触法、あるいは触法未満。
 

 御剣検事はヨーロッパへ研修に、狩魔検事はアメリカへ裁判に。
 『おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に』とでもいうような口調でそう言って、寂しくなるねぇと呟いたのは綾里真宵だった。
 ちょうど桜の見頃が近づいた頃の話だ。検事二人が出発する日取りがハッキリした。
 その二人が再び本格的に日本を離れることは、初めから決まっていたことだった。
 どちらかと言えば多忙な二人がそれぞれのやるべき事がある国を離れている現状こそが異常だったろう。その異常を表すように御剣怜侍は研修先との連絡を真夜中でも頻繁に行わなくてはいけなかったし、狩魔冥に至ってはすべての手続きを終了するまでの間にも、アメリカ〜日本間を幾度往復したかわからない。
 それがようやく正常に戻るわけだった。
 だから、また一時の別れが訪れるのは当然のことで仕方のないことではあったけれど、見送る側とすればやはり少し寂しい。それがひどく世話になった相手とあればなおさらだ。
 そういうわけで成歩堂や真宵が、くだんの検事ズや、矢張政志、イトノコ刑事たちも誘ってお花見に行こうなどと思い付いたのは、ごくごく自然なことだった。
 

「ひょうたん湖公園で花見をやろうと思うんだけど、おまえも来ないか?」
 御剣怜侍の仕事場である検事局012号室を訪れて控えめにそう切り出した成歩堂に対して、一拍の間を置いてから返ってきた答えは意外なほどあっさりしたものだった。
「別に構わないが」
 オフィスと言うよりは接客もできる書斎の趣ただようその部屋で、応接セットのテーブル越しにいつも通りほとんど表情を変えず御剣は言う。その淡々とした姿は相手があの御剣怜侍とわかっていても人の話をちゃんと聞いて出した結論なのかと微妙に聞き返したくなるものだった。
「ひょうたん湖公園なんだけど」
 成歩堂は一応、そう言って念を押した。
「構わないと言っている」
 御剣怜侍は頭のいい男だ。古くからの友人が何を気にしているのか察したらしく、かすかに笑みを浮かべて言った。
「そんなことを気にしていては、私は裁判所にも近づけないだろうな」
「ああ……そうか。そうなるかな」
 成歩堂は困惑気味に笑って頷いた。思えば御剣怜侍には被害者だの容疑者だのという形で関わった事件が存外多い。
「花見っていうんでついひょうたん湖に決めちゃったんだけど、後になってからしまったと思ってさ。お前と狩魔検事へのお礼のつもりだったのに……」
「礼なら十分だと言ったと思うが」
「今度は送別会だからね、やっぱりお前と狩魔検事が主役だよ」
「ふむ。……そう言われては仕方がないか」
 きまじめに頷いた御剣は、ふと何か思い付いたように遠い目をした。
「メイも誘うのか」
「まあね。世話になったし」
「……彼女は花見などしたことがなかったかもしれんな」
「え?」
 唐突な友人のセリフに思わず聞き返してから、成歩堂も思い直して納得した。
 狩魔という特殊な家に生を受けた瞬間から英才教育を施されてきたという狩魔冥は、いったん法廷の外へ出てしまうと綾里春美並の世間知らずではないか、という認識を成歩堂は先日の事件の際に得ていた。アメリカで育ったとあれば日本の花見なんて本当に知らないかもしれない。
「真宵ちゃん、うまく誘えてるといいんだけど……」
 狩魔検事の元に向かわせた恩人の妹を思って成歩堂は呟いた。断られることはない気がするが、何か大きな誤解が生じるのではないかとやや心配だ。せめて日本文化としての「花見」を知識としてだけでも狩魔冥が知っていてくれればいいが。
「メイのところには真宵くんが行っているのか?」
「ああ。真宵ちゃん相手なら、狩魔検事も僕相手と違ってそうそうムチは振るえないだろうからね」
「せっかく彼女も腕を磨いたんだ。腕をふるわせてやってくれ」
「真顔で言うな!」
 それでなくても花見では何発か食らう覚悟をしてるのに、とイヤな予測を思い出してなるほどうは頭を抱えた。その割に狩魔冥のムチ打ちターゲット筆頭である糸鋸圭介も巻き込もうとしている己の残酷さに、彼は気づいていなかった。
「まあ、メイに同年代の友人が出来るのはいいことだ」
 御剣が微笑して言った。
 その意見には成歩堂も苦笑気味に賛成する。彼女には同年代の友人なんてとてもいなさそうだ。同年代はおろか年代を広く広くしても友人と呼べる人間が幾人いるのか人ごとながら心配になる。
 が、狩魔冥について自然にこうしたことを言う御剣に、成歩堂はわずかながら不思議を覚えないでもなかった。
 彼らの関係の中には、『殺人事件の加害者の娘と被害者の息子』という一節は存在していないのだろうか。一方は敬愛した父を殺され、一方は敬愛した父を殺人犯として裁かれた。そのことを成歩堂は忘れそうになる。むしろ彼らを直に見ていると覚えていられない。
「最近、真宵くんはどうしている?」
 興味深げに自分を見る成歩堂の目には気づかない様子で、御剣が尋ねた。
 ああ、と成歩堂も我に返る。友人の問いかけはなかなか難しい質問だった。
「真宵ちゃんなら──、頑張ってる」
 "元気でいる"も"大丈夫"も何か違う感じがしてそう言った。それでも適当ではない気がして付け加える。
「前向きだよ」
「そうか」
 真宵の現在の様子はそれなりに、御剣に伝わったらしい。
 二人は、それからしばらく沈黙した。
 

「御剣」
「成歩堂」
 再び二人が口を開いたのは、ぴったり同時だった。
 一瞬、二人は押し黙る。
「「なんだ」よ」
 今度はほぼ完全にハモった。
 二人そろって顔をしかめる。
 また沈黙を挟み、次に口を開いたのは成歩堂ひとりだった。相手の口が動くのを見て、やっぱり同じく声を出そうとしていた御剣がすんでのところで押さえた結果だ。
「何かあるなら先に言ってくれよ」
「ム……」予想外の言葉だったのか、御剣は軽く口ごもった。一度、視線が泳ぐ。「キミにひとつ聞きたいことがあった」
「何を?」
「二月の葉桜院の事件だ。キミは一日目の公判が終わったあとにはもう、調査に参加していたな」
「ああ」
「あの時点で捜査陣は──神乃木荘龍を除いてだが──まだ天流斎エリスの正体をつかんでいなかった。だが、キミは翌日の法廷で彼女の正体を明らかにした」
 御剣怜侍は険しい視線を成歩堂に向けた。
「キミはあのときすでに被害者の正体を……あの綾里舞子だと、知っていたのではないか?」
 そのことか、と成歩堂はひとつため息をついた。
「初めから、知ってたワケじゃない」
「やはりそうか」
 ひときわ険しいまなざしを浴びて成歩堂は開いた手を挙げた。
「ちょ、ちょっと待った。話を聞いてくれ、御剣」それから、力無く手を下ろす。「……まあ、けっきょく言いワケなんだけど」
 弱々しい成歩堂の口調がむしろ効いたのか、御剣は言われたとおり黙った。一応、成歩堂に弁明の機会は与えられたようだ。そんな友人の顔色をちらちらとうかがいながら成歩堂は口を開いた。
「なんとなく……だけど、事件が起きた後すぐにエリス先生が舞子さんじゃないかっていう予感はあった。実を言えば、あの日の調査の途中でビキニさんから証言も得ていた。おまえに、被害者の身元について知っていることがあれば教えて欲しいと言われた時には、たしかにぼくはエリス先生の正体を知っていた」
 御剣は無言で目を細めた。その名にふさわしく剣のような鋭い視線が刺さってくる感触に成歩堂は汗をかく。それでもまだ御剣が無言を通しているところを見ると、一応言いワケを続行して聞いてくれる意志はあるようだった。
「エリス先生の正体はあの時点のぼくにとっては大きな武器だった。それに、本当を言えば真宵ちゃんのことが気がかりだったんだ」
 御剣が軽く眉間にしわを寄せる。
「真宵くん?」
「あのときは修験道側に本当の事件現場が見つかって、警察はあやめさんより真宵ちゃんを疑ってたろう? もしそんな状況でエリス先生の正体が自分のお母さんだって真宵ちゃんが知ったら……」
 成歩堂はそこで一度言葉を切る。
 両手の指を組み合わせて、懺悔するように視線を伏せた。
「真宵ちゃんは無実だって、そう言い切れるだけの証拠がそろうまで警察には黙っていたかったんだ」
 御剣は変わらず沈黙を守っていた。難しい顔をしてはいるが、目線の厳しさは和らいでいる。
「嘘をつくような真似してごめん」
「キミのしたことは褒められることではないが、私にも心情は理解できる」
 御剣怜侍はそれで、友人の嘘を水に流すことにしたようだった。
「──それで? キミの話はなんだ」
「え? ああ……」
 尋ねられて、成歩堂はばつの悪そうな顔をした。
「なんだか似たような話になっちゃったな」
「なに?」
「単刀直入に聞くけど。おまえは今でも倉院流霊媒道をインチキだと思ってるのか?」
 とたん、御剣の顔色が変わった。前髪の隙間から覗くこめかみに青筋が浮き上がるのを成歩堂は見た。
「当たり前だ。あのインチキ霊媒師を信じることなどできるものかッ」
 親友の怒声を浴びた成歩堂は心中で「うう……」と呻いた。もしかしたら今度の一件で考えを改めてくれたのではないかとこっそり期待していたのだが、甚だ甘かったらしい。
 仕方がないと、成歩堂は覚悟を決めた。
「御剣、本当はおまえもとっくにわかってるだろ? 倉院流霊媒道の力は本物だよ。インチキなんかじゃない」
 御剣のこめかみの青筋が太くなった。
「なぜそんなことがキサマに断言できる」
「真宵ちゃんが綾里の──倉院流の人間だって、おまえも知ってるからだよ。彼女や春美ちゃんが千尋さんを霊媒するところを、おまえだって何度も見てきたはずだ」
 御剣怜侍は憮然とした表情のまま押し黙った。
 ここでなんのことだとすっとぼけられたらどうしようと思っていた成歩堂は、少しばかりほっとする。
「舞子さんにしたってそうだ。葉桜院で彼女が殺されたのは美柳ちなみを霊媒したからだろう? それは法廷でも認められたことだもんな」
 御剣はしつこいくらいに沈黙を保っていた。表情は変わらず険しい。
 ただ、こめかみの青筋は消えていた。
 親友の葛藤を現すかのような長い長い沈黙を、成歩堂は耐えた。
 やがて、御剣怜侍は成歩堂から視線を逸らした。
「……たしかに、倉院流霊媒道の力は、認めてもいい……」
 呟かれた言葉に成歩堂は表情を輝かせた。
「だが」
 低い声と決然としたまなざしが、成歩堂を制するように射抜いた。

「17年前に綾里舞子が行った霊媒だけは絶対に、私は認めるわけに行かない」


 

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