緋と白 後編
 

 しかし、美柳ちなみは犯行に失敗した。それも単なる失敗ではなかった。状況は限りなく最悪に近い。それは、ちなみ自身も認めざるを得ない事実だった。
 怒りに震えながらちなみは留置場の廊下を進む。
 ちなみは成歩堂龍一を殺すことに失敗した。かわりに余計な殺人をひとつ犯し、その件で逮捕されたのだ。「リュウちゃん」に罪を着せるところまでは上手くいったにも関わらず、信じがたいことに、ちなみはそのあとで失敗した。緊急逮捕に至るまでちなみを追いつめたのは、あの綾里千尋だった。そのことはとりわけちなみのプライドを傷つけた。
 まさに最低、最悪が目の前にある。これほどの屈辱をちなみは知らない。奥歯が砕けるのではないかと思うほど歯を食いしばり、ちなみはうなった。
 ……誰が、このままで終わらせるものですか。
 今の彼女はまだ逮捕されたばかりだ。ちなみの序審法廷は明日開かれる。彼女には逆転の機会が残されていた。──少なくとも、ちなみ自身は逆転の機会があると信じている。美柳の父は今も昔と変わらず娘には何らの興味も持っていなかったが、美柳の家名に瑕(きず)がつくことを良しとはしなかった。だから、ちなみのもとへすぐに寄越された弁護士は、さすがに名の通った一流だ。ど素人同然の綾里千尋にできた逆転ができないはずはない。今から始まる面会も、おそらくその弁護士がちなみに有利な証拠を見つけてきた報告だろう。
 

──4月11日午後6時05分 留置所面会室──


 そうして面会室に足を踏み入れたちなみは、ガラスの向こうに座る相手を見て眉をひそめた。ガラス越しにはちなみとまったく同じ顔がある。粗末な椅子に座った妹はひどい顔色でちなみを見上げた。
「……アンタだったの」
 弁護士からの良い知らせでないことに忌々しい気分を感じながら、ちなみはパイプ椅子に腰を下ろした。すでに面会を行える時刻は限界に近い。弁護士は何をやっているのかと少し苛立つ。
 だが、まあいい、とちなみは思いなおした。
 ──まあ、いい。この妹には使い道がある。
「お姉さま……」
 妹は胸元で堅く拳を握りしめ、それきり押し黙った。あやめは何か言おうとしているようにも見えたが、ちなみにトロい妹を待つ気はさらさらなかった。
「ちょうど良かったわ。アンタに話があるのよ」
「お姉さま」
 短くそう呼ばれて、ちなみは眉をひそめた。あやめの呼びかけはちなみの言葉をさえぎったように聞こえた。しかし、そんなバカな、とちなみは思う。この妹が自分の言葉をさえぎることなどありえない。
「あやめ、アンタに話が」
「お姉さま教えてください」
 言い直したちなみの言葉を、しかし、あやめは今度こそ明らかな形でさえぎった。
「お姉さまは、本当にリュウちゃんを殺そうとされたのですか」
 ちなみは妹の顔をまじまじと見つめた。質問の内容は彼女の耳を素通りした。ここにいるのは本当に妹だろうかと、ちなみは疑った。
 呆然とするちなみを余所にあやめは──ちなみの瞳に映るのは紛れもなくあやめだった──目に涙を溜め、胸元で手を握りしめて続けた。
「裁判のことを伺って……お姉さまが薬学部の学生さんを殺されたって。でも、もともとはリュウちゃんを殺すはずだったって……。それは本当なのですか」
 唖然としてから、ちなみは我に返った。
「そんなこと。……だったらどうだって言うのよ」
「そんな……」
 小さく喘いであやめはさらに蒼白になった。その顔を見てまたなのか、という思いがちなみの胸にわだかまった。
 また、リュウちゃんなのか。
「アンタ、そんなハナシをするためにわざわざ来たの?」
 ちなみは息をついた。胃の辺りに軽いむかつきを覚えた。それは、つい先日も感じた気がする不快感だった。
 ──そう。
 ちなみはその原因らしきものに思い当たった。また、リュウちゃんだ。あの男が絡むと妹の何かがおかしくなる。あやめがちなみに対して当然すべき反応、行動。ちなみとあやめとの間に保たれているはずの関係が、どこかできしみをあげる。
 ちなみは一度髪を払って、気分を落ち着けた。そして、彼女は思い直す。こんなことは大したことじゃない、とても小さなこと。なぜなら、この妹はちなみを裏切らない。最後はすべて自分の思い通りになるとわかっている。だから大丈夫だ。
 ちなみは表情を変えて見せた。声色をかえて優しく言った。
「そうじゃないでしょう?」
「え……?」
 いきなり猫なで声でほほえんだ姉を奇妙に思ったのだろう、あやめが疑うように目を開いた。
「アンタは、そんなことを聞くためにここに来たわけじゃないわよね?」
「どういう意味ですか……」
「決まってるでしょ」にっこりと、ちなみは妹にほほえみかけた。「アンタは、アタシを無罪にするためにここに来たの。アンタに証言して欲しいことがあるのよ」
「証言……?」
「そう。弁護士に任せておくだけじゃ頼りなくってね。だから、アンタ、明日証言なさいな。この半年、リュウちゃんのそばにいたのはアンタだって。リュウちゃんが例の小瓶をバリバリ食べてくれたおかげで、アタシの動機を示す証拠はなくなったの。そこにアンタが、ペンダントには毒なんて入ってなかったし、そもそもリュウちゃんと一緒にいたのは自分なんだって証言してくれれば、アタシがわざわざあの男を殺そうとする理由なんてなくなるでしょ? リュウちゃんを殺すために毒薬を盗んだのがアタシでなければ、ノンちゃんだって殺す必要はない。アンタがそれだけ話してくれれば、あとはアタシがうまいことやるわ」
 言いながら、ちなみは良い案だ、と思った。彼女は証拠らしい証拠をほとんど残していない。美柳ちなみはそんなへまをしないのだ。ちなみが毒薬を盗んだ事実さえ立証されなければ、一連の犯罪を証明することは不可能だった。そして、妹の証言は、ちなみに動機がないという後押しになるだろう。
 思わず小さく笑ったちなみに対して、妹は姿勢を正した。
「お姉さま、もう一度だけ、聞かせてください」
「……何よ、そんなに改まって」
「お姉さまは、本当にリュウちゃんを殺そうとされたのですか」
 妹の言葉にちなみは鼻白んだ。
 まだ、そんなことにこだわっているのか、と思った。それを知ったからと言って、結果が変わるとも思えない。それでも、こんなことを尋ねる妹が、バカバカしい。
 ちなみは、わずかに看守を意識した。けれど大丈夫、と考える。先ほど訪れた弁護士は、面会室で交わされる情報は決して外に漏れない──漏らしてはならないルールがあるのだ──と言っていた。ちなみはその弁護士にも本当のことなど何ひとつ語らなかったが、妹が相手ならば、ここで何を話しても大丈夫のはずだ。
「そうよ」だから、ちなみはあっさりと認めた。「そうよ、たしかにアタシ、あの男を殺そうとしたわ」
「どうして、そんな……」
「うっとうしいからよ」
 ちなみは即答した。妹相手にハッキリ口にすると、胸がすくような心地がした。
 妹のほうは無言で唇を開閉していた。この程度のことで言葉を失う妹に、ちなみはまた呆れた。彼女は一度髪を払い、鼻を鳴らした。
「まったく、本当に役に立たないオトコだったわね。身代わりにすらなりゃしない。まとわりついて来るばっかりで肝心なことは何ひとつできないんだから、イヤになるわ。上手く行けば今頃ここに入ってるのはリュウちゃんだったって言うのにね」
「……なんてことを……」
「別に大したことじゃないでしょ。あんな頼りないオトコの一人や二人、死んだところでどうってことない……」
「なんてことをおっしゃるのです!」
 ちなみに最後まで言わせず、突然あやめが叫んだ。ちなみはぎょっとして妹を見た。
「なんてことを仰るのです! そんな、大したことじゃないなんて……!」
 あやめは涙目で訴えたが、ちなみはただ愕然として妹を見つめた。あやめが誰かに対して声を荒げるところなど、ちなみは見たことがない。ましてや、あやめがこの姉を怒鳴りつける状況など想像だにしなかった。
「……なんなの……」ちなみは思わず小さく呟いた。呟くと、その言葉で胃の中が急に熱くなった。「それがどうしたって言うの!」
「お姉さま……」あやめは涙を浮かべたまま、ちなみを見つめてきた。「今日、こちらに伺ったのは、決めてきたことがあったからです……」
「なにを」
「もし、事件のことが本当なら……」そこで、あやめは一度息を吸い込んだ。「わたし、明日の裁判で、証言します。わたしの知っていることをすべて、お話しいたします」
 妹は大きく息をついた。まるで、ひどく重大な決意を口にしたように見えた。しかし、ちなみはただ首を傾げた。
 あやめの言う意味が、ちなみにはまったく理解できなかった。
「すべて話す?」
 だから、思わず尋ねたちなみの声は、彼女自身にも妙に間が抜けて聞こえた。けれど、ちなみには妹が何を言っているか、本当にわからなかったのだ。
 ──すべて話す?
「なにを」ちなみは尋ねた。
「お姉さまがこれまでされてきたことを……」あやめはそこで一度、小さくしゃくり上げた。「狂言誘拐のことや勇希さまのことも、弁護士さまのことも。……わたしの知っているすべてを、証言いたします」
「…………な」
 なんですって。というその一言は、声にはならなかった。妹は泣きながら続けた。
「もっと早くこうするべきだったのです。こんな事になる前に……わたしに勇気があれば……」
「……」
「お姉さまが間違ってらっしゃると、わかっていたのに……」
 ちなみは唇を開いた。言うべきことはいくらもあるはずなのに、言葉は出てこなかった。
 彼女は妹を見つめた。
 ぼろぼろと涙を流すあやめの頬は真っ青だった。けれど、その妹以上に自分が蒼白になっているのをちなみは感じた。
 

「……そう」やがて、ちなみはぽつりと漏らした。「そう。アンタも、アタシを裏切るの」
 ちなみは、怒りよりも先になぜか虚脱を感じた。
「アンタもアタシを裏切るのね、あやめ」
 呆然とちなみは口にした。
 それから少しずつ、怒りが体の中に戻ってくるのを感じた。
 この妹までもが、自分を裏切るのだと思った。
 生まれる前からずっと一緒だった。ちなみと同じ細胞を二つに分けて生まれてきた。何もかもが自分とは違うが、誰よりも自分に近い。
 ──その妹は、自分よりあのオトコを選んだ。
 ちなみは唐突にその場に立ち上がった。
 彼女はひどいめまいを感じた。座っていても椅子から転がり落ちそうだった。立った状態から可憐にくずおれるならいざしらず、椅子から転がり落ちるような無様な真似を、ちなみは自らに許すつもりはなかった。だから彼女は立ち上がった。
 実際立ち上がってみると、やはりゆらりと頭が揺れた。しかし、彼女はどうにか踏みとどまった。
 突然立ち上がった姉を、あやめが息を呑んで見守る気配がした。けれど、その姿を見ることがちなみにはできなかった。ちなみの視界はなぜか、真っ暗だった。目は開いている。だのに、何も目に入ってこない。
 それでもちなみは妹を見下ろした。自分が立ち上がって妹を見下ろすとき、妹の頭がどの位置になるか、ちなみの体は覚えている。
「……お姉さま?」暗闇の先から小さく、窺うような声がした。
「黙りなさい」ちなみは言った。
「でも、お姉さま……」
「黙りなさいな」
「お姉さま、でも……お顔の色が……」
「アタシが黙れと言っているのよ!!」
 ちなみは妹を怒鳴りつけた。あやめが小さく息を呑む。
 ちなみは言った。
「今さら、何を言ってるの!」
「……」
「アンタは、ずっと黙ってきた」
「……」
「全部ずっと知ってて、黙ってたのはアンタじゃないの!」
「……」
「あのオトコが、なんだって言うのよ」
「……」
「あんなオトコのために、証言する気?」
「……」
「それで、アタシを死刑台に送ろうっての」
「わたしは……」
「違うって言うの」
「……」
「アンタはね、余計なことなんて考えなくていいの」
「……」
「アンタはアタシの妹なんだから、ただアタシに従ってればいいのよ」
「……」
「アタシが間違ってる……? それを、アンタが言うの」
「……」
「アタシは間違ってなんかないわ」
「……」
「あやめ、聞いてるの」
「……はい、聞いています」
「アンタは、アタシに従うの」
「……」
「アタシは間違ってなんかないわ」
「……」
「アンタだけは、そう思ってなくちゃいけない」
「……お姉さま……」
「そうよ。アタシは、アンタの姉なのよ」
「はい……」
「そのアタシを、アンタまでウラ切るって言うの」
 ちなみはそこで言葉を切った。返事までは、長い時間が掛かったように思った。仕方がない、とちなみは思う。この妹はちなみと違ってトロいのだから──。
 やがて静かに、あやめの答えが返ってきた。
「いいえ、お姉さま」
 その声を聞いて、ちなみは目を上げた。急に視界が戻ったように思えた。
 ちなみが気づかない内に妹は立ち上がっていた。ちなみは両手をガラスに押しつけて前屈みになっていた。なぜ、自分がそんな体勢を取っているのか、ちなみにはあまり覚えがなかった。だが、そのせいで妹をわずかに見上げる格好になった。
 そのちなみを見つめ、あやめは言った。
「証言は、いたしません」
「……証言しない?」
 ちなみはあやめの顔を見た。あやめはうなずいて、手をガラス越しにちなみの手へ添えた。
「わたしが嘘をついても、きっとばれてしまうと思います……。ですから嘘の証言はできませんけれど……お姉さまが黙れと仰るなら、黙っています。誰にも、何も、申しません」
 見上げた妹の顔は、ちなみがこれまで知っていたとおりだった。誰よりも透き通って清かった。ただ涙のようなものを浮かべてちなみを見つめる眼差しが、ひどく悲しかった。
 ちなみは何も言えずに妹のその顔を見つめ返した。
 ──わかればいいのよ。
 ──それでいいのよ。
 ここで当然出てくるべき台詞が、どういうわけか、ちなみの口からは出てこなかった。
 なぜだろう、それはいつもどおりのことだったはずだ。ちなみが何かを言い出し、臆病な妹はそれにひるんで、その妹をちなみが怒鳴りつけると、怯えたあやめは涙目で姉に従う。それは幼い頃から変わらず繰り返されてきた一連の流れと同じであるはずだ。それなのに、なぜか何かが違って思えた。
 妹は無言で、悲しい眼差しをちなみに注いでいた。
「……わかれば、いいのよ」
 やがて、ちなみはその視線に押されるようにして、それを口にした。
 あやめは悲しげに目を細め、はい、と短く答えた。その視線も下へ逸らされ、ガラスから妹の手が離れた。
「もう、お時間ですので……、わたし、もう行きます……」
 妹の細い声に、ちなみは我に返って何かを言いかけた。
 だが、そこでも彼女は言葉に詰まった。そんなちなみを見つめて、あやめはまた悲しい顔をした。
「失礼いたします、お姉さま……」
 あやめはそう言って姿勢を正し、それから深く頭を下げた。次に頭を上げたとき、妹はもう一度だけ例の眼差しをちなみへ注いだ。
 ちなみはまだ妹を見ていた。もう一言、妹から何かあるべきだと思った。なぜなら、この妹は自分を裏切ろうとしたのだから。
 けれど、それ以上の言葉はなく、あやめはちなみに背を向けた。
 「待ちなさい!」と、ちなみは叫びかけた。けれど、彼女はすんでのところでそれを思いとどまった。妹の背中に向けてそんな言葉を口にすることは、美柳ちなみのプライドが許さなかった。
 そして、彼女はひとり取り残された。
 


 

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