資格


 急に鳴った大きな音に成歩堂はぎょっとした。目の前では真宵も半ば飛び上がるほど驚いている。鳴ったのはウカレた着信音ではなく事務的なベルだった。携 帯電話ではなく、事務所に備え付けの電話の音だ。
「あ、で、デンワだね」
 慌てたように目元をこすって真宵が当たり前のことを言った。成歩堂も電話のほうを向いたが、とっさにマスコミだ、と考えた。あの事件以降、この事務所に 掛かってくる電話と言えばマスコミからと決まっている。彼の知人・友人たちは携帯電話に連絡を寄越すので、余計にそう考えるのがならいになっていた。
 けれど……。
「なるほどくん、電話、出なきゃ」
「……出なくていいよ」成歩堂は答えた。「マスコミだから。最近、よくかかってくるんだ」
「え、でも……」
 依頼人だったら、と真宵が呟く。言われるまでもなく、成歩堂もそれに気づいていた。
 これが成歩堂法律事務所への依頼の電話だったらどうする。だが、そんなはずはないと成歩堂は否定する。今さら成歩堂龍一に弁護の依頼が来るはずはない。
「あ、あたしが出るよ! マスコミだったら追い払ってやるから!」
 鳴り続ける電話の音に耐えかねたのか、綾里真宵が腰を上げた。きっとそうだ、ベルというのはなんだって、基本的に人の神経に障るようにできているから。 そんなことを思いながら、成歩堂は真宵の手首をつかんだ。驚く真宵をそのまま引っ張り、元のように椅子に座らせる。
「な、なるほどくん?」
「いいから」鳴り続ける電話から目をそらし、成歩堂は言った。「どうせマスコミだよ」
「だけど、もし依頼人だったら……」
 依頼人だったら?
「それはないよ」
 今さら成歩堂龍一に依頼が来るはずはない。
 コールは十回を超えてもやまなかった。そのしつこさはいかにもマスコミに思われた。それでも真宵が落ち着かなげに再び立ち上がろうとするので、成歩堂はついに彼 女の両肩を押さえた。
 真宵が大きく目を見開いた。「な、なるほどくん?」
「出なくていいよ」成歩堂は真宵を見下ろした。
「でも……」
「いいから」そう言う自分の視界が、徐々に歪んでいくことに成歩堂は気がついた。
 依頼じゃない。そんなはずはない。そう思うのに、やまない電話のベルはなぜか叫びのように聞こえた。助けてと電話が呼んでいる。私は無実なんです。信じ てください。助けてください──。
 これまでただの一度も、この電話の音をそんな風に感じたことはない。
 それなのに、成歩堂は今さら気がついた。依頼の電話が掛かるとき、それはいつでも、依頼人の切実な叫びだったのだ。この法律事務所は孤独な人たちに対して最後にすがる藁のように開かれていた。だからここの電話のベルは、いつでも助けてと必死で叫ぶ人々の代弁をしていたのだ。
 だが今さら気づいても遅すぎる。
「いいんだ」成歩堂は言った。「ぼくにはもう、何もできないから」
 真宵が大きく息を呑んだ。
「で、でも……」
「大丈夫だよ。いい弁護士なんて、他にいくらもいるし」
「そうじゃなくて、なるほどくんが……」真宵の手が伸びて、成歩堂の頬に触れそうになる。
「うん」成歩堂は頷いた。「……あのさ、真宵ちゃん。悪いんだけど」真宵の言いたいことはわかったので、成歩堂は言った。「……ちょっとだけ、このまま、 ぼくの顔見ないでくれるかな……」
 そこが我慢の限界だった。成歩堂は返事を待たず、真宵に覆い被さるように彼女の肩に顔を伏せた。
 成歩堂は歯を食いしばった。せめて、泣き声を彼女に聞かせたくはなかった。強がりなのか、男の意地なのか、それともきっと心配をかけるからなのか、自分 でもよくわからない。ただ、涙だけが抑えられなかった。バッジを失って、今まで泣いたことはない。泣くなんて、自分でも思っていなかった。だが成歩堂は気 がついた。
 彼は弁護士でありたかった。
 弁護士は、法廷で戦い≪真実≫を見つけだす。実際に弁護士になって、成歩堂はそれを学んだ。だが弁護士が検事とも刑事とも違うのは被告人のためにあるからだ。あらぬ疑いを掛けられ、疑われ、味方のいない、誰にも信じてもらえない被告人を、弁護士だけは信じて、そして被告人のために戦う。かつて孤独を感じ た学級裁判の自分のように、頼る人もなく孤独な人たちがいる。成歩堂は、彼らを最後まで信じる味方になりたかった。
 大事なことだった。真宵の言うとおりだ。それが、いちばん大事なことだった。
 けれど、成歩堂にはもうできない。
 その資格はすでに成歩堂龍一にはなかった。その資格は理不尽に剥奪され、そして成歩堂自身が維持することを放棄したのだ。
 真宵がじっとしている気配が伝わった。じっとしているしかないのだろうと、成歩堂はどこかで冷静に思ってもいた。二回りも大きい男の両腕が両脇に突かれ ていて、彼女にはろくに身動きする余地もないはずだ。
 けれど、やがて軽い感触が頭に触れた。温かい手がうなだれた成歩堂の首の後ろをさすって、それからそっと引き寄せられた。成歩堂はその力に逆らいかけ て、けれど抵抗できずに、彼は自分の顔を真宵の肩口に押しつけた。
「こうすれば、見えないよね……」
 優しい声がして、それから小さくしゃくり上げる音が耳元でした。首筋に肌が触れた。濡れているのは、きっとそれが彼女の頬だからだ。
 成歩堂は立っていられなくなってそのままその場に膝をつく。すがるように真宵を抱きしめた。
 嗚咽も堪えきれなくなると、頭をぎゅっと抱きしめられた。
「いっぱい助けてもらったのに……何もできなくて、ごめんね」
 真宵が言う。
 彼女の腕の中で、成歩堂は首を振った。そうじゃないと言いたかったが、嗚咽で言葉は出ない。変わりに彼女を抱きしめる腕に力を込めた。


 気がつけば電話の音はやんでいた。それどころか雨までやんでいた。
 一体どれだけの時間、二人で泣いていたのか。さんざん泣いて気が済んだ……というわけでもないと思うのだが、成歩堂はなんというわけでもなく徐々に泣き やんだ。いつの間にか真宵がしゃくり上げる声も止まっていた。
 そうして二人揃っていったん泣きやんでしまうと、成歩堂は別の理由から顔を上げることができなくなった。
 一言で言えば恥ずかしい。ある意味で泣き顔を見られるよりもはるかに恥ずかしい状況だった。七つも年下の女の子にすがりついて何をやっているのかと、今 さら冷静さが戻ってきてしまう。
 ハッキリ言って身動きが取れず、成歩堂はそのままで赤面した。いや、身動きが取れないのもマズイ。事情はどうあれ、完全に真宵を抱きすくめているこの姿 勢はマズイ気がする。下手をすれば祟らる。
 懊悩する男の耳元を、吐息がくすぐった。
「なるほどくん、なんか、カオ真っ赤だよ?」
 吹き出すような口調で言われて、成歩堂はようやく顔を上げる契機を与えられた。それでも往生際は悪いと思ったが、顔の下半分を手で隠すのは我慢できな かった。
「し、仕方ないだろ、恥ずかしいんだから」
「あたし、男の人が声を上げて泣くところ初めて見たよ」
「うるさいな」
 ていうか、今までもいたろ。優作くんとか、矢張とか、と成歩堂は思ったが口に出すだけの余力はまだない。照れのあまりふてくされた成歩堂の視界の端で、 真宵が笑いながら目元の涙をぬぐっている。その姿だけを見れば、笑いすぎて涙が出たように見えるかも知れない。
「ま、なるほどくんが泣きやんでくれてよかったかな。パパを泣かせたって思われたら、あたしがみぬきちゃんに叱られちゃうもんね」
 真宵の指摘に成歩堂は思わず時計を見た。
「そ、そうだった」時計の針はすでに娘が帰ってきてもおかしくない時間になっている。「危なかった……」別の意味で、と思ったが、これまた口には出せない ことだった。
 もっとも成歩堂が安堵したのもつかの間で、実際には下校したみぬきは真宵を見るなり、もしかして新しいママですか、などと言い出して大人(?)二人を少なからず慌てさせた。成歩堂は真宵とそろって、この年頃の女の子は鬼門だと汗をかくはめになる。春美にもさんざん言われているのだから、いい加減、 馴れればいいようなものだが、どういうわけか動揺せずに済ませられるようにはならないらしい。
 もっとも、その出合い頭の一撃を除けば、みぬきと真宵はすぐに仲良くなった。もとよりどちらも人見知りするタイプではないし、当然と言えば当然だろう。
 だが、それもほんの二時間ほどのことに過ぎない。今日中に里に帰らなくちゃ、と言った真宵に成歩堂は少なからず驚いた。
「えっ、こっちに泊まっていくんじゃなかったの?」
「ううん、今日帰るよ。これでも家元・真宵ちゃんは頑張ってるからねー」
 あっけらかんと語る真宵に、成歩堂は申し訳ない気分になった。真宵に早速懐いた娘は残念がったが、こればかりは無理強いするわけにもいかないの だろう。今の真宵には、立場がある。
 日がすっかり長くなった六月。夕暮れにはまだ早い中、成歩堂は娘と真宵の三人で道を歩いた。雨あがりの蒸し暑さがあって、夏が近いのを感じる。真宵は道 すがらみぬきの話を聞いては、今日のステージを見られないことをずいぶんと残念がっていた。いくつかの出し物は先ほど事務所でも娘が披露して、当然のごとく真宵も大喜びでいたかが、ステージはまたベツバラというところなのだろう。
「また来てくださいね!」とみぬきが言い、成歩堂もこれに同意する。
「今度は春美ちゃんも一緒においでよ。みぬきと歳も近いし」
「お、今の、パパっぽいね」
 そんなやり取りをして、いったんビビルバーでみぬきと別れた。娘は真宵との別れを惜しんでいたが、ステージの準備のあるからと一流のプロ根性を発揮した結果だ。
 娘のプロ意識にはいつも少なからず感心する、そんな話をしながら成歩堂は真宵と二人で駅に向かった。
「みぬきちゃん、いい子だね」
「うん。すごくしっかりしてて、ずいぶん助かってる」
「なるほどくんも、けっこういいパパしてるじゃない」
「あ、そうかな?」
「うん。案外サマになってるって感じ」
 おお、珍しく高評価だ、と思いながら成歩堂は笑う。
「みぬきちゃんてさ……」
「うん?」
「お母さんがいなくて、お父さんまで、いきなりいなくなっちゃったんだよね……」
「うん」
「もう8歳なら色々分かるし、きっとすごくショックだよね……」
「そうだね……。あんまりカオには出してないけど」
 だが、ショックでないはずがない、と思いながら成歩堂は真宵を見た。彼女にもまた二親がいなかった。父親はいなくて、母親が失踪した。真宵の母親が消え たのは、彼女がまだ2歳にも満たない頃だったはずだ。真宵はその時のことを覚えていないだろうけれど、何も思わないはずはない。
「力になってあげてね」
「うん」
 そう答えて、それからふと、胸の内に芯が一本通るのを成歩堂は感じた。
「……そうか」
 力に。その言葉が、不意に成歩堂の胸の内を温める。ああ、そうか、と成歩堂はもう一度思った。まだ自分でも誰かの助けになれるのか。そう思うと、いつの間にか失わ れていた力が少し戻ったように思われた。あの幼い娘が実父と再会するか、あるいは支えの必要ない大人になるまで、あの子の力になろう。
 弁護士でなくなっても誰かの助けになれるというなら、それこそが、この先自分の支えになるだろう。
「そうだね。まあ、なんとかやってみるよ」
「うん」真宵が頷く。「あ、そうだ」
 彼女はなにやらごそごそと袂を探った。
「じゃ、ケッキョク、これどうする?」
「ああ……」
 そうして差し出されたのは例の勾玉だった。それを前に、成歩堂は考える。もう彼は、弁護士ではない。だが、いつか何かの時に、これを娘のために役立て られるだろうか。弁護士・成歩堂龍一の最後の裁判も、完全には終わっていなかった。あの消えた依頼人を再び捜し出す機会があるだろうか。
「……そうだね。じゃあ、もうしばらく預かっていいかな」
「うん」
 勾玉を受け取ると真宵が笑った。勾玉に残るぬくもりが染みるように温かく思えて、成歩堂は思わず苦笑した。
「ああ、なんか。今日はぼく、すごく情けなかったな」
「そうだねー、いっぱい泣いたし」
「……」
「……でも、安心した」
「え?」
「だって、最初来たとき、なるほどくん、あんまり平気な様子だったから……」
「ああ……うん、そうだね」成歩堂は頷いた。「うん。……自分で思ってたより、ずいぶん平気じゃなかったみたいだ。気がつけて良かったよ」
 案外、人間は大事なことを忘れてしまえるんだな、と成歩堂は思う。その結果、自分は本当に大事なものを失った。
 だが、人生は引き返せない。元に戻ってやり直すことはできない。失ったものを拾いに帰ることはどうしたってできない。今さらながら成歩堂の胸は痛んだ。それでもこの先、二度と今度のことを忘れることはないだろう。
 だから、本当に気づけて良かった。
「真宵ちゃん」
「うん?」
「ありがとうね」
「うん。じゃ、がんばってね、なるほどくん!」
 真宵は軽く言って、電車に乗り込んだ。
 以前、この駅の同じホームで彼女に感謝されたことを覚えている。
 あの時、襟元につけていたバッジはもうない。
 けれど、成歩堂龍一は襟を正して綾里真宵を見送った。


 

closed