資格


 成歩堂龍一は改めて綾里真宵を見た。
 一瞬前には彼女の姿に重なるように綾里千尋の姿が見えた気がした。かつて、この事務所を託されたときにも同じ何かを目にしたように思う。自分の霊感など 信じたことはないが、それを幻と思ったことはなかった。少なくとも真宵から受け取ったものは千尋の意志に違いない。
 その千尋の姿が消えて、成歩堂は今になってようやく真宵の姿がきちんと目に入ってきたように思った。真宵はまったくいつもどおりの様子で、いつものよう にソファに座っている。そのカッコウも修験者の装束で変わりない。今、目に映るもので変わったものがあるとすれば、それはやたらと物が増えた事務所の眺めだ けだ。
「真宵ちゃん……」
「うん?」
 名前を呼ぶと、大きな目をくるくるさせて真宵が問い返してくる。自分に向けられるその眼差しは、これまでとまったく変わりなかった。事務所の様子は変 わってしまった。成歩堂龍一の身分も、前に彼女と会ったときとは違う。事務所の名前すら変わろうとしている中で、目の前に座る綾里真宵は本当に変わりがな かった。
 成歩堂はなぜか、その真宵の姿を見ていて息苦しさを覚えた。
「……千尋さんの伝言、ありがとう。でも、やっぱり真宵ちゃんにも聞かなきゃならない」
「ええと……あたし?」
「うん」成歩堂は膝元で手を組み合わせた。「真宵ちゃんは、どう思う? ここを芸能事務所にしちゃっていいのかな」
 それは、やはり成歩堂にとって確認しなければならないことだった。千尋からの伝言はたしかに受け取った。だが、真宵の意志は、まだきちんと聞いていな い。成歩堂はイヤだと言われることも覚悟した。それは当然だ、という気がする。この法律事務所は綾里真宵にとってこそ特別な場所ではないだろうか。事務所 で過ごした時間は成歩堂のほうが長いかも知れないが、綾里真宵は成歩堂よりも以前からここを知っている。何より、この事務所は真宵の姉が開いた法律事務所 であり、そして、彼女の姉の最期の場所だ。
 真宵は成歩堂から視線を外し、事務所の中を見渡すようにした。
「そうだね。……ここが、法律事務所じゃなくなるのは、やっぱりちょっと残念かな……」
 真宵は言った。成歩堂はうん、と頷く。
「でもね、なるほどくん」
「うん?」
「あたしはなるほどくんがここにいなくなる方がイヤだな」
「え?」
「だってさ、考えてもみてよ。他の人の事務所になっちゃったらさ、あたし、ここに遊びに来ることもできなくなっちゃうじゃない? なるほどくんがいてくれ ればさ! あたしもまた、こんな風に来られるし」
 思わず目を上げた先で、綾里真宵が笑った。
「だから、あたしはなるほどくんがここにいてくれる方が嬉しいな」
 成歩堂はどう言って良いかわからず、しばらく黙った。
「……そうか」成歩堂は思わず呟いた。「その発想はなかったな」
「考えが甘いねー、なるほどくん」
 ケラケラと真宵が笑う。普段なら腹を立てたかも知れないが、成歩堂は苦笑してソファの背にもたれかかった。
「はは……」
 成歩堂は真宵につられるようにして短く笑った。笑いながら、急激に脱力する自分を感じた。
 この事務所まで失うことになるのではないかと、自分がどれだけ考えていたか、彼はそれでようやく気がついた。もはや弁護士ではない自分にはここにいる資 格がないのだと、誰に言われずともそう思っていた。だが、成歩堂自身がそう思っていただけで、案外、周囲にとってはそういうものでもないらしい。
 見るともなく見上げた天井は、物が増えた事務所の中でも変わりない。天井の白さと蛍光灯が眩しくて、なぜか少し目にしみた。
「本当にいいのかな……」
 思わず口にすると、向かいで小さく吹き出す声がした。
「だって、なるほどくん。事務所を追い出されたらこの魔術道具どうするのよ。なるほどくんのアパートには絶対入らないでしょ、これ」
 見れば真宵が成歩堂を斜めに見上げてにやりと笑っている。
「そ、そんな、知ったふうに言うなよ」なぜか足下を見られた気分になって成歩堂は慌てた。「絶対入らないってほどじゃないって!」
「えー、そう? だって、これ全部でしょ?」真宵が事務所を見回す。「うーん……入れるだけならできるかもしれないけどさ。そしたら今度は寝る場所なくな るんじゃないの?」
「う……」成歩堂もまた事務所の入り口まで山積する魔術道具を見てうめいた。「そ、それは、そうかもしれないけど」
「でしょ、でしょ。だからさ、使っちゃいなよ。この事務所」
 そんな理由でいいのかよ、と言いたくなるのを成歩堂は留めた。ここで自分がさらに食い下がるのは立場が逆だった。
「……わかったよ」成歩堂は苦笑して頷いた。「じゃあ、ありがたく使わせてもらうから」
「そうこなくちゃね!」
 その声で、成歩堂は本当に力が抜けてしまった。


 それから二人で少したわいのない話をした。内容はげーのー事務所のことと、成歩堂の娘の話がほとんどを占めた。話しているうちに、成歩堂は真宵から教わ ることが意外と多いことに気がついた。真宵も幼い従妹とすぐそばで暮らしている。真宵は母親が獄中にいるその従妹の姉役を自負していた。小学校のイベン ト。そのちょっとした手続き。連絡のプリントの内容と取り扱い。倉院の里の小学校と街中の小学校では違いもあるだろうが、共通することも多いだろう。こん な話題で盛り上がることになろうとはと、少し二人で笑った。
「あ、そうだ……」
 綾里春美の話がいくらか出たことで、成歩堂はもうひとつ、しなければならないことがあったのを思い出した。成歩堂はポケットに手を突っ込んだ。今の、あ る意味で軽い気分の内にすませておこうと彼は思う。
「真宵ちゃん、これ」
「え? あ……」
 成歩堂は真宵に勾玉を差し出した。ただの石ではない。やわらかい光を放つ、ふしぎな石だ。成歩堂がずいぶん以前に彼女から預かり、そのまま借り受けてい た。ずいぶんこの石に助けられてきたが、その機会ももうなくなるだろう。
「長い間ありがとう。こいつには何度も助けられたよ」
 真宵はしばらく勾玉を見つめていたが、少し笑ったような顔をした。
「役に立った?」
「うん、ものすごくね」
「そっか。それなら良かった」真宵は頷いて勾玉を受け取った。「じゃあ、……ちょっと待ってね」
「え、待つ?」
 尋ねたが、返事はなかった。真宵は両手に閉じこめるように勾玉を握り、目を閉じている。さほど長い時間のことではなかった。
「よし」
 真宵は目を開けると、にっこりと笑う。
「さっすがハミちゃん! いやぁ、いい力の状態だねー! ゼンゼン問題なし!」
「え」
「でも、ちょっとだけ力を込め直しておいたから」
「え?」
 力を込め直しておいたって、と口を開ける成歩堂に、真宵は勾玉を突きつけた。
「さ、なるほどくん持った持った」
「え、でも……」
「今まで役に立ったんでしょ? それならこれからも役に立つよー? これ」
「いや……それはたしかにそうかもしれないけど」
「じゃ、ほら、持つ」
 ずい、と鼻先に緑の石が突きつけられて成歩堂は少し首を引いた。
「いや、でも、ぼくはもうさ……」
「なに言ってんの! これからのほうが要るでしょ!」
 真宵は言った。ふくれたような表情はなかなか厳しく、真剣に言っていることがわかる。例の芸能事務所のことだろうかと成歩堂は首を傾げた。たしかに人の 心の秘密に気づけるこの石は、どんな場面でも有益ではあるが。
「そんなに要るかな?」
「あったりまえだよ! これでなるほどくんを罠にかけた犯人を捕まえるんだからね!」
 その言葉に、成歩堂の胸の辺りが急に冷えた。
「……え?」
「だってほら。犯人は現場に戻ってくるって言うじゃない。だったら、なるほどくんを罠にはめた犯人は、なるほどくんの所に来るでしょ」
「どうして……」
「ん?」
「いや」成歩堂は軽く首を振った。「ぼくは事件現場かよ……」
「似たようなもんじゃないの?」
 つっこんだ成歩堂に対して、真宵は身も蓋もない断定をする。とりあえず鼻先に突きつけられたその手を(話ができないからと)下げさせて、成歩堂は真顔に なった。
「真宵ちゃん……」
「ん?」
「どうして罠だって思った?」
 もちろんそう考えるのが筋であるし、成歩堂自身は「やられた」と感じている。だが、この日まで、成歩堂は真宵にあれが罠だと明言したことはなかった。だ から尋ねたのだが、
「だって、なるほどくんがねつ造なんてするはずないじゃない」
 ナニ言ってんの、と真宵は目を丸くした。あんまり簡単に断言されて、成歩堂のほうが軽く口を開けてしまう。
「いや……真宵ちゃん。一応、ぼくは限りなく怪しい……ってことになってるんだけどね。偽の証拠を提出したのは間違いなくぼくなんだし、他にあんなものを 用意してメリットがある人間も……」
「そんなの関係ないでしょ!」
「……」
「なるほどくんがそんなことするはずないじゃない。そりゃあ、なるほどくんの裁判はいつも崖っぷちだし、胃も……なんていうの? キュン! とする感じ だったけど。それでも今までねつ造なんかしないでなんとか≪真実≫を明らかにしてきたじゃない。そのくらいあたしでも知ってるよ!」
 両手を握りしめて真宵が言う。それから不意に真宵は笑った。
「……案外、それがいちばんわかってるのはなるほどくんにやっつけられた真犯人かもしれないけどね!」
 成歩堂も笑い返そうとして、しかし八割方は失敗した。彼は膝の辺りに視線を落として、真宵から目をそらした。
「でも、ぼくが無罪だって証拠はないんだ」
 それが、けっきょく、成歩堂に対する処分に繋がった。「した」という証拠を見つけることは意外と易しい。なぜなら、何かをした後にはなにがしかの痕跡が 残るからだ。その痕跡こそが証拠と呼ばれる。けれど「していない」証拠を探すことは難しかった。そこには初めから何もない。痕跡など存在しない。けれど痕 跡がないということは、ただ見事な隠蔽の可能性を示し、それを無実の証拠とはしないのだ。
「証拠なんて関係ないでしょ」
「お、おいおい」真宵の発言に成歩堂は我に返って顔を上げた。「それは司法に対する挑戦だぞ」
「ていうか! あたし思うんだけど! 仮になるほどくんが有罪だっていう証拠があっても、あたし信じないよ! そんなの、その証拠のほうが偽物だね」
 唖然と成歩堂は口を開けた。なんの根拠もないであろう真宵の台詞は、しかし、今回に限っては正しかった。少なくとも、成歩堂はねつ造に関しては間違いな く無実なのだから。
「たしかにそうかもね」
「そうだよ!」
 決まってるじゃん、と真宵が言う。
 成歩堂は笑った。笑ってしまった。


 

next

closed