けた空気。目眩がするくらい濃く青い空が広がっていた。まぶしい朝。陽の光を受けた窓際の鉢植えが、息を吹き返したように緑の 葉っぱをきらきらと輝かせた。
 部屋に満ちていた青い影を祓うみたいに、彼と出かけるまで窓を開けっ放しにしていたことを良く覚えている。
 

 事務所に出勤して昼になる頃には、あのイヤな気配、不吉な影はもう感じられなくなっていた。それでもまだ少し心配だったので、事務所の遅い昼休み、外に 出て携帯から電話をした。
「チヒロか?」
 といつものようにセンパイが出た。私はほっとして、
「午前の公判、勝ったそうですね」
 と言った。一時間ほど前に星影先生のもとへそういう連絡が来ていた。
 私の後ろでは昼休みのオフィス街の喧噪が響き渡っていた。道を車やトラックが地響きを立てながらいくつも行きすぎ、その度にむっと熱い風に包まれた。
「なんだ、いま外にいるのかい?」
 彼が聞いた。
「ええ、うるさいでしょう」
「裁判所の前にいるんじゃねえだろうな」
「事務所の前よ」
「それならいい。昼飯はもう食ったのかい?」
「いいえ、まだ。これから食べます」
 食べる気になれなくて、とは言わなかった。
「昼は軽くしておけよ。夜はどこかで豪勢に行くぜ」
「楽しみにしています」
 私は笑って言った。
 その時、私のそばにはもうあの悪い影はなかった。街の喧噪と、活気と、夏を惜しんで楽しんでるみたいなにぎわいだけに包まれていた。陽射しが濃く、アス ファルトが白く灼けて見えた。見上げると、光を透かす街路樹の葉と、はるか高みにどこまでも青い空があった。
「じゃあ、またな」
「ええ、またあとで」
 と、電話を切って。
 それが、最後になった。
 
 
 

 あのとき、きっと彼のそばにはまだあの青い気配があったのだろう。
 あれから四年経った今も思う。
 あの日、どうして彼を止められなかったのか。
 そして、あの日、本当は何が起きるはずだったのか。
 もし彼を止めていたらどうなったろう、とは考えたことがない。私は彼を止めたのだ。正体はわからなくても、不吉な予感はあんなにハッキリ存在していた。 私はそれを肌身で感じていた。だから、あの日の私は、あの頃の私に出来たかなりのことをして、彼を止めようとしたのだと思う。
 それでも止められなかった。
 たとえ何度、あの朝に帰っても、私には彼を止めることはできない気さえする。コーヒーは飲まないでくださいね、毒が入っていますから。そんな風に言うこ とは出来ても、彼が美柳ちなみに会いに行くこと自体を止めることはできない。あきらめより深く、あの頃の私にはどれほどすべてを尽くしても、ベストを尽く しても、本当に不可能だったという何かを感じるのだ。
 じゃあ、これは運命のようなものだったのだろうか。
 そう考えても、いつもピンと来なかった。
 あの日、本当は何が起きるはずだった?
 毒は初めから盛られるはずだった?
 盛られた毒を飲むのは、誰のはずだった?
 その誰かは、どうなるはずだった?
 彼が毒を飲むのはやはり運命みたいなもので、だから、私はその大きすぎる相手に抗い切れなかったのだろうか。それとも本当は別の何かが起きるはずだった のに、彼がその意志の力で、ほんの少し起こるべきコトをずらしたのだろうか。
 どちらにしても、敗北を、私は感じる。運命に負けたのか、彼に負けたのか、どちらにしてもあの青い気配から逃れることは出来なかった。
 それにしても──と私は思う。
 久しぶりに、こんなにハッキリあの感覚、不吉な気配を思い出した。まるで実際に私のそばに今あるみたいだった。
 やっぱり時期が時期だからかしらね、と思う。
 八月の終わり。でも、まだまだ暑い、よく晴れた朝。神乃木さんが毒を飲んだのと同じ日付。
「今日、神乃木さんに会いに行くけれど、あなた、彼に何か伝えることがある?」
 世話をする人がいなくなって私のところへ連れてきたチャーリーに水をやりながら聞いた。
 返事をしない緑の葉っぱと、ジョウロから出る水が虹色にきらきら光るのを見ながら、私はその青い気配をいつまでも感じていた。

 

ウインドウを閉じる