はじめての再会
 

 9月14日。毒島黒兵衛殺人事件公判。
 成歩堂龍一が頭を抱えた。
「異議はありませんね?」
 裁判長が確認する。この裁判長は、他方から見る限りひどく平静だった。証言や尋問中のリアクションが大きく、時に話が理解できているのかと疑問視されることもしばしばだったが、その判決が公正なこと比肩する者がない。どれほど他に疑わしい容疑者が居ようとも、≪裁判≫において被告の無罪が≪立証≫されない限り、心情的にはどうであれ彼が無罪判決を下すことはないのである。
 今、証言台には平静を装い傲然と反り返る自称「名探偵」にして「怪人」がひとり。
 弁護人は裁判官の求めに対して、異議を唱えなかった。
 その姿を見て、検事は手にしたカップの中身を口にしつつ短く笑う。
 勝てる。
 ゴドーは確信した。
 実際の所、この先、被告が有罪になるか無罪を得るか、そこまではまだわからない。その点、表向きの勝者が被告側になる可能性は、まだ残っていた。だが、そもそもゴドーのルールにおいて「オモテムキ」などというものには、気にするほどの価値がない。今の"まるほどう"の姿は、どちらがこの裁判の本当の勝者であるかを如実に物語っている。
 何より重要なのは、成歩堂龍一の敗北が、成歩堂自身がつけた決着であるということだった。
 彼女なら──綾里千尋なら、まだ諦めない。こんな所で顔を俯けたりはしない。
(所詮、コイツはこの程度のオトコだったってコトだ)
 成歩堂龍一は綾里千尋には遠く、遙かに及ばない。
 そして、このオトコがこの程度だったからチヒロは死ななくてはいけなかった。
 それを確認できた。
 ゴドーにはそれで、十分。
 裁判長が宣告する。
「それでは、星威岳哀牙に対する尋問を、終了します!」
 法廷は静寂に包まれた。
 

 一瞬後。
「異議あり!」
 静寂はもろくも崩れ去る。
 響き渡った声は静寂と同時に、ゴドーの意識をも粉々にうち砕いた。彼は、自分の精神が割れたカップのように白い破片となって飛び散る眺めを心象世界に見た、と思った。
 彼が実際に見ていた琥珀色の闇は一度だけ大きく波立つ。闇色の波は白いカップの縁に押し寄せて止まった。彼がカップを取り落とさずにすんだのは、辛うじて残っていた冷静な部分が身体の動きを制御したから、ではなかった。聴覚神経を走り抜けた衝撃が大きすぎて、凍り付いたからだ。
 法廷に響き渡った声は、聞き違いようがない声だ。ズタボロにされた神経と五年の眠りを持ってしてもなお、忘れようのない……。
 ゴドーのイカレた神経が、それでも彼女の気配を捉えようと突如活性化する。バラバラになった意識は彼女の声を捉えるためだけに収束した。
「……どうやら……見えたようね」
 ゆっくりと、その声は言う。
「裁判長。あなたは小学校の頃、通信簿でよく、こう書かれた。『耳がとほく、聞きちがひをする』。……ちがうかしら?」
 ともすれば笑いの気配すら感じられそうなほどゆとりある口調だった。
 ゴドーの意識は氷結されていたが、彼の身体は意識より早く解凍された。そして、彼の体は彼が望むものに正直だった。声の主へと視線が吸い寄せられる。
 ──チヒロ。
 声にならない叫びを、ゴドーの唇が紡ぐ。
 ゴドーの立つ検察席からおよそ5メートルの先。彼女に最も相応しい場所に、綾里千尋は立っていた。妹の身体を借りたであろう彼女は揺るぎない視線で裁判長を見据えている。
 成歩堂龍一と戦えば、あるいはこういう機会があるのではないか。ハッキリした期待ではなくとも、ゴドーはそう思っていたかもしれない。二年前に鬼籍の住人となった彼女が目の前に存在するという、この特異な現象がどういうものか、彼は知っている。
 突然の異議と私的な指摘に狼狽する裁判長をよそにして、神乃木荘龍の記憶よりずっと大人びた綾里千尋は視線を転じると、頭を抱えたままの弁護士に微笑みかけた。
「……なるほどくん。カオをあげなさい」
 そうだ、とゴドーは我に返った。
 カップを机の端に押しやって、彼もまた弁護人を見る。
 この法廷はまだ終わってはいなかった。異議が申し立てられた以上、星威岳哀牙がこのまま退廷することはあるまい。まして判決が下されたわけでもなかった。ゴドーと"まるほどう"の戦いは終わっていないのだ。
 それ以前に、どんなにミジメなときでも、オトコは顔を上げるべきだった。勝負がついていないならなおさらだ。それは彼のルールであり、哲学でもある。
(なにより……)
 この場で適用すべき彼の哲学はまだ他にも存在する。
 綾里千尋が軽く首を傾げた。
「私が言ったこと……忘れたの?」
 それまで生前の部下に微笑を注いでいた彼女は、そこでいったん言葉を切った。傾げていた顔が上がる。
 次に彼女の眼差しが注がれたのは、検事席。
 綾里千尋は静かに口を開いた。
「弁護士は……ピンチのときほど、ふてぶてしく笑うものよ」
 

 瞬間。
 ゴドーの意識からすべてが消えた。
 視界は空白。
 音が消え、触覚さえ失われた。
 それは元よりボロボロだったゴドーの神経の悲鳴だった。心的な過負荷に耐えきれずに、絶叫している。
(チヒロ──)
 かろうじて気づいたときには、彼は台に拳をついて身体を支えていた。おそらく平衡感覚を失って、そのまま崩れ落ちることを避けようととっさに取った行動なのだろうと推測できた。けれど身体を支えたこと自体が意識にない。
 マシンにまで影響が出たのか視界が明滅を繰り返している。
(チヒロ──)
 その明滅する視界の中で、半ば呼吸を止めて、彼は弁護人席を見た。
 綾里千尋はすでにゴドーから視線を外し、裁判長と証人を相手に決定的な一撃を繰り出している。その彼女に5年前、緊張で隣人のコーヒーカップに波が走るまで震えていた"コネコちゃん"の姿を重ねることは甚だ困難だ。
 けれど、神乃木荘龍が共に過ごした一度きりの彼女の法廷が、鮮明に甦った。
 その時、彼は言って聞かせたのではなかったか。
『弁護士はなァ、ピンチのときほど、ふてぶてしく笑うモンだぜ』
 あの時、何かに打たれたような表情で神乃木を見たコネコちゃんが目に浮かぶ。
 成歩堂龍一の請け負った法廷記録で、彼女が幾たびかその言葉を口にしているのをゴドーは知っていた。けれど、こうして実際に耳にするのとでは何もかもが違いすぎる。
 彼女はすでにこの世の者ではないけれど、彼女の眼差しは確かに彼を見つめ、彼女の声がその言葉を発した。
 神乃木荘龍の言葉は、今も綾里千尋の中にあったのだ。
 彼が惰眠と呼ぶには長すぎる眠りにつき、彼女がひとりで歩き始め、ダッシュして、やがては彼を置き去りにして死んでしまうまで、ずっと彼女の中にあった。そして彼女が死んだ今もなお、共有している。
 彼女の眼差しは、ゴドーから逸れるまでのわずかな間に、その事実を神乃木に伝えた。
 チヒロが彼を見たのは決して偶然ではない。彼は知っていた。
 
 
 

 結局、それから1時間も必要とせずに流れは完全に逆転され、裁判は被告側の完全勝利で閉廷した。
 前日の裁判で余計なおまけが付いてしまったことまで考えれば、それは被告側にとっては完全以上の勝利と言えたろう。無論、被告の完全以上の勝利は、検事であるゴドーにとっては完敗以上の敗北を意味した。
 では、これで成歩堂龍一との決着が付いたのかと問われれば、ゴドーは迷わず否と答えるだろう。
 星威岳哀牙に無罪判決が告げられようとしたあの瞬間、勝利はゴドーの手の内にあった。
 敗れたとすれば、それはまるほどうなどにではなく綾里千尋に、だ。
 最強の弁護士。最高の弁護士。不動の実力に裏打ちされたゆとりと余裕。やっかいな女になったものだという印象は、誇らしくすらあるかもしれない。彼女にならば、敗れたことを不本意に思う気持ちはない。
 ゴドーはマグカップだけを手にして検事席を離れた。検察側控え室へと向けて長い足を振り子のように動かし、ゆっくりと歩く。
 午前午後を通した二日間の法廷と、それに伴う捜査。健康な成人男性であれば問題以前の仕事量──というよりむしろ運動量──だが、ゴドーは健康という単語からはやや遠い位置にあった。錆び付いた肉体はきしみを上げている。彼が彼らしく振る舞うには、ただ歩くという行為にも多少の集中を必要とした。
 けれど、神経のすべては背中に集まっていた。
 今の彼のちょうど真後ろには弁護側控え室への扉がある。結局、最後までこの裁判を見守った綾里千尋が法廷を去ろうとしているはずだった。
 彼女の気配を捉えようと全身が背中を意識している。
 そこに彼女が居る、という事実は、ともすれば悪魔の誘惑よりも強力だ。
 まるで、ひからびた砂漠でコーヒーの一滴を欲するように、飲み下せば熱く苦いだろうとわかっていても、手を伸ばさずにはいられない。それが蜃気楼のように、たやすく蒸発してしまうほど儚いものだとわかっているなら、なおさらに。
 ひと目。
 ──ただ、ひと目。
 検察側控え室へと続く扉の前でゴドーは立ち止まる。
 身体は、すでに立ちつくすだけでも限界。
 けれどゴドーは背後を振り返った。
 視線の先には、ちょうど控え室へ去ろうとする彼女の後ろ姿があった。堂々と背筋を伸ばし、悠然と歩く。長く白い足はかつて見たままで、足のないのが幽霊だというなら彼女がこの世にいないなど到底信じがたい姿。
 思えば神乃木荘龍は綾里千尋の後ろ姿を見たことがなかったと、彼は思う。
 その遠のく背中を見つめる内に、ゴドーは彼女も振り返るのではないかと、期待した。
 なにも笑顔を望んだわけではない。ただ彼女が一瞬足を止め、その背がほんの少しだけこちらを振り返る。眼差しがごくわずかな間、彼の視線と交差する。それだけでいい。
 その瞬間をイメージすらして、男は彼女を見つめた。
 控え室の扉をくぐった所で、まるで彼のまなざしに気づいたかのように、チヒロの足がいったん止まる。
 けれど、彼女の背中はそのままドアの陰に消える。もちろん、再び法廷に姿を現すこともなく。
 その日、綾里千尋が彼を省みることは、ついに無かった。


 

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