Nothing else but you


 愛していると、言ったことはなかった。
 ゴドーはそれを振り返った。神乃木荘龍は、綾里千尋に愛していると言ったことがなかった。
 その日、どうして彼がそんならしくもないことを考えたのかと言えば、病院で無駄な待ち時間があったことが発端だろう。切っ掛けなどその程度のものだっ た。
 ゴドーには病院で待つということがあまりない。幸か不幸か、彼は最新の医療用機械の被験者だった。診察スケジュールは医者とエンジニアーの都合で組み立てられ、ゴドーにとっては予約という概念すら存在しないに等しい。定期的な通院と、けして短いとは言えない拘束時間は多忙のゴドーにとって少 しもありがたくなかったが、それでも、診察が時間どおりに始まる点だけは評価できた。
 しかし、それも常ならばの話であって、今日に限ればゴドーは病院の待合室で待たされるハメになった。理由は急患が入ったか、あるいは出先からの戻りが遅 れているか、そんなものだろう。仕方もなく待合室でコーヒーを飲みながらくつろいでいれば、年寄りや親子連れの奇異の視線を浴びるのにもすっかり馴れた自 分に気づく。もっとも彼は神乃木荘龍と名乗っていた時分から、他人の視線など気にしていなかったかもしれないが。
 待合室にはテレビが一台あって、さして面白くもないドラマを流していた。神乃木が物心ついた当初には身近な娯楽と情報ネットワークの神と言えたこの機械 も、今ではすっかり後輩に追いやられた感がある。それでも神乃木が寝ていた間に完全に死に絶えることもなく、細々と生きながらえたこともたしかのようだ。
 ドラマの内容は昔見たものとそれほど差がないように思われた。進歩がないということなのか、あるいは人間の真理を描いているからこそなのか。だが、今も 昔も前のめりになって見るような内容でないことには変わりない。テレビドラマってやつはこのぐらいがいいのだろうとゴドーは皮肉に笑う。
 ドラマの内容は男と女の惚れた晴れたをセンターに置いたものらしい。大して目新しくはないが、奇をてらいすぎるよりはずっといい。実際、これで案外、見 ていて飽きることもない。
 昼下がりの病院の待合室には早くも傾き始めた西日が差し込み、席に座った多くは猫背で座る年寄りばかりだ。はしゃぎ回る子どもも珍しくおらず、待合室はず いぶんと静かだった。その中でテレビだけが喋っている。
「キミさえいれば、それでいいんだ」
 そのセリフに、ゴドーは一拍遅れて顔を上げた。
 天井から下げられた四角い画面の中では、若い男が真面目な顔をして話していた。「ボクは、キミを愛してるんだ」
 対する女は男よりもなお若く、男の言葉に途惑うような仕草を見せていた。「……冗談は、やめてください」

 ──からかわないでください、神乃木さん。

 幻聴が聞こえた。聞こえたと思った。今ここで聞こえるはずのない女の声だ。だが、ひどく懐かしい響きだった。
 冗談はやめてください。からかわないでください。ふざけないでください。
 そんなセリフを、神乃木荘龍はよく言われた。
 言った当人は、名を綾里千尋と言った。神乃木荘龍の記憶にある彼女はコネコのようで、神乃木の言葉にいちいち顔を真っ赤にしたり、困惑したりして見せた。

 ──またそんなこと言って。もう真に受けませんから。

 あるいは、開き直ってそう返してきたこともあった。
 コネコちゃんが言うようになったじゃねえか。そんな時、神乃木はそう言って笑ったように思う。綾里千尋とのそんなやり取りを、ゴドーは確かに記憶してい た。けれどゴドーには、テレビの男のように愛を語ったという覚えがない。
 チヒロに愛していると告げたことはなかった。好きだと言ったことは、果たしてあっただろうか。嫌いじゃねえぜ、そんな言葉をただ繰り返していたように思う。 強がってるコネコちゃん、嫌いじゃねえぜ。言ったのはせいぜいでその程度だ。
 それ以外でゴドーが覚えているセリフと言えば、カオを上げろ、前を向け、足を止めるな。そんな言葉ばかりだった気がする。
 そして、やはり愛を告げた覚えはなかった。


 病院を出ると、すでに日が暮れかかっていた。診察は短くなかったが、いくら冬とはいえ暗くなるにはずいぶん早い。
 そう思って空に目をこらせば、重い雲が垂れ込めているのがわかった。通りすぎる人波の中には襟元を押さえながら歩く姿も多い。どうやら 雪が降り出してもおかしくなさそうな案配だ。
 ゴドーはトレンチコートの襟元を軽く押さえ、ボタンが留まっていることをたしかめた。彼の体からはすでに温度を正しく感じる機能が失われている。しか し、それはただ暑さ寒さを感じないと言うだけで、気温の変化によるダメージがないわけではなかった。何も気づかず寒風の中に放っておけばカゼだって引くに 違いなく、熱湯を浴びればやけどを負うことにも変わりはない。
 不自由な体になったと思う。バカでかい眼鏡を付けないと見えない目も、失われた多くの機能も。体力そのものもそこらの年寄りよりまだ無いくらいだ。
 しかし、そのいずれに対しても、彼は惜しいと感じたことがなかった。満足に動かない体と、十分に情報を得られない感覚、生きるために必要な煩わしい多数 の手続きは紛れもなく不自由ではあったが、彼は健康だった体を惜しんだことがない。言い換えれば、それらを失ったダメージは、彼にしてみればささやかなも のだった。
 たぶん、と彼は思う。
 たぶん、オレにとってこの程度のことは、本当にどうでもよかった。
 少し向かい風が強くなった。
 ビルの谷間に入ったせいだと、ゴドーはコンクリートの谷を見る。いつもとは違う浮かれた電飾がそのあちらこちらに見えた。12月ってやつは、そういえば こういう時期だったなと彼は思い出す。
 神乃木は、この季節をチヒロと過ごしたことがない。彼にとって綾里千尋がいた12月がなかったわけではないが、その時はまだ、神乃木にとって綾里千尋は 事務所の人間の一人と大差がなかった。それは大差どころか、誤差の範囲も出ないレベルであったかも知れない。だから、神乃木荘龍には、チヒロと共有した 12月の思い出がない。
 コートの裾が風をはらみ、ひどく歩きづらくなる。たかがその程度のことで息が上がりそうになった。ゴドーは歩くスピードを緩め、意識して姿勢だけは保っ たまま前に進んだ。ひとりゆっくりと歩く──歩くしかない──ゴドーの周囲を、人波が足早に追い越していく。それは彼の何かを象徴するようで、ゴドーはひ どく酷薄な気分になった。
 そんなに急いで、どこに行こうって言うんだい?
 そんなに、生き急いで。
 しかし、いったん思いついたそんな言葉にゴドーは自嘲した。彼らしくない感傷が混じっていることに気がついたからだ。急ぐ人々には、急ぐだけの理由があ るのだろう。
 ゴドーとて、それは例外ではない。ある意味で彼ほど成すべき事を抱えた人間も多くないはずだった。だからこそ、ゴドーは本来ならこんな風には動かせない ポンコツの体を引きずってでも歩いている。
 そして、チヒロもそうだったのだろうと彼は思う。綾里千尋にもなすべきことがあった。彼女はそのために里を出て、弁護士になったはずだ。彼女は走り続け た。神乃木荘龍が眠ったあとも変わらず、最後まで。それは彼が五年も寝ている間に追いつけなくなるほどの速さで──。
 待ってくれ。
 待ってくれと、言えばよかったのだろうか。
『なあ、チヒロ。オレを置いて行くのはナシだぜ?』
 もし、神乃木がまだ起きている内に、彼女にそう言えていれば、とゴドーは考えた。そんなセリフを言う神乃木荘龍はゴドーにさえ想像できなかったが、そう すれば何かが変わっていたかもしれないと、わずかな夢を呼ぶのもたしかだった。小中大(コナカ マサル)を追い詰めようというその時に、チヒロが思いとどま ることがあったのではないか。これは危険なヤマだから、少し、今少し、時期を見て。十分に、身の安全に気をつけて。彼女もそう考えてくれたのではないか。
 そしてチヒロは死なずに済んだのではないか。
『アンタがいなくなったら、オレはおかしくなっちゃうかもしれないぜ』
 もし、そう言っていれば。
 けれど仮に神乃木がそう言ったとしても、チヒロの答えは簡単に想像できた。

 ──また、センパイったら。冗談はやめてくださいよ。

 怒りながら、笑いながら、チヒロはそう言っただろう。そしてきっと、真面目に取り合ってはくれなかった。
 それはあまりにもあり得そうなやりとりだったので、一瞬、現実と想像の境界が曖昧になった気がした。ゴドーは思わず呟いた。
「だからアンタはコネコちゃんだって言うのさ」
 切羽詰まったオトコがツラだけ笑って言うセリフを、冗談だと信じちまうんだからな。
 苦く笑った男の視界の隅に白い物が映り、ゴドーは顔を上げた。周囲の人波から小さく声が上がる。──雪だ。初雪。チヒロと共に迎えたことはない。二度と 迎えることもない。
 ゴドーは浮かんだ笑いを引っ込めた。
 言えばよかったのだ。
 冗談だと彼女が思うなら、冗談でないとわかるまで。
 本当に愛していると、言えばよかった。愛している。だから、オレのいないところで危ないことはしないでくれ。オレを置いて死んじまったりだけはしないで くれと、彼女が理解するまで言えばよかったのだ。そうすれば、彼女は死なずに済んだかも知れないのに。
 オレはアンタを愛してる。
 口にすればたったの12音。時間にすれば3秒も掛からないに違いない。言葉にする機会はいくらでもあった。けれど、神乃木荘龍がそれを告げること はなかった。今でなくていいと考えていたのだ。それを告げるのは、すべきことを終えた後だと思っていた。
 そのすべてが間違いだったとは、今も思わない。けれど、そんな未来が来ると当たり前のように信じていたのは愚かさだった。夏の後には秋が来るのだと、二 人でクリスマスのイルミネーションだって見ることになるだろうと、至極簡単に信じていたのだ。今日の続きに明日があるなんて確証は、この世のどこにもな かったというのに。
 そんな愚かさの報いを今になって受けている。
 今ではもう、愛しているという言葉さえ告げられなかった。
 一瞬、ゴドーのまぶたが痙攣するように震えた。それを感じるはずはないのに、ゴドーは目頭に熱さを覚えた。
 けれど涙は流れない。彼の涙腺もまた、その機能の大半を失っている。
 だが惜しくはない、とゴドーは思った。涙も出なくなった肉体を、それでも嘆く気にはなれなかった。この程度のことは、本当に、どうでも良かったのだ。
 たぶんチヒロさえ生きていれば、オレは、何をどれだけ失っても構わなかった。
 やがて、ゴドーは空に向けていた顔を降ろし、手の平で頬についた雪を払い落とした。たとえ彼の肉体がまだ涙を流せたとしても、今はまだ泣いていい時ではないと 彼は知っている。
 ただ、まぶたに染みついた熱さだけは、いつまでも消えることがなかった。

 

 

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