Just Time Finale 仮面が上げた爆音がやむと、法廷は静けさを取り戻した。 マスクは機能を停止していた。目の前には闇が広がっている。 それは、今の彼に見ることのできる、世界の本来の姿だった。 けれど目前に広がる闇とは裏腹に、意識が晴れるのを彼は感じた。 それはちょうど濁ったカフェ・オレを飲み干して新たなカップに澄んだブレンドを注いだ時のようだ。澄み、透った闇を見る。 おそらく沈黙に換算すれば一瞬。その間に、彼は驚くほどたくさんのことを思った。 『カップに湛えられた闇に心惹かれる』。 そんなことを言いながら、目の前に広がる現実という名のこの闇からは目を背けてきた。 意識を取り戻してから初めてそのことに気づく。 何も見えない目。それこそが現在の真だと。 そういうことをひとつずつ認める。 彼は決して長くはない間の中で、この一年の間に出してきた結論とはまったく違う答えをいくつも導き出した。 そして、いま出した答えの方がずっと正しいと、彼は思う。 冬。 彼が意識を取り戻したのも、大別するなら今と同じ季節だった。 今この法廷の中に冬の気配はない。当然ながら空調が文句のつけようのない温度を保っている。 もっとも、彼の認識においては保っているはずだ、と言うほうが正しい。障害を負った彼の神経はすでに正確な温度を感知できなくなっている。 だが今は確かに冬だ。二月の上旬。春の訪れを感じるには遠くとも、冬の終わりをそろそろ予感する頃。 神乃木荘龍の時間が一時停止したのは、夏の終わりだった。今とは真逆の季節。時間だろうがなんだろうが、凍結させるには暑すぎる一日だったろうにと、彼 は思う。 それから五年。凍り付いた小川が緩み流れ出すように、彼の時間が再び動き出したのは、冬の始めだった。意識だろうがなんだろうが、解凍されるには寒すぎ る晴れた朝だった。 目覚めた世界に名をつけるならば、そこは地獄。 その世界には彼女がいなかった。 綾里千尋は死んでいた。 それでも今し方、彼は弁護人席に立つ男に、彼女の影を見た。 彼女の意志と魂は、たしかに今も残されていたのだ。 だが、それはゴドーの中には無いものだったろう。 彼女の意志すら自分は失っていたのだと、彼は知る。あったのは空転した彼自身の想いばかりだった。 『そばにいたのは』。 そんなセリフを、成歩堂龍一に対して彼は何度口にしたろうか。 『そばにいたのは、アンタだけだった』。 それは幾度も繰り返されたセリフだ。 自分が本当は何にこだわっていたかを示すこれほどの証拠もないと、彼は思う。 そばにいたのは、 そばにいたのは、 そばにいたのは、 『そばにいたのは』。 ──彼は、そばにいられなかった。 マトモに戻った頭で考えれば、こんなにわかりやすい話もない。 彼は悔やんでいたのだ。ユルせなかったのは肝心な時にそばにいてやれなかった彼自身に他ならない。 そばにいてやるべきだった。 守ってやるべきだった。 にもかかわらず彼にはそれが出来ず、神乃木荘龍はただ何も知らずに安穏と眠っていただけだった。 それは結果として、綾里千尋を他でもない彼が死なせたのだという事実に行き着く。 彼は静かに目を閉じた。 五年の間に失われたものが見えないはずの目に浮かぶ。 止まってしまった彼の時間と、止まらなかった他のすべて。 愛した女。尊敬すべき最高の弁護士になった後輩。 五年という時間そのもの。 やり残した事件。 復讐の相手。 すべてが、止まってしまった彼を置き去りにした。彼が時間の流れを取り戻したあの冬には背中を捉えることもできないほど速く、駆け抜けてしまった後だっ た。意識を取り戻してからの一年間、彼の時間は堰を切ったように流れたが、それでも追いつきようもないほど速く、遠く。 終わってしまっていた。 彼が目覚めたときには、すべて、 なにひとつ彼が すべては彼女か、彼女の魂を引き継いだ男が終わらせていた。 それでは、彼は泣けない。 彼が終えるためのものすら、目覚めた彼にはひとつも残されていなかった。 彼女の死に涙することも許されない。 哀れなほどにカラッポだった。 それが一年前の冬。 あれから一年。 何を望んできたのだろう。 その答えを、彼は知っていた。 閉じていた目をゆっくりと開く。 仮面の内部でモータがうなった。ブン、という低い響きと共に視界が回復する。 やっと、すべて見えるようになった。 ザッと木のこすれる音がする。 耳に馴染んだ響きは、陶器の底が天板の上を滑る音だった。手元に送られてきた新たなカップを彼は受け止める。静寂は決して長くない間だったろうが、それ は久しぶりに法廷に甦った音に思われた。 彼はいつものように香りを楽しむ。 コクよりもキレのあるアロマは、目覚めの一杯にふさわしい。 今、自分はようやく目覚めたと、彼は感じる。 長い悪夢だったと言うには彼の引き起こした出来事はあまりに取り返しのつかないものだったが、この瞬間に限れば、気分は悪くなかった。 彼女のまなざしを感じるからかも知れない。霊媒された姿はなくとも、その魂を、意識を取り戻してから初めて間近に感じている。 これから自分はこのハッキリした意識で、犯した罪の大きさと向き合わなくてはならないのだろう。そして、その罪以上に彼女を死なせたことを重く感じる救 いがたさに向き合っていかなくてはいけないのだろう。 それでも意外なほど、目覚めて良かったと思えた。 そうして、コーヒーを味わう彼を誰も止めようとはしない。近寄ってマスクを外そうとする者などもちろんいないし、マスクを外してくださいという声さえ掛 からない。 それは彼の完敗の程を物語っていた。誰も改めて彼の傷を確かめることを必要としていないのだ。 確かめるまでもなく、法廷にいるすべての人間が≪真実≫を見た。 最高の法廷……だぜ。 そんな言葉で締めくくり彼は思考を遂げる。 唇の端を上げた。 誰も、何も言わない。 誰もが彼の言葉を待っている。 この事件は彼の告白で幕が引かれる。 そして、すべてを語り終えたなら。 その時には、 泣いてもいいと、思えるだろう。 彼は最後の告白を始める。 |