触法、あるいは触法未満。
 

 絶対に。
 その響きの重さに成歩堂は目を見開いた。勢い、応接セットのテーブルに両手を突く。
「な、なんでだよ!」
「それは……」
 目線を逸らした御剣はしばらくして軽く腕を組んだ。彼はわずかにあごを上げ、目を閉ざす。
 人差し指が腕を三度叩いた。
「……そうだな、キミには話していいかもしれない」
「?」
 御剣が真正面に向き直った。
「17年前の12月に起きたDL6号事件の被害者の名は──もちろん知っているな?」
「御剣信。……おまえの、オヤジさんだ」
「私は父を尊敬していた。今は検事になった私が言うのもおかしく聞こえるかもしれないが、父は立派な弁護士だった。あの事件で失われたが……」
「ぼくも千尋さんの師匠だった大先生に少しだけ聞いたことがある。すばらしい弁護士だった、そうとしか言いようのない人物だったって」
「そうか……」
 御剣はかすかに微笑んだ。けれどその微笑もすぐに消える。
「被害者が御剣信である以上、綾里舞子が警察に要請されて霊媒したのも父ということになる」
「そりゃあまあ、そうだな」
「だが綾里舞子の口を借りて父が語ったとされる犯人の名前は──灰根高太郎だ。灰根は、少なくともDL6号事件の犯人ではなかった」
 成歩堂は黙って頷いた。
「もし、綾里舞子が17年前に霊媒したのが間違いなく御剣信だったとすれば……オヤジが真犯人ではない灰根の名を口にした、そのことが何を意味するかキミにわかるか?」
「ええと、それは……真犯人を見てなかったんじゃないかな」
 成歩堂は顎に指を添えて呟いた。
 DL6号事件が起きた際の状況を考えれば、それはけして無いことではない。極端に酸素濃度の低下したエレベータの中、被害者が撃たれた際に意識を保っていた保証はない。いや、たしか真犯人である狩魔豪も、そう証言していた気がする。
 彼が御剣信を撃った時には、御剣信は気絶していた──と。
 ならば思い付く結論はそれしかなかった。
「本当に、そう思うか」
 だが御剣は眉間にしわ寄せて尋ね返してきた。その声がわずかにふるえているのに気づいて、成歩堂は友人を見た。
「だって、そうとしか……」
「もし父が真犯人を見ていなかったなら、なぜ、綾里舞子が霊媒したという被害者は真犯人を名指しした?」
「え?」
「定かな記憶がないなら、見ていない・意識を失っていてわからないと言えばすんだはずだ。にもかかわらず灰根高太郎を犯人だと断言したのはなぜだ」
「それは……」
 適当な推理を口にしようとした成歩堂は、そこでぷつりと言葉を切った。
 ざあと血の引くような感触が頭を襲う。
 思わず息を飲み込んで御剣を見た。
「気づいたか、成歩堂」
「ま、まさか……」
「気づいたんだな」
 御剣怜侍はそれだけ呟くと、目をそらした。
 

 二年前に御剣怜侍が殺人事件の被告席に立たされた時、成歩堂龍一は奔走した。
 初めは御剣に掛けられた生倉雪夫殺害の疑いを晴らすため。
 後になってはDL6号事件は自らが起こしたと──父殺しの悪夢に懊悩する御剣を救うため。
 その中で幾人かが口にした言葉がある。
 "あの事件で行われた霊媒で事実に反する証言がなされたのは、被害者が息子をかばうためではなかったか"──?
 膝の上に置いた拳が自然ときつく握りしめられる。汗ばんでいるのに手が冷たい、と成歩堂は感じた。
 やがて御剣が重い口を開いた。
「綾里舞子が間違いなく御剣信を霊媒したと言うなら、」
 まるでその前置きだけが父の免罪符であるかのように御剣は言う。
「おそらく父は、私をかばって、灰根に殺人の罪を着せたのだ」
 御剣は息を吐き出して一度目を閉ざした。大きな告白に疲れ果てているように見えた。
 対する成歩堂は掛ける言葉を失った。
 法に携わる者なら誰にでもわかることだった。
 たとえ息子は犯人でないという確信があったのだとしても、確証なく灰根を真犯人だと断言したのならそれは、許されないことだ。まして息子にしろ狩魔豪にしろ、真犯人が別にいると知った(あるいは思い込んだ)上で灰根の名を挙げたのだとしたら──。
「そんな……。だって、それは……」
「そうだ」薄く目を開いて、御剣は言う。「それは、けして許されることではない」
 結果として、その偽りの証言が招いた悲劇の数を思って成歩堂は途方に暮れる。倉院の里を離れざるを得なくなった綾里舞子や、彼女の汚名をすすぐために命を落とした綾里千尋や、婚約者を自殺に追い込まれ半生を失った灰根高太郎。
 そこからさらに派生したいくつもの事件。
「あの証言は、あまりにも取り返しの付かないものだ」
 頭を抱えた成歩堂の心中を見透かしたように、御剣の声がした。
「あの父が私のためにそんな罪を犯したのだとしたら……」
 沈痛な面もちで御剣はそれきり言葉を切った。ジャケットの腕に寄ったしわで、二の腕を握りしめる手に力が入っているのが見て取れた。
「御剣……」
 何か言ってやらなければならない。だが、確かな言葉は成歩堂の口からも出てこなかった。
 何かを言うには、成歩堂は倉院流霊媒道の力を知りすぎている。何より彼は綾里家の人々と近くありすぎた。綾里舞子が霊媒に失敗した挙げ句、偽りを口にしたとはとうてい認められることではなかったのだ。
 かといって、あの霊媒は本物だったと思う、と。そう言ってしまうことも成歩堂には出来ない。
 その理由はもちろんこの友人に対して気を配ったことが大きいが、それだけかと言えばそれだけでもない。けっきょく何が≪真実≫かはわからないのだ。証拠はなにひとつなく、にもかかわらず何かを断言できるほど成歩堂はシロウトではなくなっていた。
 ──それに、と成歩堂は思う。
 なんだか最近、成歩堂自身が似たような気分を味わった気がしていた。それはたぶん、気のせいばかりではないだろう。
 

 ──「本当に、いいのね? ……検事さん」──
 二ヶ月前のあの法廷で、綾里千尋は聞いた。
 それが思えばひどく奇妙な問いかけだったと成歩堂が気づいた──むしろ気づかされたのは、狩魔冥と御剣怜侍の双方から指摘されたからだった。
 ひどく憮然とした表情の狩魔冥が言ったことがあった。
「あのバカな幽霊が、何をバカげたことを言い出したかと呆れたわ」
 バカは狩魔冥の口癖のようなものであることは(いやだけれど)重々承知している成歩堂ではあるが、永遠の師匠というべき綾里千尋をそう言われるのは愉快なことではない。一応、抗議の念を込めてなんの話かと尋ねれば、それまでよりはるかに呆れた表情を浮かべて狩魔冥はフンと鼻を鳴らして、その割には律儀に説明してくれた。
 あのとき、ゴドー検事は自分が起訴した被告人が無罪判決を受けようとしていたのである。検事ならそこに異議を唱えるのは当然のこと。あの時点で真犯人は事実明らかになっていなかったし、検事側が裁判を続行できるほぼ唯一の手段があの異議だった。検事にとっては当然の異議に対して、「本当にいいのね」とは何事か、と。
 狩魔冥の説明を聞いていた御剣も、その際のやり取りには多少疑問を覚えたと口添えた。
 それは検事ならではの視点だったのではないかと、成歩堂は思わずにいられない。特異な人間がなぜか多い検事の中でさえゴドー検事はかなり特異な存在だったが、ゴドーは法と≪真実≫に対してはフェアな検事だった……ように思う。そのゴドー検事があのとき唱えた異議は、彼らしくなかった。
 だからあの法廷であの瞬間、綾里千尋が発した問いのその奇妙さに気づけなかった者はなにも成歩堂ばかりではなかったはずだ。
 けれど事件のすべてが明らかになった上で改めて振り返ってみるなら、綾里千尋のあの問いは、たしかに、ひどく奇妙なものだった。
 彼女はあの問いかけにどんな気持ちを込めたのだろうと、成歩堂は考えた。
 検事さん、と口にした綾里千尋が言葉を向けた相手は本当にゴドー検事だったのか。
 それとも事件の真犯人であり彼女の先輩──か、あるいはそれ以上の存在だった神乃木荘龍に対してだったのか。
 もし後者だったとすれば、彼女があの問いかけに何を思い、何を願い、どんな答えを求めたのか。
 それを想像することは出来たが、他でもない法廷であの千尋さんがと思うと、認めることは成歩堂には難しかった。
 ──あなたは……私にできなかったことを、やりとげてくれたの。
 そんな彼女が何かをやりとげられなかったのはなぜだったのか考える一方で、あくまで真犯人を突き止め無実の被告人を救った成歩堂を≪最高≫と讃えてくれたその言葉こそを、成歩堂は今も信じようとしている。
 それはおそらく、御剣怜侍が陥っている懊悩と当たらずとも遠からぬもののように思われた。
 

「ここまで考えていながら、それでも口ではあの霊媒こそがインチキだったと言う私は、キミにはさぞかし情けなく見えるだろうな」
 黙りこくった友人を見かねたのか御剣の方が口を開いた。
「そんな風には思ってないさ」
 成歩堂は我に返って少し笑った。それを言うなら、成歩堂には成歩堂龍一こそが情けない。
 大きな矛盾だった。しゃれた言葉で言うならジレンマというやつかも知れない。
 だが、きっとこういうこともあるのだろう。
「な、御剣」
「なんだろうか」
「おまえ、真宵ちゃんに……オヤジさんを霊媒してもらおうとは思わないのか?」
「いや……」
 御剣は小さく答えた。もし今、改めて父に会うことがあれば、きっとあの証言について聞かずにはいられないから──と。
 成歩堂は黙って頷いた。
「私は≪真実≫から逃げていると、キミは思うだろうな」
「そんなこと……」
 言いかけて、成歩堂はそれだけでは説得力がないと気づく。彼はしばらく考え、そして本当は自分に繰り返し尋ねてきたことを、口にした。
「もしこれが法廷だったら、どうする?」
「法廷だったらとはどういう意味だ」
「法廷で、認めたくないことを認めなきゃいけないことがあったらどうするだろうと思って」
 成歩堂の言葉に虚を突かれたように御剣は目を瞠った。それでも、御剣怜侍が沈黙したのは一拍に満たない時間だった。
「愚問だな」
 御剣は言った。
「それが≪真実≫であれば、私はそれがどのようなものであっても向き合うまでだ」
「そうだね」
 だからこそ、成歩堂は思った。法廷の外でなら、信じたいものをただ無条件に信じても、少しくらいならいいかもしれない。例えばそこに証拠がなくても。もしかしたら≪真実≫ですらなくても。

 被告人を信じるところから弁護は始まる。
 法廷で≪真実≫に向き合わなくてはならないのは、それからだから。
 信じることは、罪じゃないさ。
 成歩堂龍一はそう思った。


 

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