緋と白 中編
 

 食事を終え、レストランを出たのは1時をずいぶん過ぎた頃だった。
 珍しくあやめのほうから「途中までご一緒しませんか」と誘われて、ちなみはしぶしぶそれに同意した。向かう先は大学と駅に続く通りで、春休み中と言っても近辺に勇盟大学の学生は多い。この妹とふたりでいる姿を見られることは好ましいとは言えなかった。だが、「リュウちゃん」についてもう少し話を聞き出す機会を持つのは悪くない。
 ちなみは日傘で顔を隠しながら道を歩く。お天気はいいが、春先の風はむき出しの肩に少し冷たかった。風よけがわりの日傘をさしていない妹は、きっともっと寒いだろう。
 そのあやめはちなみに控えるように一歩遅れてついてくる。それはいつものことで、珍しいことではない。後ろを歩く妹にちなみがそれとなく水を向ければ、あやめはリュウちゃんについてよく喋った。それは珍しいことで、ちなみが内心で驚くほどあやめの口数は多かった。
 もっとも、話の大半は益体もない内容だ。そのどうでもいい話を、あやめはいちいち大切で仕方のないことのように話す。風は冷たいはずなのに妹の頬は上気して赤かった。その事に、ちなみはまた正体のわからない苛立ちを覚えた。
 ちなみの目から見れば頼りにならないアマったれのあの男に、この妹が本気で熱を上げてしまうなんて計算外もいいところだった。
 ちなみは誘いに乗ったことを半ば後悔して、妹の話を聞き流す。気分転換にと、例の小瓶を取り戻すための二通りの計画について考えた。
 ちなみがあやめに話して聞かせた「ちぃちゃんの正体をバラす」という内容は、何も嘘というわけではなかった。少なくとも、それであの小ビンは取り返せるだろう。犯罪を犯すわけでもなく、安全な手順ではある。だが、それだけのローリスク、ローリターンの計画だった。あのマヌケな男に妹の存在を知らせて、ペンダントについても完全に口を封じられないのだから、高い危険を残すのかも知れない。
 もうひとつの案では、そうした危険をすべて無くしてしまうことになっていた。早い話が、「ちぃちゃん」としてあの男に近づき、その口を永久にふさぐのだ。
 本当は、先に考えついたのはこちらのほうだった。今し方レストランで改めて妹を眺めていても、あやめの真似をする──「ちぃちゃん」としてあの男に近づくことは難しくないと確信できた。ならば、他の案など考える気がしないほどだ。リュウちゃんの殺害は、ちなみにとってそのくらい当然のアイディアだった。
 だが、その計画は危険でもあった。一年前に美柳の義姉(あね)を殺し、半年前には弁護士を一人、死体同然にした。そのどちらも切り抜けた自分にちなみは絶対の自信を持っているが、それだけに今ここでもう一度殺人事件を引き起こすことの危険性は感じられる。もちろんハイリスクだが、ハイリターンでもある。ちなみの心は完全にこちらの計画に傾いていた。
 だが、以前ほど殺害手段に自由がない。
 持っていた毒薬は使ってしまった。巻き込んでスケープゴートにできる人間がいないこともネックになっている。ちなみ自ら「ノンちゃん」の研究室に入り込んで、今一度毒薬を入手することはできるだろうが、それは二重の危険を冒すことになる……。
 姉がそんなことを考えているとも知らず、あやめは頬を染め、リュウちゃんとの話を続けている。
 ──初めてセーターを編んだこと。リュウちゃんが喜んで着てくれていること。お弁当を作ってお昼は必ずふたりで食べること。リュウちゃんは甘い卵焼きが好き──。
 くだらないったらないわ、と吐き捨てそうになるのを、ちなみはぐっと呑み込んだ。この先の計画を思えば、どちらに転んでもここで妹の不信を買うのは得策ではない。
「……でも、今朝からリュウちゃん、お風邪を召しているそうで……」
 妹の声のトーンが急に下がったのを感じて、ちなみは妹を振り返った。
「風邪? こんな時期に、珍しいわね」
「はい。なんでもお腹を出して寝ていたのだそうです……」
(子どもじゃないんだから……)
 呆れて声も出せず、ちなみはただ息を吐いた。
「で、アンタはこれから看病に行くわけね」
「いいえ。リュウちゃんは大丈夫だから大学で会いましょうって。お薬が効くはずだからと仰って」
「…………『おクスリ』?」
「はい、カゼゴロシZと言って、リュウちゃんが大ファンなのだそうです」
 だから、わたしも最近はカゼゴロシZを買うことにしました、とあやめは小さくはにかんだ。
「そう……カゼゴロシZ、ね」
 顔を前に向けて、ちなみもひとり微笑んだ。
 

 大きな道路を目の前に、二人は赤信号で立ち止まった。長い横断歩道を渡ったその先で、ちなみは駅へのほうへ、あやめは大学のがわへと別れることになるだろう。周囲には明らかに学生と見て取れる顔が増えて、ちなみにはいよいよ日傘を目深に傾け、顔を隠さなくてはいけなかった。それがひどく忌々しい。
 ……あと少しの辛抱よね。
 ちなみは自分に言い聞かせた。本来、こうした辛抱もコソコソ顔を隠すことも我慢がならないちなみだが、吾童川の激流に揉みくちゃにされることを思えばいくらかマシだ、と思うことにした。リュウちゃんを殺すにしても、生かすにしても、こんなことはあと数日で終わりになる。そう考えると、ちなみの気は少し晴れた。あと数日という時間より、あの男の命運が自分の手の中にあると思って愉快になったのだ。
 ──そう、それは悪い気分じゃない。
 ならば、もう少し生かしておいていいかも知れないとも思った。ペンダントについてさえ口止めできれば、とりあえず目下の問題はないのだ。「ちぃちゃん」にくびったけのあの男には、いずれ他の使い道がある気がした。今ここで無理に危険な橋を渡るより、それは良い案に思えた。何より、人の命が自分の意思ひとつで動かせる感覚は、愉快だ。
「お姉さま、青ですよ」
 妹の声でちなみは我に返った。周囲の雑踏が動き始めている。危うく日傘を上げて信号を確認しそうになり、とっさに日傘の傾きを戻して、また顔を隠した。
「早く行きましょう、お姉さま」
「ええ……」
 妹にせかされて、ちなみは歩き始めた。
(──え?)
 一瞬、ちなみは自分の目を疑った。いや、目だけではなく、耳も、今聞いた言葉も、何もかもを彼女は疑った。
 日傘からわずかに覗く視界の中、白とピンクのレースがちなみを追い越していく。
「あやめ!」
 ちなみは思わず声を上げた。日傘で顔を隠すのも忘れて愕然と見つめた前方、三歩も先に妹の背中があった。
「はい?」
 妹が無邪気な笑顔でちなみを振り返る。それは、まったくいつもどおりのあやめの笑顔だった。だが、その顔を見たちなみは平静ではいられなかった。ちなみは妹の顔を見たまま、横断歩道の中程で棒立ちになった。いきなり足を止めたちなみに背後から誰かがぶつかった。
 だが、ちなみは息を止めて、ただ自分の眼前に立つ妹を見ていた。道の真ん中で急に立ち止まった姉を、あやめがぽかんと見つめ返してきた。
「……お姉さま? どうかされましたか?」
 ちなみは日傘の柄を握りしめた。力を込めすぎて手が震えた。どうかされましたか、ではない。この妹は、自分のしたことの意味をわかっていないのか。
 ちなみは軽く口を開き、しかしすぐに言葉は出てこなかった。唇を舌で舐め、やっとのことで口を開いた。
「……アンタこそ、どうしたの。ずいぶん急いでるようじゃない」
 声は怒りで震えた。だが、妹はそれにも気づかない様子で、ああ、とうなずいた。
「申し訳ありません。リュウちゃんとの待ち合わせの時間が近いんです。それで、つい気が急いてしまって」
 妹はほほえんだ。邪気はなく、清く、何より嬉しそうな笑顔だった。
「…………そう」ちなみは言った。手の内で、日傘の柄がミシリと音を立てた。「そう、じゃあ、早く行っておあげなさいな。……アタシは」そこでちなみはとっさに言った。「アタシは、さっきのレストランに忘れ物をしてきたから。取りに戻るわ」
「え? そうなのですか?」
「ええ……」
「どうしましょう? わたしが取りに戻りましょうか?」
「いいのよ」ちなみはすぐに答えた。「アンタはさっさとリュウちゃんのところに行きなさいな」
 妹は軽く口元に手を当てて迷っている様子だったが、信号が点滅し始める段になって、うなずいた。
「それじゃあ、行ってきますね」
「ええ」
 ちなみは答えて、妹が自分に背を向けるより前に素早くきびすを返した。彼女は足早に今来た道を戻った。すれ違う人間がちなみの顔を見て飛び退くように道をあけるので、半ば突進するように足を進めた。
 やがて、ちなみは誰もいない小道に出た。自分がどこをどう歩いたか覚えていない。ちなみは人がいないのを確かめると、おもむろに腕を振り上げた。誰の家とも知れない垣根に向けて、彼女は渾身の力を込めて日傘を振り下ろす。
 華奢なちなみの腕よりもっと脆弱だった日傘はその一撃でボッキリと折れた。ちなみはさらに声にならない叫びをあげて日傘をめちゃくちゃに振り回した。方々(ほうぼう)に叩きつけられた可憐なレースの傘は、あっという間に無惨な姿になる。
 やがて、彼女の手に残るものは日傘の柄だけになった。
 ちなみはその最後に残った柄も路上に投げつけた。それから、肩で大きく息をした。そこまでしてもまだやり場のない怒りが体の中で渦巻いている。
 あってはならない。
 ちなみは両の拳を握り、アスファルトを睨み付けた。
 許さない──。
 最前、自分を追い越して行った妹の姿を思い返し、怒りで全身が震えた。
 あのトロい妹が自分を追い抜いていくことなど、絶対にあってはならなかった。あやめがちなみを急かすことも、意見することも、とんでもなかった。あやめは常にちなみの背後に控え、この姉のすることに従わなくてはならないのだ。それに、あやめはいつだってちなみを正しいと思っていなくてはならない。あやめの目に、ちなみは何でもできて、聡明で、決してかなわない姉として映っていなくてはならなかった。だから、あやめがこの姉の前に立つことなんて許されない。ましてや、あやめがちなみを置いていくことなど、絶対にあってはならないのだ。
「あのオトコ……」
 噛みしめた奥歯の奥から、ちなみはつぶやいた。
 そうだ、あの男を殺そう。なぜか唐突にちなみの気が変わった。──うっとうしいあの男を、消さなくてはならない。
 リュウちゃんを殺すに値する理由は、いくらも思いついた。そもそも例の小瓶を返してくれるかわからなかったし、仮に小瓶は取り返せても、ペンダントについてあの男は吹聴を続けるかも知れなかった。もし、あの男の元へ警察が来れば、あのマヌケな男は、べらべらと言わなくていいことまで喋るだろう。警察ばかりではない。あのオンナ──そうだ、綾里家のあの長女も現れるかも知れない。どう考えてもリュウちゃんを生かしておくのは危険だった。あんなうっとうしい男は、すぐにでも消してしまうべきだった。ついさっきまで自分があの男を生かす気だったのが、ちなみには信じられないくらいだ。
 あの男を、殺そう。
 そう心が決まると、ちなみの気分は急速に落ち着いた。むしろ、気分はひどく良くなった。
 ──そう、とてもいい気分だ。
 空を見上げて彼女は思わずくすくすと笑い出す。こんなに愉快に感じられることは近年ないくらいだと思う。
 だって、リュウちゃんが可笑(おか)しかった。
 誰より信じているだろう本物のコイビトにすら裏切られる愚かな「リュウちゃん」の哀れさが、ちなみにはひどく可笑しかったのだ。たしかにリュウちゃんを殺すのは、ずっとあの男のそばにいた「ちぃちゃん」ではないけれど、ちなみがリュウちゃんを殺しても、あやめは姉の犯罪について口を割らない。あの男がくびったけの「ちぃちゃん」は、リュウちゃんを殺した犯人のほうをかばうのだ。それはちなみにとって既定の事実だった。だから愉快で仕方がない。
 あやめは、いつもそうだった。ぐずで臆病な妹はちなみには到底ついては来られない。だが、あの妹がこの姉の犯罪を誰にも言わないこと、それだけはいつでも絶対だった。
 ちなみが父親に復讐したときも、勇希と美散を死に追いやったときも、そのことをしつこく追いかけてきた弁護士のひとりに毒を盛ったときも、あやめは、すべて知っていながらちなみの犯行については結局、誰にも語らなかった。
 あやめはいつも、最後にはそうして姉を選ぶ。
 ちなみは妹の顔を思い浮かべた。左右が逆に映る鏡よりもまだ正確な、わずかの狂いもなくちなみと同じ、その顔。
 生まれる前からずっと一緒だった。ちなみと同じ細胞を二つに分けて生まれてきた妹にとって、誰よりも近い者はちなみ以外にない。
 だから、あの妹は、ずっと自分に従うのだ。
 あやめが姉を死刑台に追いやるような、そんな証言をすることはありえなかった。それがたとえ、大好きな「リュウちゃん」の殺害であっても、絶対にあやめは自分をウラ切らない。
 妹はこれからもずっと姉の後ろをついて来るだろう。
 ちなみはそう確信する。
 やがて、ちなみは青い空を見上げて微笑んだ。空がとてもきれいだと思った。もはや、彼女は自分がなぜ怒り狂っていたのかを忘れた。
 そして、ちなみは自分が粉砕した日傘を一顧だにせず、優雅な歩調で歩き出す。
 


 

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