不完全相似性


 王泥喜法介の日課は、なんであろう、早朝からの発声練習とチラシ配りである。
 成歩堂なんでも事務所と書かれたそのチラシで弁護士たる王泥喜の客が本当に来るのかは甚だ疑問に思われたが、何もせずにいれば100%客は来ない。チラ シの作成にもいい加減馴れてきた感のある王泥喜作の今回のチラシは、無難にまとまった出来になったと自負していた。現副所長であり、かつては王泥喜と同じ職 に就いていた男は、「……≪カッポレ! ナルホドー≫とか?……」と意味不明なセリフを口走ったが、これはぺーぺーの王泥喜によって却下されている。何分にも 「なんで も」などという恐ろしくファジィな事務所の名前で法律家としての信用を得ようと思うなら、敷居の低さをアピールしつつもくだけすぎてはいけない、というの が王泥 喜のコンセプトだった。あんまり怪しげな事務所の弁護士だから確実に被告を有罪にしてくれるだろう、などと思われるのは、一度きりでごめんというものだ。
 自慢の大声を武器に声でも宣伝しつつ、本日のノルマに当たるおおよそのチラシを配り終えたところで、王泥喜法介は知り合いに声を掛けられた。
「あれー? 成歩堂さんとこの子じゃない」
 これが大学時代の同輩だったりすれば王泥喜としては逃げ出したくなるところだが、幸か不幸かその知り合いは王泥喜が現在の事務所に移ってから知り 合った人物だった。名前は宝月茜と言ったろう。なぜかいつも白衣を着ている女性刑事だ。刑事ということは、この場合、鑑識官でないことを意味する。
「……その、成歩堂さんとこの子って言い方、やめてもらえませんか」
 挨拶もそこそこに法介は異議を唱えた。茜はどうしてー?と目を丸くしているが、法廷記録がたしかなら、茜は法介と五つや十も違うわけではないはずだ。「子」呼ばわりされる覚えはないし、ついでに言うと冠詞もよけいだった。
「ね、成歩堂さんも来てる?」
 法介の異議をさらりと聞き流して、茜は言った。彼女のマイペースっぷりにはすでに王泥喜もなじみつつあるところで、法介は諦めの溜息を交えて律儀に答えた。
「来てないですよ」
「え? あ、あれ? そうなの?」少し驚いたように茜は頬に手を当てた。「事務所、誰もいなかったから。みんなでチラシ配りしてるんじゃなかったわけ?」
「ああ、この時間帯にうちの事務所が無人って珍しいですからね」
 成歩堂なんでも事務所は現役中学生の所長を除けば、昼に出かける用事がある人間は多くない。もちろん、法介が弁護の依頼を受けられればその状況も変わるはずだが、それでも怪しげなピアニストの成歩堂龍一は昼間事務所にいることが多いだろう。
「今日は成歩堂さん、ちょっと用事があるとか言って出かけましたよ」
「ええっ、そうなの?」
 間が悪いなあと刑事さんはぼやいた。
「成歩堂さんに何か用事ですか?」
「ん? あ、え……えっと、別にね。用事ってわけでもないんだけど」珍しくごにょごにょと茜は何か言っている。「今日、非番なのよね、あたし。ちょっとお もしろいモノを作ったんで、成歩堂さんにも見て欲しいなって思って」
「はあ」と法介は短く相づちを打った。「すみません、ちょっと成歩堂さんがどこ行ったかわからないんですけど、ケータイで聞いてみます?」
「えっ? あ、ううん……いいわよ。そこまでじゃないから」
 明らかにテンションの下がった茜を見ながら、ほんとにいいのかな、と思いながら法介は答える。
「そうですか?」
「うん、まあね。……あーあ、でもせっかく来たのに暇になっちゃったわね」
 刑事だから休みはそう多くないように思えるのだが、文字通り休むという選択肢はこの刑事さんには無いらしい。おそらく、四六時中口にしているお菓子のカ ロリーは、こうしたところで消費されているのだろうと、法介は勝手に納得した。
「ね、あんた……オドロキくんよね。オドロキくんはいま暇なわけ?」
「はあ……そうですね。もうチラシもあらかた配り終えましたし」
「じゃあさ、せっかくだからちょっとお茶にでも付き合いなさいよ」
「別にいいですけど……割り勘なら」
「しょうがないわね。ま、いいわ。あたしから誘ったんだし」
 あんまり高いところも困ります、と付け加えると、わかったわかったと応えて刑事さんはどこにでもあるドーナツショップを選んだ。


 刑事さんは窓際の禁煙席に法介の運んだ山盛りのドーナツを置かせた。法介にすれば見ているだけで胸焼けするようなその量は、もちろんほとんどすべてが茜のチョイスで、法介自身はコーヒーと総菜に近いパイ をふたつほど選んだだけである。
「ね、成歩堂さんって、煙草吸うの?」
「え、煙草ですか? 吸ってるところは見たことないですけど」
「へえ、そうなんだ」
「煙草も安くないですからね」
「その根拠って少しもカガク的じゃないわね」
「そうでしょうね。経済的な問題ですから」
 法介がにべもなく応えると茜は面白く無さそうな顔でドーナツに手を伸ばした。
「茜さんは、今日は非番なんですか?」
「そうよ」
「休日も白衣なんですね」
「トーゼンでしょ。これはあたしのアイデンティティなんだから」
「刑事さんって、やっぱりお休みは少ないんですか?」
「そうね。きっちり完全週休二日ってわけにはいかないわね。刑事なんて仕事は、本当なら暇なほうがいいんでしょうけど」
 じゃあ久しぶりのお休みに、わざわざ成歩堂さんの所を訪ねに来たのかこのひとは、と思ったが、そこは口にしなかった。
「でも、そんなに久々ってわけでもないわよ。今日なんてあっさり休みが取れたし」
「ああ、そうなんですか?」
「そ。なんか、あのじゃらじゃらの検事さんがさ、その日はボクも休みだからいいよ、とかわけのわかんないこと言ってくれちゃって」
「……はあ」
「おまけにあいつ、自分が休みじゃないからダメって言うこともあるのよ。なんでアンタの休みにあたしが合わせなきゃいけないのよ! って感じじゃない?」
「ええ……」法介はすぐにはコメントを差し控えた。一瞬、スキャンダラスな推理が脳裏をよぎった気がする。
「そもそも、刑事のあたしの休みを検事さんがどうこうできるってどうなわけ?」
「まあ……その、牙琉検事の指示で事件を捜査してる内は、仕方ないんじゃないですか? 指揮権、検事にあるでしょ?」
「そうなんだけどね……カガク的じゃないわ」
 そりゃ法的な問題ですからね、とは法介は心の中だけで呟いた。
 それを余所に茜はもぐ、とドーナツを呑み込むとぽつりと言う。
「……そうでもなかった頃も、あるんだけどな」
「え?」
 聞き返すと、茜は法介を一瞥した。
「昔の話よ。もう十年くらい前。検察よりも、警察のほうが強かった時期があるのよ……たぶんね」
 あたしはその頃まだ刑事じゃなかったからきちんとはわかってないけど、と茜は言う。
「へえ、そんな時期があったんですか」
 意外に思って法介は聞く。渋々というように茜は頷いた。
「結局、検事さんたちが法廷で使う証拠はあたしたちが集めてるんだから。証人を探すのもあたしたちなんだし。本当はどっちが上とかじゃないはずよ」
「それはそうですけど」
「……そういえば、弁護士はどっちも一人でやるわよね。証拠を集めるのも、法廷で戦うのも」
「一応、そうなりますかね。この間みたいに、茜さん──刑事さんに情報を教えて貰うこともありますけど」
「でも、やっぱり自分で現場まで足を運んで、なんとか聞き出すのよ」
 そう言う茜は、なぜか誇らしげに見えた。
 法介はそんな茜を少し意外に思って見た。法介には刑事の知り合いはこの女刑事さん以外にいないも同然なのだが、牙琉弁護士などに付き添っていたとき のイメージでは、漠然と弁護士と警察というのは仲が良くないものだ、というイメージがあった。警察が捕まえてきた犯人の刑を軽くしよう、最悪、無罪にして しまおうという弁護士を、刑事が快く思う理由はない、という観念が法介にはある。だが、宝月茜はその例に含まれないようだ。そもそも休日にわざわざ元弁護士を訪ねて来ていることからも、それはわかる。
「あの……茜さんって、成歩堂さんとはどういう知り合いなんですか?」
「え……ああ」茜は一度言葉を切った。「昔ね、まだ成歩堂さんが弁護士だった頃の、依頼人かな」
 茜は笑って言った。法介は驚いた。
「え。じゃ、じゃあ、茜さん、成歩堂さんに弁護されたんですか?」
「え!? あ、うーん、どうかな。ちょっと違うかも。一応、成歩堂さんに正式に弁護して貰ったのは、あたしの姉だし」
「はあ、お姉さんですか」
「まあね。でも」
「はい?」
「でも、あたしも成歩堂さんにいっぱい助けて貰ったんだけどね」
 本当にすごい弁護士だったのよ、と宝月茜は笑って言った。そこで再び法介は驚いた。
 話の内容にではない。そう言った宝月茜の顔が、今までにないくらいきれいな笑顔だったので驚いたのだ。
(うわ、このひとすごい美人だったんだな……)
 場違いなことを考えつつ、法介は我に返った。
「でも……へえ。茜さんってお姉さんがいるんですね」
「うん」
 成歩堂がまだ弁護士だったのは7年前まで、と法介は逆算する。それなら宝月茜は、まだ高校生くらいだろう。その歳で姉の弁護を茜自身が依頼したというこ とに、微妙に複雑な事情が垣間見える気がする。
「茜さんって……」
「ん?」
「あ、ええと。お姉さんとは仲がいいんですか?」
「うん! すっごく!」
 にっこりと元気よく返事が返ってきて、法介は息を吐いた。


 

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