終われぬ日々
 

 神乃木は千尋の横の席に改めて腰を落ち着ける。
 まず神乃木は車のトランクに詰められた遺体の写真を取り上げる。人がトランクに入っているのはずいぶんと奇妙な眺めのはずだか、ずいぶん馴れてしまったせいか、そろそろ違和感を感じなくなりつつある。
「コイツを見る限り、美柳勇希が死後引きずられた様子はねえな」
「ええ。背中の様子はちょっとわかりませんけど、腿からふくらはぎにかけても泥が付いている様子はありません。髪も同じですから、上半身下半身、どちらも大きく地面についていたとは思えません」
 今日一日ずっと考えていたからだろう。千尋は立て板に水を流すようにすらすらと答えた。神乃木は頷く。
「加えて、被害者が刺されたのは背中からだ。まず倒れるとしたら前に倒れるものだが──」
「体の前面は、汚れていませんね。つまりこの被害者は、地面に倒れ込んでいない……」
 神乃木は軽く額に指をあてた。
「外で犯行が行われていれば、な」
「え?」
「一度アタマの中を白紙に戻すぜ。最初っから何か決めつけて掛かると、大きなエモノを見逃しちまう」
 共犯者の存在にも今の今まで気づかなかったみてえにな。神乃木は笑う。
 千尋は慌てたように頷いた。
「そう……ですね。橋の上で犯行が行われたなんて、決めてかかっちゃダメですね」
「美柳勇希の血痕が、どこかに残ってたって報告はあったか?」
「いいえ。そういう報告はありません」
「どこにも、まったく無しか?」
「少なくとも警察の報告では、そうです。彼女は厚手のコートを着ていた上に背中にはナイフが刺さったままでしたから出血は抑えられたはずです」
「だが、被害者の車にしろシマシマの車にしろ、車内で犯行が行われたなら、いくらなんでも少しは痕跡が残るはずだ」
「じゃあ、被害者が殺されたのはやっぱり、外」
「よっぽど鑑識が無能でない限りはな。当時の現場は雨だ。外なら、少量の血が残っていたとしても流された。まあ、橋の上ほどシマシマの車から離れた場所で殺されたとは限らねえが」
「どちらにしても、被害者は刺されたあと、地面には倒れ込んでいないってことになりますね」
「この写真を見る限り、そう考えるのが妥当だな」
「美柳勇希を背中から刺して、彼女が前方に倒れる前にその身体を支えるのは、美柳ちなみの体格だと無理がありますね」
 神乃木は、資料の中から解剖記録を取り上げた。
「加えてこれだ」
「解剖記録がまだ何か?」
「被害者の死因は失血死であって即死じゃねえ。多少は逃げようと暴れるなりなんなりしたはずだ。手負いとはいえ警官でもあった美柳勇希を押さえて、その上、大人しくなった後、持ち上げてトランクに遺体を隠す。あのオンナくらいの体格じゃあ、二人いても難しいかもしれねえな」
 共犯者とはいいセンに気がついたと改めて神乃木は思う。同時にこれまで気づかなかったとは、ひどい盲点でもあった。
 だが、神乃木は反論も同時に組み立てる。思いつきの反論だが、それに打ち破られる程度なら、とても法廷では戦えない。
「共犯者がいるとすれば、いちばん怪しいのは尾並田美散だ。あのシマシマのガタイなら少しも難しいことじゃねえ。それに、ヤツには美柳ちなみに協力する理由もある」
「あり得ません」
 キッパリと綾里千尋は言い切った。昼間のぼうっとした面立ちとは裏腹に、神乃木を見つめる目は鋭いほどにハッキリしていた。依頼人の無実を信じ切ったその眼差しに神乃木は小気味よい痺れが背を走るのを感じる。
 彼は思わず口元をゆるめた。
「根拠はあるのかい?」
「尾並田さんはあの裁判の途中まで、美柳ちなみが生きていることを知りませんでした。尾並田さんが"無久井里子"に協力する理由はありません」
「確かに、シマシマの様子はそう見えた。だがそれはあくまでオレたちの印象だ。ヤッコさんが一流の役者じゃなかったって証拠はねえぜ」
 証拠の一言に綾里千尋は神乃木から顔を逸らすと、うつむいて唇を噛んだ。
 証拠がないことの意味は弁護士たるもの、一度や二度は痛感することがあるが、綾里千尋の経験は超弩級だ。誰の目からしても、あの法廷の流れで事件の真犯人が美柳ちなみであることは明らかだった。ただひとつ足りなかったのが証拠……または証拠となる証言だ。その証言が出来るただ一人は、千尋の目の前で永久に自らの口を塞いだ。
 神乃木荘龍はわずかに目を細める。
 綾里千尋が、はっと顔を上げた。
「共犯が尾並田さんなら、トランクをこじ開ける必要はありません」
 正面を見つめた千尋は、そう言ってから神乃木を見た。
「そうでしょう? 命を賭けて美柳ちなみをかばった尾並田さんです。もし彼女の犯行に手を貸したなら、初めから自分の犯行に見えるようにすればいいんです。わざわざ尾並田美散以外の仕業だと思わせる証拠を、それもトランクをこじ開けるなんて面倒くさいことまでして残す必要はありません。ムジュンしています」
 千尋はそう言って例の遺体発見時の写真を指し示した。
 神乃木は、軽く目を瞠る。
「……これって、証拠になりませんか?」
 千尋はまた少し顔をうつむけて、上目遣いに神乃木の顔を伺いながらそう言う。
 神乃木はにやりと笑った。
「そう言うときはなァ、チヒロ。堂々と顔を上げてるモンだぜ。ミジメな時でも顔を上げるのがオトコってモンだ。正しいことを言ってる時に頭を上げないでどうする?」
「正しいことって……じゃあ」
「結論が出たな。『美柳ちなみの共犯者』──考えてみる価値は、充分にあるだろうぜ」
 神乃木荘龍は笑う。これは突破口だ。共犯者を見つけられれば、尾並田美散の時と同じ過ちを繰り返さない限り、美柳ちなみの犯行を証言させられるだろう。そして、もう二度とあんな失敗はしない。綾里千尋に二度もあんな思いはさせるつもりは、神乃木にはない。

 そうなると、問題となるのはその共犯者にたどり着く方法だ。
 考えられる手段は、法的な手続きを取って警察を動かすか、それとも自分たちであぶり出すか。おそらく後者になるだろうと神乃木は予測した。
 綾里千尋の担当したあの事件は、あらゆる意味で重大な事件だった。死刑囚の脱獄、その後の殺人、さらに法廷での被告の自殺。社会的な注目度も絶大で、一週間ほどはワイドショーや各種ニュース番組をにぎわせたものだ。メディアからの非難の嵐は弁護側ばかりでなく、警察にも裁判所にも吹き荒れた。だからこそ、警察にとっても検察にとっても裁判所にとっても、あれは無かったことにしたい事件だろう。現に、判決は下っていないままなのに、世間から忘れられつつあるのをいいことにして事件はうやむやにされている。
 その状況で警察と検察を動かすには、「共犯者がいるかもしれない」程度ではどうしようもない。共犯者の氏名を明らかにした上で、具体的な証拠か自白のひとつもつきつけなくては聞き流されるのが目に見えている。
「あっちのコネコちゃんの共犯者、せめてどこのどいつかくらいのことはオレたちで調べ上げる必要があるな」
 神乃木は新たなコーヒーを口にした。まだ熱いそれは酸味より苦みの方が引き立っている。神乃木も同じくらい苦い気分だった。事件発生から二ヶ月だ。怪しい人物がいなかったか周辺で聴いて回るにしても、人の記憶はとうに風化しているだろう。
 神乃木は返事をしない千尋に目を向けた。そうして、我に返る。
 千尋の手が胸元の勾玉を握り込んでいた。伏せ気味の視線は焦点を失って、どこか遙か遠くを見ているようだ。昼の彼女と同じ姿だった。
「チヒロ?」
 呼びかけると、意外としっかりした視線が向けられた。だが、彼女は口元を堅く引き結んだままで何も言わない。手は勾玉を握ったままだった。
「……その、和風のアクセサリー。今日はずいぶん気にしてるな。お守りか何かなのかい?」
「お守りでも、ありますね」
 千尋は少しだけ微笑んだ。表情はすぐに消えたが。
「今日……本当は、考えていたんじゃなくて、迷っていたんです」
「迷う?」
 何を、と聞き返そうとして、神乃木は冷たいものが胃の腑へ滑り落ちるのを感じた。
「まさか、弁護士を続けるか辞めるか、なんて言うんじゃねえだろうな」
 軽口を装ったが、動揺する自分でもわかるほど口調は堅い。
 綾里千尋は驚いたように目を瞠って、開いた手を上げた。勾玉から離した手だった。
「あ、いえ。そうじゃなくて……」
 そこで、彼女は言葉を切った。手が膝の上に落ちる。
「いえ……ある意味、そうだったかも」
「ある意味?」
 綾里千尋は困ったように笑うと、再び目を上げた。
「昨夜、美柳ちなみには共犯者がいたかもしれないって思い付いて、本当にそんな人間がいるのかなとか、いるならそれはダレで、どうやって見つければいいのか、考えてました」
「ああ」
「最初に思いついたのは目撃者探しです。でも、もう事件から二ヶ月経っていますし、誰も覚えていないかもしれない。そもそも共犯者が目撃されているかどうかもわからない」
「やってもみない内から諦めることもねえだろうよ」
「センパイにはそう言われると思いました」
 千尋は笑った。
「それで、考えたんです。共犯者の姿を見ている可能性がいちばん高くて、しかもその姿を忘れないのは誰か」
 神乃木は一瞬で二人の名前を思い浮かべた。だが、どちらも話を聞き出せる相手ではない。一人は主犯の美柳ちなみだ。そして、もう一人は……
「美柳勇希」
 真剣な面差しで千尋は言った。
「彼女なら、共犯者の顔を見ている可能性は高いはずです。見ていれば絶対に忘れません」
 神乃木はクッと咽を震わせた。
「おい、待ちなコネコちゃん。たしかに美柳勇希なら共犯者を見てるかもしれねえが、相手は死者、だぜ。死人に口なしってやつさ」
「センパイ」
 千尋が彼の言葉をさえぎった。
「倉院流霊媒道って、ご存じですか?」
 瞳に不思議な光をたたえて、綾里千尋は、尋ねた。


 

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