けれど同時に、
キーを押さえるより、楽譜を記す方がずっと時間は掛かる。当たり前だ。
音楽を奏でている彼と、スコアを記す彼と。時間の流れ方が違っているのだ──と、ひどく冷静な別の意識が指摘する。その意識は、その一瞬浮上しただけで、すぐに表層から深層へ沈んでいった。
どちらが現実だ? 問いかける声に、もう返事はなかった。
残された音楽だけが溢れる。
溢れる。
もはや、こんな狭い洞穴では到底納めきれない。
オルガンを奏でる側が現実なら、響きは地上までもあふれ出して、この地底の住人の存在を世に知らしめることになるだろう。わかっているはずなのに、オルガンを弾く彼は止まらなかった。
そしてまた、いつまで経ってもこの異常な旋律を奏でる幽霊を見に来ようという者の気配もなかった。
では、やはり現実はスコアを書いている方なのか。
それとも──もう一つの意識こそが、現実か?
彼の深いところにいる、三つ目の意識。
現実感のひどく乏しいイメージ。
幼い日、母にキスされることを夢想したのと同様に、実感の失われた光景。
「彼」は。
クリスティーヌを陵辱していた。
オルガンに触れるより遙かに優しく、遙かに暴力的に。
白い肌に触れて、壊れ物のような肢体を抱いて、辱めていた。細く弧を描く白い喉もとを手が掠めて、肩を撫で、背に回る。指が背筋をゆるりと這い下りて、腰のくぼみを押さえて。
彼女の唇から声が上がった。
それは悲鳴か? それとも別の声か。
これが現実か? これこそが?
あるいは、どれも本当ではないのか。
彼は考える。
自分は彼女に拒絶されて、その痛みのあまり、もう独りで死に掛けているのかも知れない。
死に往く意識の最中で、彼女を掻き抱き、犯し、音楽を生み出している。
だからこそ、いま生まれているこの曲は、そうとしか思えない程、在り得べからざるものなのか。
そうかもしれない。
だが、それもクリスティーヌを陵辱していることに比べれば、ずっとあり得ることだった。
こんなことは、赦されるべくもない。
「クリスティーヌ」
けれど彼は赤く染まった耳朶に囁きかける。
「クリスティーヌ」
陶器のような肌をなで回す。
「クリスティーヌ」
しなやかでやわらかな肢体が、彼の腕の中で跳ね上がった。
打たれたような転調。曲のテンポが更に上がる。
スコアを書く手は狂ったように速い。
馬鹿げている!と高笑いする別の彼がいた。
"こんな曲は誰にも弾けない"
だが、鼓動が速いのだ。止まりそうなほど速い。
流れ落ちる汗を感じる。濡れた指先が滑る。
身体が強ばって。
ひときわ高く、彼女が歌った。
五線譜と、鍵盤と、クリスティーヌの肌の上に、汗が同時に落ちて弾けた。
目を開けると彼の前には五線譜があった。
足下には書き上げられた楽譜が散乱している。周囲は驚くほど静かだった。この天然のホールとも言うべき鍾乳洞にあって、残響の気配は欠片ほどもなかった。
獣のような自分の呼吸だけがうるさい。
視線を落とすと、彼の認識では白かったはずの鍵盤が赤く染まっていた。血溜まりが出来ている。粘度が高く、彩度は低い。流されてからしばらく経った血の色だった。
左腕を上げるとシャツごと腕が切り裂かれていた。オルガンの上に置いていたはずの鏡が、いつの間にか定位置から無くなっている。かけ離れた場所に放り出された硝子の破片の中に、血で汚れているものが見て取れた。
腕は焼け付くように痛く、脈打っている。
彼は腕の付け根を軽く縛り最低限の止血を施した。汚れたオルガンを丁寧に拭って、それから楽譜を拾い上げた。紙の質感は確かに指先に感じられる。
散らばっていたスコアは始めの方こそ黒いインクで書かれていたが、途中から色が変わっていた。インク壺の中身は空になっていた。自分でも意識しないままにインクの補充を忘れてみたのだろう、と彼は分析する。このスコア、この地獄で生まれた曲に最も相応しいインクが他にあることを、知っていたのだ。
彼は完成したスコアに目を通す。
やがて、たまらなくなってオルガンの上にまとめて伏せた。
──こちらが、現実。
目をつむり、大きく息をして呼吸を整えようと試みた。
しかし、確信は得られなかった。
現実の自分は、今、どこで、何をしている?
それはわからなかった。答える者は誰もいない。彼の中の誰もその問いに答えられないのだ。自分が今、どこにいて、何をしているのか、それを知っている「彼」は、すでにどこにもいなかった。
──なるほど。
やがて、彼は不意に理解した。
──これが狂うということか。
彼の人生で、これまでにも自分が狂っているかも知れないと考えたことは度々あった。むしろ、自分が正気だと思っていた時間の方が短いかもしれない。だが、今までの自分は正気だったことを彼は知った。これまではただ、少しばかり他人と異なる思考や奇癖を持っていただけだ。それらは、もともと生まれた時から人と違い、更に人と異なる経験を積んできた、その当然の帰結に過ぎない。
いま初めて、自分が狂ったことを彼は実感する。
なにひとつとして、確かと言える事がなかった。自分という存在が、現実ごと砕けて彼の指から零れ落ちていく。その光景を眺めやるばかりなのだ。
もはや彼にはどうすることもできない。
これが狂気か。
やがて、零れ落ちた彼は、彼の幻想の中で細かい破片になった。割れた鏡に映り込んだように、それぞれの微小な破片に仮面を付けた彼、素顔の彼、幼い彼、今の彼、怒る彼、笑う彼──たくさんの彼がいた。
無数のクリスタルのように、彼の破片は虹色の光を反射しながら落下する。
その破片が降り注ぐすべての先に、ただひとり佇むクリスティーヌの姿が見えた。