資格


 綾里真宵は傘を持ち替えた。
 その日、空は灰色だった。雨に濡れた傘は重みを増して、傘を差す手を時々替えなくてはいけない。そんな当たり前の仕草が、今日の彼女には少し煩わしかった。傘はきれいな赤い色を頭上に広げている。雨の日でも気持ちが明るくなるようにと彼女が選んだその色は、しかし、今日に限っては効果を発揮していると言 い難かった。
 辺りには季節の雨が降っている。あじさいが道ばたで毬のような花をつけていた。だが、雨の中できれいなその花に、真宵は一瞬目を向けただけで、すぐに足 下へと視線を落とした。
 足が雨水に濡れる気持ちの悪さに、元もと浮かない真宵の気分はさらに沈んだ。修験者の装束は素足の草履履きで、どうしても足が雨に濡れることを避けられ ない。今の彼女はもう少し立派な装束を着てくることもできたが、一瞬それを思い浮かべて真宵は溜息をついた。どちらも草履を履くことに変わりはない。素足 が濡れるか、ぐっしょりと雨を含んだ白足袋を履くことになるか、その程度の差しかない。
 彼女が目指しているのはとある法律事務所だった。綾里真宵にとって、そこは馴染みの場所になる。雨の日にこうして足を濡らして訪れたことも一度や二度で はない。
 けれど、自分はこれまでただの一度として、こんな重い気分を抱えてその事務所に向かったことはなかった、と彼女は思う。
 その法律事務所にいるのは、いつでも真宵にとって大事な人たちだった。弁護士だった姉の千尋。それに姉の弟子にあたる「なるほどくん」。真宵はいつも事 務所で彼らに会えるのを楽しみに、ウキウキとこの道を進んだと思う。少なくとも、雨だ、梅雨だと、そんなことを気にした覚えはなかった。事務所の主が姉 だった頃はもちろん、姉の弟子に変わった後も、それは変わらない。
 けれど、今日に限っては真宵の足取りは重かった。彼女はひどく疲れているようにのろのろと足を進めた。赤信号に引っかかっては、立ち止まれることにほっ とした。
 いつもなら、彼女は駅を出たら一刻も早く事務所に行きたくて弾むように歩く。
 赤信号になど引っかかろうものなら、ぷりぷりと腹を立てるのに。
「……こんなの、絶対おかしいよ」
 視線を下に向けて真宵はつぶやいた。
 自分がなるほどくんに会うのが怖いなんて、絶対におかしい。
 信号が青に変わって周囲の人波が動き始める。その流れに押されるように真宵も歩き始めた。足取りは相変わらず重い。けれど、理由なく立ち止まることはし なかった。彼女は、その事務所を訪れなくてはいけない。
 成歩堂龍一が弁護士バッジを失ってから、二ヶ月。
 綾里真宵が弁護士ではない成歩堂に会うのは、今日が初めてだった。


 そうして真宵がかなりの精神力を使ってたどりついたと言うのに、成歩堂龍一は実に変わらない様子で彼女を出迎えた。
「久しぶりだね、真宵ちゃん」
「うん、久しぶり」
 まったくいつもどおりの彼の挨拶に、真宵もつられていつもどおりに返した。成歩堂は真宵が知っている「なるほどくん」となんら変わりがない。その顔を見 て、真宵は自分でも気づかない内に肩に入っていた力を抜いた。雨のせいで窓から見える外は暗いが、事務所の中はいつもどおり明るい……いつもどおり?
「どうしたの? 入ったら」
 成歩堂は気安く声を掛けてくるが、真宵は戸口に突っ立ってすぐに動けなかった。彼女はしばらくぶりに訪れた事務所をその場で見回した。
「な、なるほどくん」
「うん?」
「なんか、物が増えてない? それも爆発的に」
 入り口から見ても事務所の変化は一目瞭然だ。この事務所の現所長は見た目によらず掃除好きで、事務所の内部はこれまでそれなりに整然としていた。そのは ずなのに、今はなにやら怪しげな物体が所狭しと置かれている。真宵は傘立てを探したが、新しい荷物の陰になっているのか、それとも場所を動かされたのか、 傘立ては定位置に見つけることができなかった。まさか置き場がなくて捨ててしまったということはあるまいが。
「ああ。みぬきちゃん……みぬきのマジックの道具がたくさんあってさ。彼女の家を引き払わないといけなかったもんだから」
「ああ、そっか。これ、全部、魔術の道具なんだね」
 すごいなー、と真宵は素直に呟いた。言われてみれば、どれも魔術ショーの舞台で見たことがあるようなものだ。タチミサーカスの事件では少し目にしたよう な気もするが、ほとんどの物はこんな間近で見る機会などない。それですぐに魔術道具と気づかなかった。
 真宵は、成歩堂が「傘立てならそこだよ」と示したすみっこで、行方不明の傘立てを発見した。傘立てを隠していたのは箱が三段に重ねられたようなオブジェ だった。彼女は傘を置いてからしげしげとその箱の重なりを見つめる。人体切断マジックに使われるものだと気がついて、少し興奮した。
 とりあえず座ったら、と成歩堂がソファを勧めてきて、真宵は箱を見たまま頷いた。
 いつかどこかで見たような気がする魔術道具が事務所のそこかしこに立っている。彼女は袖を引っかけてしまわないように気をつけてその間を歩いた。真宵が 迂闊に触れば崩れてしまいそうなバランスのものも少なくない。
 そうして、新しい荷物に囲まれたソファに腰を下ろすと、ソファの感触はいつもどおりだった。その感覚に彼女は少しばかりほっとする。だが、いつものソ ファから見る事務所の様子は、これまでとまるで違った。なまじよく知っている場所なだけに、いきなり変化してしまった眺めには違和感があった。
「お、チャーリー。ちゃんといるね」
 部屋の隅に見知った観葉植物を見つけて、真宵は思わず両手を合わせた。置かれた場所は少し変わったが、チャーリーと名付けられた観葉植物は、いつもの鉢 とセットで緑の葉っぱを広げている。
 元気そうだね、と言おうした真宵は、しかし、その葉っぱの様子を見て少しばかり眉をひそめた。
「ね、なるほどくん。なんかチャーリーの元気がない気がするんだけど。ちゃんとお水あげてる?」
 はは、と成歩堂はつくったように笑った。
「うん、みぬきがね……あの子に言わせると、自分より前からこの事務所にいるチャーリーくんは『先輩』なんだそうだよ。大事にしようとしてるみたいだけ ど……」
「けど?」
「ちょっと、水をやりすぎてるらしい」
「ははあ、なるほどねー」
 真宵はそれで納得した。この木は意外と手入れの加減が難しい。大事にするあまり手を掛けすぎると、逆に弱ってしまうのだ。チャーリーくんへの水攻めは、 真宵自身にも覚えがある話だった。
 その観葉植物は、真宵にとって姉の遺品のひとつと言えた。この事務所で長く、弁護士である綾里千尋を見つめた生き物だった。だから、真宵も大事にしよう とがんばったのだが、初めのうちは大事にしすぎて、逆にしばらく弱らせてしまったことがある。
 もう3年近くも昔の話だ。
「そっか、みぬきちゃん、だったよね。今は学校?」
「うん。もう2時間くらいで帰ってくるんじゃないかな」
 帰ってきたら紹介するよ、と言う成歩堂に真宵は頷いた。
「みぬきちゃん、チャーリーのこと大事にしてくれてるんだね」
「まあね。真宵ちゃん、良かったら水の加減を教えてやってよ」
「ふふん。じゃ、ここは真宵先輩に任せてもらいましょうか」
 真宵先輩ってなかなか斬新な響きでいいな、と思いながら真宵は軽く胸を張る。だが、彼女はふと思い直した。
「でも、どうせならなるほどくんが教えてあげればいいのに」それから思い立って彼女は付け加えた。「パパ、なんでしょ?」
「うーん……」
 その真宵の指摘に、成歩堂は顎に手を当てて考え込む仕草をする。およそ口よりもものを言うと評された男の顔には、明らかに「そうなのかな?」と疑いの文 言が書いてあった。
「……なるほどくん、その反応はどうかと思うよ……」
 その顔を見て真宵は思わずつっこんだ。
 成歩堂龍一が、よりにもよって消失した依頼人の娘を養女にすると聞いたときは、たしかに真宵とて度肝を抜かれた。だが、その話を聞いてからすでにひと月 以上が経つ。養女を迎えると決めた当人が未だに首を傾げているのは、さすがに「どうかと思う」。
 はは、と成歩堂は苦笑した。
「そうだね。……うん、もう手続きは済ませてる。なんだかんだで、上手くやってると思うよ」
「そっか……」
 それから成歩堂がコーヒーを淹れてきて、彼女の向かいに腰掛けた。
 成歩堂は少しうつむきがちで、真宵のほうを見ていなかった。真宵が身の置き場のない気分でいると、成歩堂が目を上げた。
「真宵ちゃんには、一度、謝らなくちゃと思ってたんだ。ろくに相談もしないうちに勝手にいろいろ決めて、悪かったね」
 真宵は一度口を開きかけて、けれど何も言えずに黙った。
 たしかに何もかもが突然だった。相談の有無をどうこう言う気は少ない。ただ、あんまりだと思うほどに早く、物事は変わってしまった。真宵は成歩堂の目を 見ていることが辛くなって思わずうつむいた。
「あたしこそ。……今まで来られなくて、ごめんね」
「仕方ないさ。真宵ちゃんは忙しかったんだから」
 成歩堂の声はこれ以上ないほどさらりとしていた。そのスガスガしさに真宵の胸が逆に痛む。たしかにここ数ヶ月、彼女は忙しかった。倉院流霊媒道の家元 だった真宵の実母が亡くなったのがこの二月。今回の出来事は真宵が家元を襲名した直後に起きた。タイミングとしては最悪だった。
「……でも、あたしは来たかったんだよ」言って、それから真宵は少し落ち込んだ。「そりゃ、あたしなんて来ても、なんの役にも立たなかったかもしれないけ どさ……」
「いや」短く、成歩堂が首を振る気配がした。「真宵ちゃんに相談しなくちゃいけないことは、本当にたくさんあったんだ」
 真宵は目を上げた。まじめな顔をした成歩堂の声は低かった。


 

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