美しいものはすべて彼の中にあった。
音楽、建築、彫刻、絵画、服飾──芸術、という名の付く芸術。
その地底の住人の
内部世界には人類が到達しうる美の極致の一端が、確かにあった。
けれど、そうした数々の美は、ほとんどが世に示されることはない。どれほど内面に美しいものを生み出しても、外面的な醜さから世界は彼を拒絶した。
あるいは拒絶したのは神だろうか、時に彼は考える。
彼が生まれるより以前に、神こそが彼を拒絶したのだろうか。
尋ねるだけはできても、人に過ぎぬ彼には答えの知りようのない問いだった。どれほどの才を持ってしても、彼には神の声など聞こえない。
ただひとつ、少なくとも拒絶したのは彼からではない、とだけは言えた。それは確かだ。神にせよ世界にせよ、拒絶したのどちらが先かと問われるなら、いつも、何に対しても、間違いなく彼からではなかった。
それとも哀れな姿に生まれついた生き物に対する、神のせめてもの恩恵がこの天才か。
たしかにそれも考えないわけではない。この内面に生まれ出ずる美こそが、神の慈愛の証であろうかと、考えたことがないわけではなかった。
だが同時に、彼にとってすればこの運命の前で天才がどれほどの意味をなすのかと、そう怒鳴り散らしたくなることの方が多かった。化け物じみた風貌に相応しく、地の底をはいずり回る程度の知恵しか持たなければ、むしろ彼の苦しみの大半は初めから存在しなかったろう。
だから、彼はこの運命を与えた神を──あるいは悪魔がこんな子どもを生み出すことを許したもうた神を呪った。
そう、呪っていたこともあった。
しかし、それすらもすでに過去のことだ。
神を呪うのは、本当は救いを求めているからだと、彼はいつしか気づいた。神には救うだけの力と慈悲があると信じているからだ。神にそんな優しさがあるのなら、初めからこんな運命の生き物など生まれまい。その矛盾に気づいた瞬間に、彼の中から神への幻想もろとも呪いも消え去った。
だから彼が陽も射さぬ地の底でひとりでもかろうじて生きていけるのは、神への祈りに支られているからではない。
彼が自らの中に至上の美を思い描けるからだ。
その美こそが彼にとっての救い主だった。
ならば、少なくともこの地底の王国では自らこそが神かも知れないと、彼は思う。さすがにそれは傲慢だと自嘲を禁じ得ないが、彼の中から生まれ出ずるものは確かにそれほど美しかった。
だが、そんな信心に乏しい彼にとってもオペラ座の寄宿舎に付属するその礼拝堂は少しばかり特別だ。美しいステンドグラスはなく、賛美歌が奏でられることすらない礼拝堂ではあったが、そこは彼が初めてオペラ座に足を踏み入れた場所だ。決して名匠の手による物とは思えない壁画の天使たちは、初めて見た時には目に鮮やかだった。なんら感慨を持たずにその場を素通りできるほどには、彼の心は死んでいない。
けれど、その礼拝堂にここしばらくオペラ・ゴーストは近寄っていなかった。変わった娘がひとり、頻繁にそこを訪れるためだ。
まだ幼い娘だった。
初めはずいぶん信心深い娘だと、彼は思った。
そして、すぐにそれが誤解であることを知った。
彼がオペラ座にかくまわれた直後ならともかく、今は滅多になくなったことではあるが、それでもマダム・ジリーと呼ばれるようになった恩人と直接的なコンタクトを彼が取る際に使われる場所は、その礼拝堂だ。だからその場にはあまり他者に居座られたくはない。幸い、修道院ならいざ知らず虚栄心に富んだオペラ座の寄宿舎には、さほど信仰に篤い娘がいるわけではない。いたとしても幽霊として少しおどかしてみせればたいがいの者は逃げ去った。そうすることで、その娘がやって来るまではうまくいっていた。
だから彼は、……少し可哀想ではあったが……、その幼い娘もいつものように驚かせようとしたのだ。
そうして、それが間違いだった。結果はまったく予期せぬ方角を向いた。
その娘は"幽霊"の声を"天使"の声だと思い込んだ。
それ以来、娘はさらに頻繁に礼拝堂へ足を運ぶようになり、応えない声に向けて懸命なまでの祈りをささげる始末だ。
「変わったところのある娘です」
仕方なく夜も更け込んだ時刻に、久しぶりに接触を取った相手はそう言った。
「わたしの生徒ですけれど」
結婚してダンサーから引退した女性は続ける。彼女はそう遠からぬ内にこの劇場のバレエミストレスになれるだろう、と言われていた。現役当時の才能も捨てたものではなかったが、バレエ教師としての彼女には、何より優秀なアドバイザーが存在している。
「孤児のためか……そうした育てられ方をしたのか……ひどく夢見がちなところがあって」
夫人は溜息をついた。
「特に<音楽の天使>でしたか。亡くなった父親が、繰り返し繰り返し聞かせていたようですよ」
そうらしいと彼も無言で頷いた。
信心深いのかと思っていた問題の娘は、この礼拝堂で神に祈りをささげているのではなく亡父との会話を試みているに近かった。彼女が口にする<音楽の天使>の話などはもはや迷信のたぐいに属するもので、神父が聞けばその怒りを買うことだろう。
夫人はわずかに目を細めた。
「あなたは天使の来訪をお受けになったことがあって?」
「その娘には、音楽の天使などいないと、早く教えた方がいい」
恩人の問う意味を察して、彼は淡泊に答えた。
選ばれた者に訪れる<音楽の天使>。いわば天才への使者、奇蹟の導き手。
いかにも美しいおとぎ話ではあったが、そんなものが存在しないことを彼は知っている。
彼の中に存在する美は絶対だ。だが彼は神にも、神の使者にも縁がない。
喉元まで来ていたそんな言葉は、しかし口にはしなかった。言わずとも、この聡明な女性にはおそらくわかっているだろう、と彼は思う。夫人が小さく零した苦笑混じりの溜息が彼女なりの理解を物語っていた。
「出来るだけ、ここには近づかないように言い含めましょう。それでなくとも、あの子はもう少し熱心に練習する必要があるのです」
音楽の天使などに祈っている場合ではないということか、と思った彼は、単純な疑問に行き当たった。
「ダンサー志望の娘が、なぜ<"音楽の"天使>を待つ?」
「ええ……」
マダム・ジリーは、珍しくわずかに驚いた表情を見せた。それは、彼が何かを問いかけることが更に珍しいことだったからだろう。
「ええ、ムッシュ。あの娘は、元からダンサー志望というわけでもないのです。本当なら、コーラスガールとして歌のレッスンを受けるはずだったのですけれど」
そちらは駄目で、と少し歯切れの悪い調子で夫人は言う。
「ダンサーとしては骨格にも、容姿にも恵まれています。身のこなしにも才能が感じられますし、リズム感は申し分がない。あとは努力と、現実で生きていく強さが必要な娘です」
歌に才能がなかったと聞いた時点で、その娘に関する話は、すでに彼の興味の大半を引いていなかった。彼は娘の行動についてはマダム・ジリーに任せることにして、このストイックな密会の本来の目的に戻る。
バレエ団の構成について群舞の中で見るべきものがある数名の名を挙げ、それぞれの癖や修正が必要な点を伝えた。逆に調和を形成するに至れないレベルの数人にも言及した。
彼の言葉を記憶したらしきマダム・ジリーは礼を言い、それからふと何かを思い出したように顔を上げた。
「あの子の歌をお聴きになったことがお有り?」
すでに、その話題は彼にとっては過去のもので、夫人の言うところの"あの子"が問題の娘だと気づくのに、彼は半瞬の間を要した。
「いや」
彼は言葉少なに応える。コーラスガールとしてのレッスンも受けられないのでは、彼の耳に適うはずもない。
「そう……」マダム・ジリーはなぜか一度目を閉じた。「それなら、いいのです」
夫人の言葉の意味をやや計りかねて、彼は改めて恩人を見やる。
だが夫人は目を伏せたままで、改めて礼を言うとそのまま立ち去った。