けれど、そんな彼の予想を裏切り、娘が礼拝堂を訪れる回数は減っただけで無くなりはしなかったようだ……。
娘の気配を壁の向こうに感じながら、彼は溜息寸前の心情で思った。
彼とてそう頻繁に訪れるわけでもない礼拝堂の周りで、なおもこうして娘がその場に居るときに居合わせるのだから、つまりそういうことだろう。
回数が減った分だけ娘の祈りは以前より切実さを増したようにも見える。
それが元もと娘の持つ願いの強さなのか、それともここで一度<天使の声>を聞いてしまったためなのか──前者に違いないと思いたかったが、後者なら誤解を与えた彼にも多少の責任があるだろう。
彼は今もロウソクに火を灯し手を合わせる娘の気配を壁の向こうに感じながら、ちらりと考えた。
では、再び天使が現れたらどうなるだろうか。
天使として、娘に試しに歌わせる。その上でお前は天使の来訪を受けるに相応しくないと拒絶してみせたなら? 娘は現実に返り、この礼拝堂には再び静寂が戻るだろうか。
それは彼の中で最も冷淡な部分の生み出した発想だった。
だから、思い付いた時点で、その発想はすでに却下されている。
第一に彼はそれほど残酷ではなく、第二にその娘を現実に返すためにそこまでしてやる義理がなかった。礼拝堂にはあまり人に居座ってほしくないと言っても、今現在のレベルで支障はない。
にもかかわらずそんな発想に思い至った理由を、彼は分析する。おそらくマダム・ジリーがかつて口にした言葉が大きな要因だった。
──「あの子の歌をお聴きになったことがお有り?」「それなら、いいのです」──
常に厳格な言葉の使い方をする彼女に似せず、歯切れが悪く、同時に明確さを欠く言葉。なにがどう"いい"のか、彼を以てしても未だに意味が計りきれない。絞め殺したくなるほどひどい歌声だとでも言うのだろうか。娘の歌を聴けばその理由はわかるだろう──。
彼は軽く仮面に触れた。
無意味な好奇心はいつでも禍いを呼ぶ。
……何もする必要はない、と思った。こうしたニアミスを致し方のないものとすれば済むだけの話だ。彼はそう判断し、わずかに射し込む灯りを頼りに壁裏に造られた細い通路を通り過ぎようとした。
その時、娘の声が聞こえた。
「わたしが、もう歌うことをやめたから?」
細い声で娘は言った。
「だから、天使様は来てくださらないの? 歌の練習もしない悪い子の元には、来てくださらないのかしらね……」
いくらか成長した娘が洩らしたのは、歳よりも大人びて聞こえる自嘲気味なつぶやきだった。それから、また幼い声で、お父様、と細く呼びかける。軽く吐かれる息の音が続いた。衣擦れの音、立ち上がる気配──。
そして、一拍の間をおいて、
彼女が歌った。
(……え?)
彼は、瞬いた。
(なに……)
突然のことだった。突然に、視覚が奪われた。彼は思わず周囲を見回した。
周囲に闇が広がっている。
錯覚?
自問する。しかし確かに視界はない。彼はもう一度瞬いた。目は閉じていなかった。
それなのに暗い。
錯覚ではなく……。
ただ、耳から滑り込んでくるものが……。
(歌……)
彼は息を詰めた。
壁を通して声が聞こえてくる。
(あの娘が歌を……)
それを理解した。途端に背筋を震えが駆け上った。頭から血の気が失われるのを感じて、彼はたまらず壁に手を突いた。
娘の歌声が響く。
主を拝み、主をあがめ、
主の大いなる栄光の故に感謝し奉る。
目眩がした。
それより吐き気が……。
嘔吐しそうな胃の動きを感じて、彼は思わず口を覆う。
(なんてひどい歌声だ!)
口を押さえた途端、彼の内部で叫びが挙がった。
(まったく聴くに耐えない!)
彼の中で次々と賛同の声が挙がる。
確かにその通りだ。それはひどい歌だった。
とてもではないが、聴くに耐えない。
(そうだ、聴くに耐えない!)
悲鳴を上げながら彼のほとんどが同意する。
しかし、……『悲鳴』?
娘は歌う。
世の罪を除き給う主よ、
我らをあわれみ給え。
娘が歌っているのはありふれたグロリアだった。
明るいばかりで荘厳さを忘れたつまらない旋律。それを、聴くに耐えない歌声が歌っている。
(聴く価値など無い!)
(耳を塞いでしまえ!!)
そうだ。そうすればいい。
しかし、彼の手は言うことを聴かなかった。
手は小刻みに震えている。
それよりも身体が冷たく……。
体温が下がって……。
(……黙っていろ……)
不意に声がした。
叫びとは別の静かな声が、彼の最深部で言った。
彼は驚いて口から手を離した。彼の中で最も優れた意識。けれど「ドン・ファン」でも書くときでなければ現れないはずの部分が、目覚めている。
こめかみから汗が流れ落ちる。それなのに寒かった。身体の震えが抑えきれない。
われらをあわれみ給え。
我等の願いを聞き入れ給え。
鼓動が早く、耐え難さが増した。なぜ、と考え、その理由に彼は気付いた。
徐々に大きく高くなる歌声。歌の頂点が近いのだ──。
我らの願いを聞き入れ給え。
(よせ……!)
彼の内部が震える。
(やめろ……!)
今すぐここから離れるべきだと思った。
今すぐこの声を拒絶すべきだと思った。
だのに脚が動かない。
彼の中で最も優れた意識、強い意識が耳を塞ぐことを許さない。
「彼」は、目を見開いてこの虚空を見据え、その声を一心に聴いている。
そして、娘の声がひときわ大きく響き渡った。
聖霊と共に、父なる神の栄光のうちに!
我らの願いを聞き入れ給え!
──アーメン!──
「……………………」
彼の内部でわめき散らしていた声が消えた。
自分の意識が砕かれた、と彼は思った。しかしその思考自体もまた消える。やがて、彼の中のすべてが沈黙した。心臓の音すら聞こえなくなった。
後にはピークを越えた細い歌声だけが残る。
ただひとつ生き残った、彼の最深部、最も秀でた意識だけが、その声に変わらず耳を澄ませていた。
その歌声は、未熟で、不完全で。
何より、歌っているのは輝かしいグロリアのはずなのに、そこには
音階だけを無機物のように完璧になぞり、ただ声を大きくするだけのフォルテシモ。
あらゆる感情はなく、むろん歌への喜びもなく、揺らぎもない。
そして、軌跡すら残さず虚空へ霧散していくのだ。
彼の前に広がった闇の正体はそれだった。何もない世界。全く何もない声。
魂の入っていない抜け殻の、うつろに空いた空洞から漏れ出るだけの音。
しかし。
しかし、にもかかわらず、その声は……。
彼は突然、我に返った。
視界が急に解放された。薄明るい、見慣れた裏通路が目の前にある。
いつの間にか歌声がやんでいた。
そのことに気づいたのは歌声がやんでからずいぶん経ってからに思えた。今し方まで自分が聴いていたはずの声の名残は何もなかった。
自分が悪魔にでも化かされたのではないかと、彼は一瞬、本気で思った。しかし、壁に突いた手はそのままだ。まだ少し震えが残っている。
その壁の向こうで娘が立てる音がした。
娘が小さくすすり泣く音が混じる。
その声に、彼の意識は再び遠のきかけた。だが深呼吸をして持ちこたえる。
娘の小さな足音が遠ざかる。
やがて本物の静寂が彼を包んだ。
彼は壁に身を預けると自分の胸元を探った。心臓が刺し貫かれた後のように痛みを訴えていた。だが、もちろん何にも刺されてなどいない。血の流れたあともなく、心臓は弱々しいながらも鼓動を刻んでいる。
彼はもう一度大きく肩で息をした。頭が揺れて冷や汗が流れ落ちた。
何があったのか考える。
否。あれが"何"だったのか。
答えははっきりしている。それは未熟な歌声だった。
音程こそ寸分の狂いもなかったが息継ぎは多すぎた。音域に幅は感じられたが、未だ発達途上の咽と不完全な発声法が耳に障った。全般的に高度で、正式で、十分な訓練が足りていないことは素人の耳でもわかるだろう。
けれど、あの歌声の致命的な欠陥はそんなことではない。
全く歌のレッスンなど受けたことのない人間でも、美しい音楽を口ずさむならあの娘よりは余程まともに歌えるに違いなかった。
彼は今し方聴いた歌声を反芻する。
頭痛を覚えてすぐに目を閉じた。
どんな人間でも、音楽に触れるその時にはどこかに必ず心があり、歌うときには多少なりとも情感が籠もるものだ。
そのはずなのに、あの娘の歌声からはすべてが完全に欠落していた。何の喜びもなく、何の感慨もなく、ただ旋律をなぞっただけの歌声。何も訴えかけない歌には、命の息吹のかけらもない。
ひどい歌声だ。
音楽への冒涜ですらある。それこそ絞め殺したくなるような歌だった。
(だが……)
彼は自らの顔を覆った。
(だが、あの声は……)
彼は、娘の声そのものを思い出す。
娘の歌声は、透明だった。
クリスタルより、水より、空気よりもなお透明で、声として大気を震わせていることさえ信じがたい音。確かにこの世に存在しているはずなのに、その声は目に映らないほど透明すぎて、なにひとつ屈折させることなくすべてをありのまま透過してしまう。それほどの声。
あの娘がコーラスガールにすらなれなかった理由が瞬時に理解できた。
あれほどの声を持ってしても──否、あまりにも透った声であったからこそ、あの娘の絶望的な欠陥は浮き彫りとなった。どれほど美しい音楽もあの娘には何の感慨も与えないのだと、それが誰の耳にもわかってしまう。たとえどれほどの技術を身につけたとしても、どれほど劇的な歌曲に巡り合ったとしても、あの娘の虚無が、死んだ心がそのまま見えてしまう。
虚無を透かす彼女の声は、とても聴くに耐えないものだった。
その声が、あまりにも──そう、奇蹟という言葉でもってしても到底足りないほどに──透明だから。
そんな声を、彼は知らなかった。
光はなく、輝きもなく、何も映さず、ただすべてを透過する歌声。
一本にとおり、なんの揺らぎも歪みもなく、すべてを通り抜ける。
そんな声は、未だかつて自らの中に思い描いたことさえない。
これまでありとあらゆる美を創り出してきたはずなのに、彼の脳内には考え得る限り至上のソプラノまでが創造できていたはずなのに。
あの娘の歌声は、彼の世界を超えて……。
(……もし)
もし、彼女が目覚めたなら、と彼は思う。
彼女の魂が虚無を抜け出す日が来たなら。音楽が本来語ろうとする、喜び、身を焦がすほどの熱情、あるいは命果てるほどの絶望に彼女の魂が目覚める日が来たなら、人々は彼女の魂そのものを、あらゆる感情の極みをあの声の先に見るだろう。
そして、もし。
もし、彼女の魂が天まで昇ることを覚えたなら……。
人々はその日、舞台の上に天上の果て、神の光を見る──。
それは、奇跡だ。
彼は息を吸い込んだ。
彼は夢想する。
もし、彼女が再びあらゆる感情を思い出し、あの声に乗せて謳ったなら──と。
もし、彼の音楽を歌ったなら──。
彼女の声は彼の創り上げてきた美の限界を超えて……。
天上の光も、煉獄の業火もそのままに現すだろう……。
彼に戦慄が走った。
それは想像できない。
彼を以てしても、想像できない。
それほどの高み。
それほどの無上の美。
彼は中空を見つめる。
彼女の声は、地下深くで眠っていた生き物に突如射した閃光のように、彼の事象の地平を灼き尽くした。
そして、焼き払われた地に、新たな世界が生まれる。
彼は打ち震えた。
「…………音楽の天使…………」
ファントムは呟く。
その存在を彼は知る。彼女は、彼にとってまさにそれだった。あの声を聴いた瞬間から、彼女に歌わせるための歌が次々と彼の中から溢れ出している。未だ描いたことのない美しい旋律が、もう生み出されている。
彼女は、彼を、人には決してたどり着けないはずの高みへ運んでくれる唯一にして至上の存在だった。
そして、彼は同時に知る。
彼もまた、彼女にとって唯一、天使になれる存在だった。
彼女の心に天使として立ち、途方もない虚無から救い出してやることが出来る。彼女を導き、歌う喜びを甦らせてやれるだろう。その魂に命を吹き込み、あらゆる感情の極みを現し、その声をゆがめることなく伸ばしてやれるだろう。いつしか彼女の歌声は天の極みまで羽ばたく日を迎える。他の誰にも出来ないことだ。だが、彼には出来る。確信があった。
これは導きだ。
彼は思う。
彼女が祈り続けた父親か。あるいは彼を初めて憐れんだ神の御業か。
それが、互いにとって唯一天使になれる存在を、導き合わせた。
「クリスティーヌ……」
ファントムは記憶にあった娘の名を呟く。それはかつてないほど甘い陶酔を伴って彼の中に響いた。
こうして、運命の輪は回り始める。