I think of you.

 
 
 
 窓の外に色はない。
 遠くの森は夏の輝く緑を忘れて、昨晩から降りしきる白い雪の中に黒く閉じこめられていた。
 その眺めに目を細め、また冬が来た、と知る。
 凍てつく寒さにではなく、色を失った世界と、雪にすべての音が吸い込まれる静けさに季節を知るようになってから、もう何度目の冬になるだろう。
 それを知ったあの冬から、わたしはどれだけの季節を過ごしたことだろう。
「お母様!」
 戸の開く音と同時に呼びかけられる。微笑して視線を転じると息子が飛び込んできた。まだ自分ひとりでドアを開けられる背丈も力もない彼の背後では、メイドが軽く頭を下げて、そのまま扉の陰に消えた。
「お母様、雪です!」
「ええ」
「お外に遊びに出たいです」
 頬を紅潮させ、瞳を輝かせる息子は初めて出逢った頃のラウルとよく似ている。けれどそんな息子に対して、わたしはわずかに眉をひそめた。
「風邪を引いてしまうわ、だめよ」
「でも……」
「せめて、雪がやむまで待ちましょう? 陽が差したら、青空と、白い一面の雪が光って、きっととても綺麗よ」
「でも、それでは空から降ってくる雪はつかめません」
「……ああ」
 息子の言葉の正しさを、わたしは認めた。確かにそれは雪がやむまで待っていては出来ない遊びだ。
 天使の羽のように降る雪に手をさしのべる幼い喜びには、わたしも覚えがあった。
「そうね……では、少しだけ。暖炉の傍でまずは温まって行きましょう。それから、お約束よ。本当に少しだけですからね」
 わあ!と声を上げてはしゃぐ息子を暖炉の傍まで連れて行き、わたしはもう一度窓の外を見た。
 雪は降りしきる。
 音もなく、視界を埋め、降りしきる。
 そうして二人でマントを羽織り外へ出た。肌を刺すような空気の冷たさが、今はまだ火照った頬に心地よい。
 息子は瞳に溢れんばかりの輝きをたたえて雪に手袋(ミトン)越しの手をかざしていたが、しばらくして手袋を脱ぐと小さなてのひらを直に差し出した。けれど厚い布地越しと違って温まっている息子の手の中では、彼がせっかく捕まえた雪はあっという間に融けてしまった。
 やがてじっとしていることに飽きたらしき彼は雪の中を走り出す。翼のように両腕を広げて駆ける彼の周りで、初冬の大きな雪の欠片が舞っていた。
 視界を埋める雪が思い出させるものは、ラウルと交わし合った暖かな想い。
 そして、父と天使。
 ──『彼』。
「……そろそろ、戻りましょうか」
「もう少し……」
 わたしは微笑んで歩み寄ると、息子の手を自分の手で直に包んだ。今、手袋を外したばかりのわたしに比べて、息子の手は冷たい。
「ほら、もうこんなに冷たくなっているわ。少しだけだと、お約束したでしょう?」
 息子はしばらく俯いて口元を引き結んでいたが、ややして頷いた。
「はい……」
「いい子ね」
 息子の頬に軽くキスして、わたしはもう一度微笑んだ。
「ねえ、お母様。その代わり、お歌を歌ってくれますか?」
「え?」
 わたしは息子を見返す。
「お母様のお歌をまた聴きたいです」
 わたしは短く息を吸い込み、それから、わずかに吐き出した。
「ええ……、そうね。あなたが、聴きたいなら……」
 歌いましょう、と、わたしは答えた。
 わたしは歌を歌わなくなった。子爵夫人(ヴィスコンテス)となった以上、舞台ではもちろんとして、それ以外でも。
「好きなだけ、歌っても良いんだよ」
 ラウルはそう言う。
 穏やかなまなざしで、静かに微笑して、歌わなくなったわたしに言ってくれた。
「きみは、歌って良いんだ」
 その眼差しの哀しさに、わかられている、といつも思う。
 わたしの音楽への想い、消えない彼への想いまで、このひとはわかってしまっているのだと。
 ただひとつ。わたしがあなた(ラウル)にどれほど救われたか。今、どんなに幸せか。そしてあなたをどれほど愛しているか。何よりもラウルにわかって欲しい、それだけを除いて。このひとはすべて、わかっている。
 だからそういう時、決まってわたしはラウルの目をしばらく見つめて、黙って、ほほえみ返す。そして歌うことはなかった。
 時にわたしの昔を知る人にパーティでどうしてもと請われることもあったが、かたくなと呼ばれるほどに固辞を通した。
 時に、それは本当にごく稀に、子どもたちに歌いかけることがある。それがせいぜいだ。
 導き手を失いレッスンをしなくなった以上、以前のように歌うことも出来ない。わたしの歌はもう羽ばたくことを忘れた。
 わたしが天までも昇れたのは、瞬間とさえ呼べるほど短い間のことに過ぎない。


 あの一度きりの冬。
 わたしを変えた冬。
 わたしたちは一点に向かい音もなく走り抜けた。
 いま振り返っても、他の道は考えつかない。何かあったとすれば、「彼」とわたし、二人だけの閉じた世界に、夜の夢に、堕ちていくことだけだったろう。
 あるいは、その先には別種の幸福が待っていたのかも知れない。
 けれど、そうはならなかった。
 あの疾走する日々の中で、わたしはあの最後の時に知った。愛するということは、請うばかりではないのだ。与える愛。与えること。わたしにも彼に何かを与える力があるかもしれないと、初めて思った。
 与えたいと、心から願った。
 けれど、わたしはあなたを救えたろうか?
 何かを与えることが出来たろうか?
 問い掛けたところで答えはない。ただ、わたしは彼の言葉を思い出す。
「行け」
「私をひとり置いて行け!」
 それは彼がわたしに与えてくれたものだった。彼もまた、わたしに与えようとしているのだと、そう信じた。だからこそ、わたしは受け取った。受け取るしかなかった。
 そんな風に、わたしたちを取り巻いていたものを振り返る。
 わたしたちは与え合うために出逢い、それを学んで別れた。たとえあの時でなくとも、彼が愛を知ったなら、そのとき彼はわたしの前から去ったろう。その道筋が見えるのだ。
 別れるために、わたしたちは出逢った。それが運命だったと言えるほど確かに。
 それでも、今もあなたを思う。
 <天使>と出逢った人々は、その声を決して忘れない。最後の時まで胸に熱い思いを抱き続ける。ならば、わたしにとってあなたは紛れもなく<音楽の天使>だった。
 ほんのわずか口ずさむだけであっても、わたしが歌う時、その中には彼がいる。胸の奥深く、熱く、震え、共鳴して──やがて熔け合う。その瞬間がある。消えることはない。忘れることも、色褪せることすらない。歌うことのないその時でさえ、わたしの中にはいつも音楽があって、あらゆる調べは彼に繋がっていた。
 わたしは顔を上げる。白い欠片が螺旋を描いて降り注ぐ、その先を見た。わたしの翼は、空に舞い上がることが出来た日々をまだ覚えている。それを忘れる日は訪れない。
 こんなわたしの想いをあのひとが感じることがあれば。
 それが可哀想な彼のわずかな支えになればいいと祈りながら、わたしは幾度も思い出す。
 けれど、それは、彼には伝わらない。
 今もわたしの中に想いがあることを、彼に伝える術はなかった……。
「お母様!」
 傍らで息子が驚いた声を上げた。繋いだ手を強く引かれる。
 息子は目をいっぱいに見開いてわたしを見上げていた。
「どうしました?」
「お母様、どこか痛いのですか?」
「痛い?」
 痛い?
「いいえ」
 痛くはない。ただ、離れてしまった、という実感があるだけだ。
 彼が願っていても、わたしが思い続けていても、それはもう伝わらない。もうキスをしてあげることは出来ない。
 音のない冷たな空気の中で、閉ざした両目が熱くなる。
 さらに熱くなり、その一部が溢れた。
 それを最後に、わたしは目を開く。息子を見た。
「……雪が頬に降ってきて、溶けただけよ……」
 そうして、この想いは、わたしの中に在り続ける。
 彼の元へ届くことは二度とない。


 

<FIN>