不完全相似性


「でも、そっかー」唐突に茜が呟いた。「成歩堂さんち、今、ケーザイ的に厳しいの? やっぱり」
「な、なんですか、唐突に」
「だって、あんたが言ったんじゃないの。煙草はお金がかかるとか、ここも割り勘にしましょうとか」
「う、いや、まあ、……そうなんですけど」
「ま、やっぱりそうかな。もともと成歩堂さん、弁護士の時でもあんまりゆとりがあった感じじゃなかったしね」
「……本当にそうなんですか……」
「うーん、そうね。どっちかっていうとカツカツって感じ?」
「カツカツ……」
 法介の視界に自分の前髪がうなだれた姿で入ってきた。みぬきも弁護士時代の成歩堂さえそんなにいい生活をしてなかったように思う、と言っていた が、できれば法介にはもう少し夢を持たせて欲しい。
「で、でも! 成歩堂龍一って言ったら、当時は若手の中で最強の弁護士だったじゃないですか! 大きな事件もいくつも解決してるし!」
「ま、まあ、そうなんだけどね。あんた、声、大きいね」
「すみません……」
「あたしが成歩堂さんに弁護を依頼したのは、成歩堂さんがまだ弁護士一年目くらいの時じゃなかったかな。ちょっと話題になるような事件も解決してたけ ど、まだ新人だったと思うわ」
「ああ、なんだ。それで……」
「そうね。それに……」茜は何かを思い出すように首をひねった。
「それに?」
「うーんとね。あの時は気づかなかったけど、成歩堂さんって、ちょっと仕事をえり好みするところがあったかもしれない」
「えり好みですか?」
 法介は驚いた。成歩堂龍一に関しては善し悪しを問わず色々な逸話があるが、そんな噂は聞いた覚えがない。
「たぶんね。実はあたしも一度依頼を断られたみたい」
「……みたい?」
「まあ、なんていうの? あたしもその時は必死だったから成歩堂さんの言うことなんて聞いてなかったんで覚えてないんだけどさ」
「はあ……」
 だが、逆を返せば成歩堂龍一には一年目にして断るくらいの依頼が来ていたと言うことか、と思うと今の法介にはいささか羨ましい。
「でも、少なくとも茜さんは成歩堂さんに引き受けて貰えたんですよね」
 当時の茜がどんな風であったかはわからないが、高校生の頃のこの女性なら、さぞかし押しが強かったのでなかろうか、と法介は想像した。成歩堂の断りを聞いていなかったという発言 からも、とにかく勢いで押し切ったのだろうという気がする。
「うん、まあね……」
 成歩堂の弁護がどんなものだったか聞いてみたくもあったが、茜はどういうわけかわずかに仏頂面になって、もくもくとドーナツの咀嚼を再開した。茜のコーヒーカップが空に近いことに気がついて、 法介はお代わりのカフェオレを入れるために立 ち上がった。


「あれ?」
 二人分のコーヒーのお代わりを持ってきたところで、法介はガラス窓の外に見知った何かを見た気になった。
「茜さん」コーヒーをテーブルにおいて、法介は外を指さした。「あれ。あのニット帽、成歩堂さんじゃないですか?」
「えっ?」ぐふっ、と食べかけのドーナツを喉に詰まらせるような声を出して、茜は慌てたように窓の外を見た。「あ、やだ、ホント」
 なにがヤダなんだ、と法介は思ったが、そう言った茜の顔がぱっと明るくなったので思わず苦笑してしまう。この刑事さんは普段の不機嫌な顔ばかりでなく、ずいぶんワカリヤスイ人のようだ。
「オレ、呼んできましょうか。どうせ立ってるついでなんで」
「え、あ……う」
 うん、と茜が小さく頷いたので、法介は笑ってドアのほうへ足を向ける。
 それなのに、直後にベストの背中をつかまれた。
「ちょっと待ったっ!」法介がにわかに驚くような声で茜が叫んだ。「伏せなさい!」
「はあ!?」
 突然どこの事件現場かと思うような発言をした白衣の美人を、法介ばかりでなく他の客も店員も目を丸くして見ている。茜だけはそれに気づかない様子で、腕を伸ばすといきなり王泥喜の頭を押し下げた。おデコを打ち付けかねない勢いで眼前にテーブルが迫り、両の拳をついて体を支えるハメになる。
「ちょっ……茜さん!?」
「頭! 低くして! 成歩堂さんに気づかれるでしょ!」
「いや、ちょっと……」
「もう、このツノ目立つんだから! 切ってやろうかしら!」
「や、やめてくださいよ!」
 とんでもないことを言い出した茜の手を振り払い、それでもツノ(つまり前髪だ)を切られるのは恐ろしいので頭は低くしたまま、なんなんですか、と法介は女刑事 を睨んだ。茜自身もテーブルに張り付くようにしているのでその顔は目の前にあるのだが、一瞬前の輝くような笑顔とは裏腹に、今は憮然と口をへの字にしている。
「……なんなんですか、茜さん」
「……よく見てみなさいよ」
「はあ?」
「あたしを見てどうすんの。成歩堂さんよ」
「はあ」
「一人じゃないでしょ」
「えっ?」
 言われて法介が成歩堂のほうへと目を向けると、ニット帽にパーカの男はたしかに誰かと話しているようだった。あれでそこそこ体格のいい副所長は人混みの中で も見分けがつくが、成歩堂が向き合っている人物は人の陰になってよく見えない。どうも小柄な人物らしいということで始めはみぬきかと思ったが、ちらちらと見える姿は、もっと黒い、長い髪の人物のようだった。
「……あれ?」だが、法介は見ている内に自分の目を疑った。「あれって、成歩堂さんですか?」
「はあ!?」茜が頓狂な声を上げる。「アンタ、なに言ってんの。成歩堂さんの顔も忘れたの!?」
「い、いやいや。そうじゃなくて」
 法介はもう一度、パーカの男に目を向けた。成歩堂が話をしている相手はくどいように姿がよく見えないこともあって、つい目は成歩堂のほうに向いてしま う。だが、
「だってオレ、あんな顔する成歩堂さん見たことないですよ?」
 ガラス越し、遠目に見える成歩堂は何を言っているか不明だが、とにかくぐるぐると表情を変えていた。汗をかき、目を三白眼にして、あるいは無駄に自信あ りげに笑ってみたり、かと思うと引きつった笑いを浮かべて頭をかいている。
 成歩堂龍一の表情と言えば、ごくまれに見る真剣な顔を除けば、何を考えているかわからないような笑顔と、人の話を聞き流す遠い目以外見たことのない法介 にとって、それはほとんど百面相に見えた。
 しかし、そんな法介の驚愕をよそに刑事さんは言った。
「そんなことないでしょ」
「え? そんなことありますよ」
「だって、成歩堂さんって言ったらいっつもあんな感じじゃないの」
 あっさりと茜はそう言い切ったが、聞いたほうの王泥喜はそうは行かない。
「ええっ? オレの前じゃ成歩堂さん、あんなカオしないですよ!」
 驚いて反論すれば、逆に茜が呆れたように口を開けた。
「はあ? あんた、普段、成歩堂さんにどんなカオさせてんのよ」
「う、いや、それは……」
 まるでアンタの日頃の行いが悪いと言わんばかりの声音に、王泥喜は小さくなった。別段それほどひどい振る舞いをしているつもりはないが、そもそも、知り合って間もない頃に成歩堂龍一をぶん殴った経験も、ないではない。その辺りに何か原因があるのだろうか。
「……成歩堂さんって、ああいうカオをする人でしたっけ……」
 法介が控えめに尋ねると、あったりまえでしょ、と即答が返ってきた。
「成歩堂さんって言ったら、ガマの油なみの汗とコンキョのない自信に溢れる笑顔と白目がトレードマークみたいなもんじゃないの。成歩堂さんの裁判なんて……」
 それはいったいどこの成歩堂龍一だ、というセリフを法介は飲み込んだ。「え? 裁判ですか?」
 思わず尋ね返した法介の目の前で、茜はぽかんと口を開けた。
「あ、あれ?」
 茜は机に張り付いたまま、驚いたように成歩堂に目を向けた。つられて法介もニット帽の人影を見るが、やはり、どう見ても王泥喜法介の知る成歩堂龍一と はかけ離れてファンキーな表情を見せる男がそこに立っている。
「うそ……」法介の横で、茜がぽつりと言った。「成歩堂さんだ、、、、、、……」
「え? どういう意味ですか?」
 茜は答えずに目を見開いてパーカの男を凝視していた。その目元がかすかに震えているのが法介の目に見える。
「……あのさ」かすれた声で茜が言った。「あんた、成歩堂さんのあんな顔、見たことないの?」
「はあ」
「事務所で一日、けっこう長いこと一緒にいることもあるんでしょ?」
「まあ、そうですけど」
「でも、見たことないんだ……」
「一応は……」茜の顔色がどんどん白っぽくなっていくのを心配しながら、法介は控えめに頷いた。
「そうよね……」茜は窓の外に目を固定したまま呟いた。「あたしだってあんな成歩堂さんのカオ見るの、久しぶり……」
「あの、茜さん……」
 大丈夫ですかと法介が尋ねても、茜はしばらく黙っていた。少しだけ顔に血の気が戻り、さらにしばらくして茜は目だけを法介のほうへ向けた。
「昔ね……あたしが助けてもらった頃の成歩堂さんって、ああいう感じだったよ」
「ええと、そうなんですか?」
「うん。なんて言うの? カオはクチより物を言うって感じ。ああいうカオ、しょっちゅうしてた」
 茜の口調がいつもの歯切れを取り戻した事にほっとしつつ、同時に王泥喜は首をひねった。 「それはなんというか……」
 ちょっと信じられないな、と法介は思う。特に、それでポーカーなどに手を出す辺りが。法介は半ば呆れながらニット帽の男に目を向けた。
 では、成歩堂龍一は弁護士を辞めてから、あんなカオをすることはなくなったということだろうか。そう思うとずいぶん珍しい物を自分は目にしているらしい。法介 はしばらく成歩堂を見つめた。弁護士の成歩堂龍一を、王泥喜は噂以上には知らない。気のせいか今のパーカ姿でくるくると表情を変える男は、法介に対峙するピアノの弾けないピアニストよりも善人に見えた。


 

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