緋と白 前編
 

──4月6日午前11時45分 某レストラン──

 美柳ちなみは日傘を閉じるとフレンチレストランのドアを開いた。レストランの中は、厨房から熱気が漏れるためか、あるいはわずかながら暖房がかかっているのか、外よりずいぶん暖かだった。まだ春の初めにもかかわらずキャミソールワンピース姿だったちなみは、その温度に顔には出さずほっとした。もっとも、ちなみは-30度の北極圏にあっても鳥肌ひとつ立てず、50度の灼熱の砂漠にあっても汗ひとつかかないつもりでいる。それは肉体的な問題でなく、彼女の意思の力であって、ちなみがちなみたり得る所以でもある。
「これをお願いしますわね」
 彼女を出迎えた若いギャルソンに向けて微笑むと、ちなみは閉じた日傘を差し出した。彼女が言い出すまでギャルソンが目を丸くしたままぼけっとしていたのは気に入らなかったが、理由はわかっている。だから、ちなみはわずかな呼吸でいらだちを抑えた。
「ご予約していた、美柳ちなみと申しますわ。連れが来ているはずですの。わたしと、そっくりの子。そのお席に案内していただけて?」
 微笑んだまま尋ねると、ギャルソンはようやく我に返ったように頷いた。
 こちらです、と通されたのは奥まった席だ。
 久しぶりに会うお知り合いで、ゆっくりお話ししたいんです──。そう言って、できるだけ会話をし易い席を押さえておいたのだ。そもそも、この店は一席ごとに仕切りがあって、席と席の間隔も離れている。そして、窓はなく外からは見えない。だからこそ、美柳ちなみはこの店に予約を入れたのだ。
 ちなみが「彼女」と会うことは、ひどく人目を引く。
 けして、目立ってはならない時には、細心の注意を払うに越したことはなかった。
 

 ちなみの言ったとおり、席にはすでに彼女の連れが来ていた。連れの名はあやめという。姓はいちおう、葉桜院、となるのか。もしかしたら戸籍上は未だ綾里なのかもしれない。その連れが法的にどういう立場に置かれているのか、双子の姉であるちなみもロクに知らなかった。
 ギャルソンは鏡に映したようにうり二つの、それも服装までまったく同じ女性二人を興味深げに見ている。睨みつけて追い払いたくなるのを(こら)えて、その男が声の届かない場所に行くのを待ってからちなみは口を開いた。
「今日はわざわざすまなかったわね」
「いいえ、お姉さま」
 少なくとも外見だけ見ればちなみとそっくりの妹は、邪気のない笑顔でそう応えた。
 いつ見ても、彼女の妹の笑顔は透き通るように清い。
 その笑顔をちなみは注意深く観察した。この妹がどんな風に笑い、どんな風に顔を曇らせ、どんな口の利き方をするか。それを誰よりもちなみは良く知っているつもりでいるが、それでも離れて暮らすようになってからずいぶんな時間が経つ。
「早速だけれど……」妹に何か変わっているところがないか、ちなみは自分と見分けのつかない妹の顔に視線を注ぎながら口を開いた。「例のもの、いい加減取り戻せた?」
 問い掛ければ妹はとたんに表情を曇らせた。その顔色だけで姉は状況を理解する。予測のついたことだから、失望はない。ただ、こんな簡単なこともできない妹には、呆れて溜息が洩れた。
「また……、ダメだったのね」
「ごめんなさい、お姉さま。もう少しだけ……」
 あやめは胸の前で片手を握りしめると涙目になった。そのポーズも、ちなみは記憶に焼き付ける。
「しようのない子ね、まったく」
 ちなみはいったん口を閉ざした。
 予約どおりの時間に来ただけあって、料理がもう運ばれて来たのだ。内容は簡単なランチメニューにしていた。本来なら前菜から始まるきちんとしたコースがちなみの好みだが、今日に限ってはいちいち料理が運ばれてくるたびに会話を中断させられるのは上手くない。
「……まあいいわ。まず、お昼食にしましょう」
「はい……」あやめはちなみの言葉に頷いてから、行儀よく両手を合わせて「いただきます」と言った。
 スプーンやナイフとフォークを手に取り、二人はしばらく無言で食事を進めた。
 奇妙な光景だ、とちなみは思った。妹とこうして食事をするたび、ちなみはそれを感じる。
 向かいに座るのは、自分とまったく同じ顔だ。こうして妹と向かい合っていると、鏡を見ながら食事をしている気分になる。同じ躾をされたためか、性格の差違の割に食事のペースも作法もほとんど違いがないからなおさらだった。鏡と違う点があるとすれば、二人とも利き手が同じであることぐらいのものだろう。
 ちなみは妹より少し早くナイフとフォークを皿に戻した。それがいつもの彼女たちのあり方だった。あやめはいつも、ちなみにワンテンポ遅れて食事を終える。食事ばかりでなく、何事につけてもそうだった。何をしても、ちなみのほうがいつも少しだけ早い。遅れて姉についてくる妹は、やっとのことでちなみにわずかだけ遅れて、物事を終わらせるのだ。彼女たちは、必ずそうだった。
 デザートと食後のコーヒーを頼み、ちなみは妹に向き直った。
「今日もこれから……」"あの男"、と言いかけてちなみはわずかに表現を修正することにした。「例の……"リュウちゃん"と会うの?」
「ええ」
 あやめはわずかに頬を染めてうつむいた。この半年ばかりの間に、あやめが新しく見せるようになった表情だ。
 ──この顔を"リュウちゃん"の前で真似なきゃいけないとはね。
 ちなみは怖気を覚えて、震えそうになるのを本気で耐えた。
 

 ちなみ自身の手で"リュウちゃん"から例の証拠品を取り返そうと思ったのは、何も最近のことではない。彼女はただ、自分が自由に動けるタイミングを待っていただけだった。
 妹があの男にうまく取り入って取り戻せればそれに越したことはなかった。だが、それが難しいと悟るのにも、大した時間は掛からなかった。
 件のボウヤがあやめを気に入ってくれたのは近づく上では幸いだったが、不運だったのは気に入られすぎた、ということだった。控えめなあやめの説明を聞くだけでも、その男が「ちぃちゃん」にクビったけなのは疑いようもない。そのせいで未だに目的の品は取り返せていない始末だ。これはちなみにとってひどい誤算だった。
 ──「ちぃちゃん」にクビったけだと言うのなら、おとなしく何事もあやめの言うとおりにすればいいものを。
 ──あやめもあやめで、どうして甘えた声のひとつも出して上手くペンダントのひとつも取り返せないのか。
 この半年余り、どれだけそう思ったかわからない。
(まあ、別にかまやしないけどね……)
 ちなみは肚の中でひとりごちた。そんな器用な真似が、このトロくさい妹にできないことなど百も承知だ。
 それに、ちなみが直々に小ビンを取り返す計画を定めた今となっては、すべてはささいな問題だった。多少危ない橋を渡ることになるとはいえ、どうせもうすぐ上手くいく。
 運ばれてきたデザートとコーヒーには手をつけず、ちなみは口を開いた。
「ねえ、あやめ」ちなみは首を傾けて笑った。「今度、アタシも"リュウちゃん"に会ってみたいと思ってるの」
「えっ?」
 驚く妹に対してちなみはウツクシク微笑んだまま続けた。
「だってアンタ、トロいんだもの。いつまでも小ビンひとつ取り返せないで」
「あ……。ごめんなさい」
 あやめは途端にうなだれた。ちなみはそんな妹をちらりと一瞥して、また自分の髪を払った。
「もう、あれから八ヶ月。無能な警察は結局アタシを逮捕できやしなかった。アタシもずいぶん自由が効くようになったわ。いつまでもアンタにアタシのフリをさせて、あの男と付き合わせておくわけにはいかないの。春休みも終わるし、大学でアタシがリュウちゃんと鉢合わせたりしたら、困るのよ」
「あの、お姉さま……わたし……」
 珍しくあやめは何かを必死で言おうとしている。
 しかし、ちなみには妹がトロトロ、もごもごと話すことなど聞く気はなかった。
「だからね、あやめ。アタシ、小ビンを取り返して、リュウちゃんに全部話すわ」
「全部……?」
 きょとんと首を傾げる妹のトロさに今更ながらちなみは呆れた。
「この半年以上リュウちゃんのそばにいたのは美柳ちなみじゃなかったのよ……って、話すってイミよ」
「お姉さま、待って下さい。そんな……」
「そして、こう言うわ」ちなみは狼狽する妹の言葉をさえぎった。「リュウちゃんのそばにいたのはアタシの妹で、あやめなんだって。小さい頃から寺に預けられてたアンタを、アタシがカワイソウに思って、アタシの振りをさせて街に連れ出したときに、妹がリュウちゃんと会ったんだ……ってね。ただ、あのペンダントだけはアタシの物だから返して欲しい。こう言えば、アンタにくびったけのリュウちゃんだもの。悪気があって騙されたなんて思やしないでしょうよ。ペンダントも取り返せる。そして、アンタはこれから、葉桜院のあやめとして好きにリュウちゃんに会えばいいの」
 一息にそれだけ言うと、妹は目を瞠ってちなみを見ていた。
「本当によろしいのですか……?」
「当たり前でしょ」ちなみとしてはこんなクサい話をこれ以上熱心に語る気にもなれない。「リュウちゃんと付き合ってたのはアンタなんだから。アンタと間違われたら、そのほうが迷惑だわ」
 ちなみが溜息混じりに語れば、とたんにあやめの瞳が輝いた。白い頬を紅潮させた顔は、ちなみの記憶にすらかつてないほど嬉しそうだ。
 その妹の表情に、ちなみは苛立つ自分を感じた。
 


 

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