資格


「え、えっと、……相談?」
 珍しくいやに深刻な顔をする成歩堂に、真宵は軽くうろたえた。いや、成歩堂が深刻になるのは当然だ。当たり前の顔をしているほうがおかしい。
 だが、真宵は今さら自分が成歩堂から相談を受けることがあるとは、あまり考えていなかった。真宵が話したいこと、聞きたいことは山ほどあったが、成歩堂 にとってこの状況はすでに二ヶ月前から続いている話で、文字通り「今さら」のことばかりのはずだ。
「なるほどくんが、あたしに?」だからそう尋ね返して、彼女はハタと思い当たった。「も、もしかして借金の相談とか……」
「い、いやいや!」一瞬前の深刻さを吹き飛ばす慌てぶりで、成歩堂は否定した。「さすがにそれはないよ!」
「なんだ。びっくりしたなあ」
「びっくりしたのはこっちだよ。……そりゃ、そのうちお願いすることはあるかもしれないけどさ」
「ええっ!」
「いや、だから、今の話じゃないって」
「……未来の分は否定しないんだね……」
 真宵は思わず洩らした。成歩堂法律事務所のフトコロ事情は真宵もある程度知っている。最近はそれなりに安定して依頼が来ていたし、真宵が頼めばお小遣い をくれるくらいのゆとりはあった。とはいえ、左団扇と呼べるほどでないのもたしかだ。一家の大黒柱が無職では、この先、少なくともしばらくの間は確実に苦 しくなるだろう。
 うっかりカリヨーゼにでも行かれたら大変だ、と真宵は思う。それなら綾里家を頼ってくれたほうが良い。……共倒れになる可能性はあっても。
「でも、借金じゃないとすると……なるほどくんがあたしに相談って、なに?」
「シャッキンシャッキン言うなよ……縁起が悪いから」
「そうだよねー。なんか、ロボットみたいにシャッキンが近づいてきそうだもんね。……じゃあ、相談って?」
「うーん……まあ、色々あるんだけど」軽く成歩堂は天井の辺りへ目を向けた。「とりあえず、この事務所のこと、かな」
「え、」真宵もつられて天井を見上げた。「ここ?」
「うん、ここだね」
 真宵は成歩堂ともども黙って事務所の頭上を見つめた。
 当然と言っては味気ないが、物を配置されることのない天井は以前の姿と変わらない。二人が黙ると事務所の中は静かになって、ただ雨の日の音だけがした。 雨の音。窓ガラスを叩く雨粒の音。濡れた路面を走る車の音。
 その中で、真宵は蛍光灯に照らされた白い天井を見ている内に、成歩堂が言わんとしていることが少しわかってきた。思い当たったというわけではなく、それ は思い出したと言うべきだった。「成歩堂龍一は、この事務所について必ず真宵に話をしてくるだろう」。そんなことを指摘した人物がいたのだ。
 真宵は成歩堂を見た。成歩堂は、すでに視線を真宵に戻していた。
 真宵が視線を降ろすのを待っていたように、成歩堂が口を開いた。
「ここはさ、ほら、……千尋さんが興した事務所だから」
 成歩堂は理由の分からない苦笑を浮かべて言った。そのあまり緊張感のない顔を見て、真宵は「ええっ、今さらナニ」と驚いて見せようかとも思った。だがそ れはやめる。彼女は素直に頷いて応えるだけにした。この≪相談≫は、少なくとも成歩堂にとって楽しい内容ではないはずだ。口に出した成歩堂からためらうよ うな様子は見て取れなかったが、それでも綾里真宵は知っている。成歩堂龍一という男は、どういうわけか彼自身にとっての重大時に限って、妙にさっぱりして いるのだ。
「うん。そうなんだよね」真宵は認めた。「けど、ほら! ここはもうなるほどくんの事務所だし!」
「まあ、そうかな」彼は軽い調子で頷いた。「……少し前までは、ぼくもそう思ってたしね」
 どきり、と自分の胸が鳴る音を真宵は聞いた。成歩堂は真宵の顔を見て、また少し笑った。
「ここは千尋さんが法律事務所として開いた事務所だからね。千尋さんはぼくの師匠で、弁護士のぼくは千尋さんの弟子のつもりだった。だからここを引き継い だけど……でも、今は違う」
 ぼくはもう、と成歩堂はさらに何かを続けようとした。
「なるほどくん」
 真宵はとっさにそれをさえぎった。成歩堂が「うん?」と聞き返してくる。けれど、さえぎることだけを目的に発せられた名前に続きのあろうはずはない。言 うべき内容を用意していなかった真宵は、言葉に詰まってしまった。
 真宵にしてみれば、成歩堂龍一は今も間違いなく綾里千尋の弟子だった。だから、会話を繋ぐためでも、そうだね、なんて簡単な相づちは打ちたくない。けれ どそれと同時に、異議あり!と安易に否定することもできなかった。
 言うべきことを見つけられず、真宵はええと、と沈黙を無理やり埋めた。
「ええっと……だから、そう! なるほどくん、なるほどくんだよ! なるほどくんはどうしたいのよ」
 真宵はそう聞いてみた。とっさの思いつきにしては、出てきた質問は上出来の部類に入るだろう。
「え、ぼく? ああ、うーん……どうだろうね」成歩堂龍一は人ごとのように首をひねってから、場違いに苦笑した。「みぬきちゃんはここを芸能事務所にしよ うって言ってるけど」
「げーのーじむしょ?」
 その単語が真宵のアタマの中で「芸能事務所」と漢字変換されるまでには少しの時間を要した。
「……げ、げーのー事務所って、まさか、芸能事務所のこと?」
「うん、芸能事務所、だね。タレントなんかがいる」
「た、たれんと……」
 真宵はわずかにのけぞった。成歩堂はただ苦笑を浮かべている。
「……た、タレントって、芸能人のこと、だよね?」やっとのことで真宵は尋ねた。「ゲーノー人なんて、いるの?」
「うーん、そうだね。みぬきは魔術ができるからいいとして、問題はぼくだよなあ」
「マネージャーさんをするとか?」真宵は思いつきを口にした。「昔のキリオさんみたいに」
「でも、タレントがみぬき一人だと、ここを維持するのはちょっと厳しいと思うな……」
 成歩堂は真顔で顎に手を当てた。話の内容が内容なので冗談としか思えなかったが、その顔を見れば成歩堂が本気であることが分かる。ただし恐るべきは、そ の真面目さに他人事という雰囲気が同居していることだろう。
 否。むしろ成歩堂龍一ならば、文字通りの他人事に対してのほうが、今よりよほど真摯に臨むに違いない。
「……なるほどくん」
 真宵は思わずため息をついた。成歩堂はよく言えば落ち着きすぎているとも言えるが、あまりにも自分自身に無頓着に思われた。これではまるでネジが一本抜 けてしまっているようだ。
「ねえ、なるほどくん。ちゃんと考えてよ!」
「考えてるよ。かなり」
「じゃ、じゃ、例えばなるほどくんって何かできるのよ!」
「うーん、とりあえずピアノとかどうだろうと思ってるけど」
「えっ。なるほどくん、ピアノなんて弾けたの?」
 成歩堂はあらぬ方を見やって首を傾げた。
「……猫踏んじゃったくらいは、弾けたかなあ」
「それくらい、はみちゃんだって弾けるよ……」
 思わずぼそりとつっこんで、真宵は右斜め下を見た。
 この事務所が法律事務所から「芸能事務所」になってしまうことには、さすがの真宵も複雑な気分を禁じ得ない。だが、どう見ても、それ以上に問題があるよ うに思えてならなかった。


 

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