His World of Unended Night.

 
 
 
 夜中に彼は目を覚ました。
 自然光の一切射さぬその地下で経過した時間を、感覚だけを頼りに把握できる人間は彼くらいのものだろう。遠く地上から聞こえてくるほんのわずかな音、気配、空気の澄み具合、そして体内感覚。このオペラ座の地下深く、長年で培った経験も合わせて彼は時計の助けもさほど借りる必要なく、おおよその現在時刻が推測できる。
 まだ夜明けまでは数時間、最も夜の更けた時刻に目覚めてしまった。
 彼は爪の先まで神経を張り巡らせ、慎重に肉体を制御した上で身体を起こした。そのとき彼が使った集中力は一流のダンサーも赤面して逃げ出すくらいのものだろう。彼はほとんど空気と同化して、何の気配もなく起き上がる。
 彼の脇で眠る女性(ひと)は、安らかな眠りを一切さまたげられることなく静かな寝息を立てていた。
 たとえ主が眠りについている時でもすべて絶やされることはない蝋燭の灯りの中で、彼はしばらく息を潜めてその女性を見守る。色の濃い豊かな髪が広がり、白い顔を縁取っていた。
 その頬に手を伸ばしたい衝動に彼は駆られ、けれど実行はしなかった。彼女の前に姿を現すより前からずっと行われてきた欲求と否定を、触れることをためらう必要のなくなった現在も、彼は儀式のように繰り返している。
 代わりに彼女がまとっているナイトガウンのレースに一度だけ指先で触れた。
 彼女を起こすことのないよう、相変わらず細心の注意を払って彼はベッドから抜け出す。
 彼はそのまま部屋を出て、鏡の前へと向かった。
 

 鏡に映る自分が醜いからと言って、鏡を割っても仕方がない。
 それを彼が悟ったのは至極幼い頃だ。
 前後不覚になるほど狂っている時ならいざ知らず、記憶する限り、彼が意識的に鏡を割ったのは幼い日、鏡に映るものの正体を初めて理解した一度きりだった。
 自分の顔が見るに堪えないものであるという事実が、鏡を割って消えるわけではない。
 その点で、鏡は彼を現実に帰着させた。この世に生ずる絶望に人が耐えられるか、耐えられないか。そんなことは実際に起きてしまう出来事とは無関係なのだ。鏡の前に立つと、彼はいつでもそれを知った。
 そして、それは、美しいひとに愛されても変わらない。
 美しいひと。美しい彼女を手に入れ、彼女に愛され、たとえ彼女と交わったとしても、自分が美しくなれるわけではなかった。
 人の飽くことのない欲深さを、彼は感じる。
 かつて彼が願ったもの、夢見たもの、夢見たことすらなかったものまでが今は与えられている。それなのに、なぜ今も自分は苦しんでいるのか。苦しまなくてはならないのか。
 それは救いがたい疑問だった。
 まるで理性がはるか遠くで崩壊し、情念だけが残ったかのように理不尽だ。
 しかし、悲しみは確かに存在している。──苦しみも。
 鏡に片手を突き、彼はその場に膝をついた。
 鏡に映るのは醜悪な化け物だった。身につけているものだけはご立派だが、それがむしろ滑稽でさえある。いっそ自分の顔を切り裂いてしまいたいという欲求を、彼は覚えた。それは決して理屈の通らぬ考えではないはずだ。むき出しの髑髏の方が、この顔よりはまだ見られるだろう。
 この顔でなければ地下に囚われることなどなかった。
 例え彼女を得ても、彼が地上の住人にはなれないことに、変わりはない。
 それは今までもずっとそうではあった。だが、これほどまで自らの耐え難さを感じたことは、彼を以てしてもかつてない。
 これまでは、他者から自分を切り離せば済んだのだ。彼自身の夢や希望さえ、初めから得られるはずがないと切り離すことが出来た。そして彼は誰にも触れず、触れられない世界を造った。
 それなのに、クリスティーヌはもう切り離せなかった。それだけは出来ない。
 その彼女は外の世界と繋がっている。
 彼女は地上の住人で、彼女が見てきた世界が、彼女を通して彼に触れて来る。
 彼女とともに地上に出られたらと。ごくわずかでも彼女と普通の人間のように生きられたらと、決して叶わない眩しい夢を彼に見せるのだ。
 そのとき、この醜さが彼にはあまりにも耐え難い。
 

 どれだけの時間、その耐え難さに打ち震えていたのか。
 彼は人の気配を間近に感じて、右半面を覆ったまま顔を上げた。
「……クリスティーヌ……」
 そのひとの姿を見上げ、彼は呟く。薄暗がりの中で彼女は悲しみに堪えない表情で彼を見下ろしていた。
 クリスティーヌはゆっくりと、彼のすぐ脇に膝をついた。彼女の動きは優雅で、静かで、天使が舞い降りたかのような錯覚を与える。
「どうしたの……?」
 天使は哀れな化け物にそっと手を伸ばした。彼の隠していない方の顔に、指先が触れそうになる。
「どうしたの?」
 なんでもない、と。
 そう言うべきだと彼は思った。彼女は、与えられる限りのものを彼に与えてくれている。こんなに悲しい顔をさせてはならないのだ。自分が苦しめば苦しむほど、今は彼女も苦しむことがわかっていた。
 けれど声は出なかった。
「手をどけて……?」
 かすかに眉根を寄せた表情のままで、天使は言う。
 彼は一度ためらい、それからそっと手を離した。
 彼女の前で顔をさらすことは、もう、それほどには恐れていなかった。彼女がこの顔を拒絶しないことを知っているからだ。だからこそ、彼は誤解しそうになる。自分の顔が恐ろしいものではなくなったかのように、誤解しそうになった。
 けれど。
 彼は思い直して鏡を見る。
 鏡の中には得も言われぬほど美しい天使と、到底直視できないほどに醜い異形の怪物がいた。その醜い生き物が自分だと思うと、それだけで発狂しそうだった。叫び出し、走り出し、泣き喚き、この地底の湖に身を投げたくなる。
 天使もまた鏡に目を向けた。
 彼女は、しばらく無言で悲しげに鏡の中の彼を見ていた。
 やがて彼がたまらなくなって目をそらすと、少し遅れて彼女の手が肩に触れた。そっと引き寄せられる力に彼は身を委ねる。男は目を閉じたまま天使の膝に顔を埋めた。
 軽い手が彼の頭をゆっくりと撫でる。
 彼は天使の膝ですすり泣いた。